第4話 吟遊詩人の失われた歌(後編)
音は、想いを越えて届く。
言葉にできなかった感情さえも、旋律はやさしく伝えてくれる。
ラゼルが演奏を再開してからというもの、村の空気がほんの少し、変わりはじめていた。
広場の音楽を聴こうと、遠くから人が集まり、久しく姿を見せなかった老人たちまで顔を出した。
商人は足を止め、子どもたちは演奏にあわせて手拍子を始める。
音が、村に“風”をもたらしていた。
だがそれ以上に、ラゼル自身の変化ははっきりしていた。
かつて、俯きがちだった背中は伸び、誰とも目を合わせなかった彼が、子どもに「ありがとう」と笑顔でパンを分けていた。
「……俺は、ずっとあの日のまま止まっていた」
夜、焚き火の前でラゼルはそう言った。
「セイラが去ったのは俺のせいだと、勝手に思い込んで、すべてから目を背けていた。でも……違った。俺は、想いを受け取る前に勝手に閉じてたんだ」
ぼく──ユリエル・カグヤは、黙って聞いていた。
彼の背後から揺れる“糸”は、今はまっすぐに光を帯びていた。もう、断ち切られたままではない。
「彼女にもう一度会えるかはわからない。でも、今なら言えるよ。ありがとうって」
彼はそう言い、リュートを抱きなおした。
「……ユリエル。お前は、何者だ?」
「ただの旅人ですよ。ちょっと変わった目を持っただけの」
「目、ね……。なら、お前の“耳”にも、この音が届くといい」
そのとき──ラゼルの手が動いた。
リュートの弦がふるえ、音が広場を満たしていく。
今までと違う、希望と記憶が織り込まれた音だった。
曲は“再会”の旋律だった。
けして派手ではない。
けれど、一つひとつの音が丁寧で、あたたかくて、聴いている人の心にすっと染み込んでくる。
涙をこぼす老婆。
そっと肩を寄せ合う夫婦。
子どもを背負った若い母親が、遠くの空を見つめていた。
それぞれが、過去の誰かを思い出していた。
別れた人。亡くした人。
伝えられなかった“ありがとう”や“ごめんね”が、胸の奥でそっとほどけていく。
──これが、音の力だ。
ぼくは思った。
ラゼルの音は、過去の傷に蓋をするのではない。
そっと糸を引き寄せ、ほつれを結び直すように、人の心を繕っていく。
それは、ぼくの力とは違うかたちの「癒し」だった。
夜が更け、ラゼルの演奏が終わったあと、彼は一枚の紙切れをぼくに差し出した。
「これは……?」
「手紙だ。あのとき見つけた、セイラのやつを写し取った。自分のためにも、いつか誰かに歌として伝えたいからな」
彼は少し照れくさそうに言ったあと、まっすぐぼくを見た。
「だが……これはまず、お前に渡しておきたい。あのときの手紙が見つかったのは、偶然なんかじゃない。お前の“目”がなかったら、俺はいまだにあのままだった」
「……ありがとうございます。でも、それはセイラさんの想いが届いたからです。僕は、少し手伝っただけです」
ぼくはそう返しながらも、その言葉が胸にしみた。
ほんの少しでも、誰かの心を軽くできたのなら、それで十分だった。
次の日の朝。
ラゼルは村を発つことを決めていた。
「……俺も、もう一度旅に出ようと思う。新しい歌を探しに、な」
広場では、村人たちがこっそり花を用意していた。
「この村の名前は“エレメア”。エレメアには“響きの泉”って意味があるんだってさ。……今なら、それがわかる気がする」
ラゼルはそう言って、最後に一曲だけ短い曲を弾いた。
それは、まるで別れではなく、“続きの始まり”のような曲だった。
彼が去ったあと、ぼくは村の小道を歩いていた。
とある古井戸のそばで、ふと誰かの声が聞こえた気がした。
「……あの人、ようやく笑ってくれた」
風の中にかすかに混ざる、懐かしい響き。
まるで──誰かが見守っていたかのように。
ぼくはそっと、糸に触れた。
まだ完全には消えていない、セイラの想いの名残。
(きっと、あなたの“音”も、この村に残ります)
その想いを胸に、ぼくはまた旅に出た。
音が残した温もりとともに。
「想いは、言葉よりも静かに、確かに届く」
それを信じられるかどうかで、人の運命は変わる。