第5話 守護者の秘密の重荷(前編)
──“誰かを守る”ということは、
時に“誰も近づけない”ということでもある。
ユリエル・カグヤが次に訪れたのは、山間にひっそりと築かれた村、クレイストだった。
村の入り口には、古びた石造りの門があり、通るたびに金属音が軋む。
空気は澄んでいたが、どこか人々の目は硬く閉ざされていた。
その理由はすぐに分かった。
「近寄るな!子どもたち、こっちに来なさい!」
厳しい声が、風の中に響く。
声の主は、村の中央にある石の祠を守る女──イレーア。
背は高く、背筋はまっすぐ。
剣は腰に帯びたまま、祠の前に立ち尽くしていた。
その目はまるで、過去と誰かを睨んでいるようだった。
「イレーア様は……あの場所を“封じてる”のさ」
村人の一人が、ユリエルに小声で教えてくれた。
「あの祠は昔、事故があったんだ。子どもが一人、崩れた石に挟まれて……それからだよ、あの人が一人で見張るようになったのは」
「誰も責めちゃいないのにさ、本人はずっと……“あれは私のせい”だって思い続けてるんだ」
村人の声には、敬意と哀れみが混ざっていた。
ユリエルはその夜、祠を遠くから眺めていた。
石の陰、木々の間。
そこに“糸”が、はっきりと見えた。
イレーアの胸から伸びる、太く、けれど傷だらけの糸。
それは、祠の石碑へと繋がっていた。
彼女が、そこに何を置いていったのか。
そして、何を背負い続けているのか──。
翌日、ユリエルはイレーアに話しかけてみた。
「こんにちは。何かあったんですか?」
「立ち入り禁止だ。帰れ」
それだけを言って、彼女は視線すら寄越さなかった。
けれど──
彼女の後ろで、糸が震えた。
(……声をかけるたびに、少しだけ、緩む)
ユリエルは数日間、村の子どもたちと遊びながら、毎日彼女に挨拶だけをした。
「おはようございます。今日も守ってるんですね」
「こんにちは。昨日より風が強いですね」
「こんばんは。今日、子どもが描いた絵を見ましたよ」
……何も返ってこない。
でも、何かがほんの少しずつ、変わっていく気がした。
ある夜、雨の音に混じって、祠から誰かの嗚咽が聞こえた。
ユリエルが近づくと、イレーアが石の前で膝をついていた。
「……あのとき、私が、声をかけていれば」
「雨が降る前に、石の補強をしていれば」
「……剣を振るだけじゃ、守れないんだな……」
彼女は、自分の手を何度も見つめていた。
その手は、鍛えられているはずなのに、震えていた。
ユリエルはそっと糸に触れた。
そこには、あの日の“一瞬”が結ばれていた。
事故の前、イレーアは確かに子どもたちを呼び戻そうとしていた。
だが、ある子が工芸品に興味を示し、彼女が一瞬気を逸らした──その隙に、崩落が起きたのだ。
──でも、その工芸品には“緩んだ台座”があった。
ほんの少し気づくだけで、事故は防げたかもしれない。
それを、彼女はずっと悔やんでいた。
(……なら)
ユリエルは、静かにその糸に“ささやかな変更”を加える。
風の向きを変え、彼女の足元の石が転がるのを少し早める。
それによって彼女の視線が工芸品の異変にわずかに気づく、という“記憶”が生まれるように。
時間を戻すのではない。
過去の断片に、新たな「解釈の余地」を加えるのだ。
翌朝、イレーアはいつものように祠に立っていた。
だがその顔に、少しだけ違和感があった。
戸惑い。安堵。困惑。
言葉にならない感情が、目の奥に揺れていた。
「……あのとき、石の台座が少し傾いてた。私……たしかに、それを見た気がする」
ぽつりと呟いた彼女の肩から、何かが音もなく外れた。
その日、彼女は村の子どもに初めて声をかけた。
「……その棒、危ない。ほら、代わりにこれを使いなさい」
子どもは驚き、そして笑った。
「ありがとう!お姉ちゃん!」
イレーアは戸惑いながらも、うっすらと微笑んだ。
その様子を見ていた村人たちは、誰もが静かに目を潤ませた。
祠の前に置かれていた、彼女の剣はその夜、そっと鞘に収められた。
「ずっと、ここに囚われてたのは……私の方だったのかもしれないな」
イレーアはそう言い、空を見上げた。
「……もう少し、風の音を聞いてみようと思う」
それは、彼女が自分を許すための第一歩だった。
ユリエルは、その光景を遠くから見ていた。
風が木々を揺らし、葉が舞う。
イレーアの糸は、静かに結び直されていた。
「誰かを守るために、誰かを拒んでしまう」
そんな痛みの向こうにあるのは──、
「守れなかった過去を、そっと癒す現在」だった。