第7話 兄弟の形見(前編)
形見とは、残された者が“後悔しないため”のものだと、ぼくは思う。
けれど、形見はときに“遺された誤解”も一緒に抱えてしまう。
だからこそ、その想いは、解かれなければならない。
ユリエル・カグヤは、北東の川沿いにある小さな集落、サルディアを訪れていた。
赤土の壁と青い屋根が並ぶこの村には、どこか「時間が止まっている」ような感覚があった。
道を歩いていると、村人たちのささやきが聞こえる。
「……あの兄弟、また言い争ってたよ」
「形見のことで、もう五年目だろ。いい加減に仲直りすればいいのに」
「兄貴の方は頑固だし、弟も引かないし……あんなに仲の良かったふたりだったのにな」
その言葉に、ユリエルは足を止めた。
(……形見? それも、兄弟で?)
そう思った瞬間、視界の端に、二本の“糸”が浮かび上がる。
それぞれ、引きちぎられたようにバラバラに震えていて、けれどどこかで絡み合い、解けずに揺れていた。
村のはずれ、小さな農具小屋の近くで、男たちが言い争っていた。
「なんで、今さらそれを出してくるんだ。形見は俺が預かるって、親父も言ってただろ!」
「兄さんばっかり大事にされて……。俺が何を言っても、全部“弟だから”で片付けてきたじゃないか!」
「それとこれとは話が違うだろ。親父が生きてたとき、ちゃんと話してただろ!」
兄──ナダル、弟──リーヴェ。
彼らはかつて、村でも有名な“気の合う兄弟”だったという。
だが父が亡くなり、“形見”を巡って口論が始まり、以来ほとんど口をきかなくなった。
その形見というのは、一本の木彫りの杖。
村の守人として使われていたもので、父が愛用していたものだった。
ナダルは村の長老に近い立場を受け継ぎ、杖を預かった。
だがリーヴェは、それが納得できなかった。
「……親父は、俺に渡すつもりだったんだよ。病床で話してくれたんだ。
“この杖はお前に似合う。兄貴は立派にやってる。だから、お前が歩いていくための支えにしてほしい”って……!」
「嘘だ。そんなの、聞いてない……!」
「言わなかっただけだよ! 言える空気じゃなかった……兄さんは、全部“正しいこと”で押し切るから!」
その瞬間、二人の糸がぐっと震えた。
ユリエルは、その空気の裂け目に、ため息のような感情を感じ取った。
(……これは、言葉にならなかった“思い違い”だ)
ぼくは彼らに声をかけることはせず、夜の村を歩いた。
その糸の先を辿るように。
父──アディル・エルトゥスの墓は、村の丘にあった。
その墓のまわりに、木彫り細工が散らばっていた。
ユリエルが触れると、かすかに糸が光を放つ。
そこには、父が最後に書き残した“言葉”の記憶が、淡く残っていた。
「ナダルには、村を任せた。強く、真っ直ぐな男だ。
だが、リーヴェには、自分の道を歩いてほしい。
あいつは、風のようなやつだ。まっすぐじゃなくても、誰かを癒せる」
「だから、あの杖は、リーヴェに渡してほしい。
歩くためじゃない。……見失わないために、あいつに持っていてほしい」
それは──兄を否定したものではなかった。
それぞれの“歩み”に応じた、深い愛情の振り分けだった。
でも、それは誰にも伝わらなかった。
伝言を託された老司祭は、病に倒れて寝込み、言葉は失われたままだった。
(……これが、断絶の原因か)
ぼくはそっと糸に触れた。
老司祭が倒れたとき、手紙があった机に残された木彫りの破片──
その配置を、ほんのわずかに変えた。
翌日、その机を整理していたナダルが、偶然そこに隠れていた父の最後の手紙を見つけるように。
それは、ごくささやかな、でも確かな“手助け”だった。
次の日の朝。
村の広場に、人々が集まっていた。
兄弟が、杖をはさんで立っていた。
ナダルが震える手で、一枚の紙を差し出していた。
「……これは、父さんが残した手紙だ。昨日、司祭の家で見つけた」
「そんな……」
「そこに、こう書かれてた。
“杖はリーヴェに。歩くためじゃなく、見失わないために”って」
リーヴェは目を伏せた。
唇を震わせ、顔を上げたとき、涙が頬を伝っていた。
「……なんで、俺たちは、こんなにすれ違ってたんだろうな」
「お前が憎かったわけじゃない。ただ、何が正しいのか分からなかったんだ」
「俺もだよ。兄貴を責めてれば、気持ちが整理できる気がしてた……でも、ずっと寂しかった」
ナダルは、そっと杖を弟に差し出した。
「持っていけ。父さんの言葉どおり、お前が“見失わない”ために」
「ありがとう……兄さん」
それは、五年分のわだかまりがほどけた瞬間だった。
広場の誰かが、涙を拭っていた。
そして、二人が肩を並べて歩き出す姿に、村人たちは心から拍手を送った。
その晩、ユリエルは丘の上で、再び糸がほどけていくのを見届けた。
形見が渡されたからではない。
言葉が届いたから──いや、ようやく“言えなかった言葉”が解かれたからだった。
「思いは届かないこともある。
でも、伝える努力をあきらめないことで、再び結び直すことができる」
父が遺したものは、杖ではなく、“二人で歩いていけ”という想いだったのだろう。
ぼくは、静かに空を仰いだ。
優しい風が吹いた。