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第3話 吟遊詩人の失われた歌(前編)

──音が、途切れていた。


それは風の中に、ぽつんと置き去りにされた旋律だった。


町の広場の隅。

朝市が終わった後の静けさの中で、ひとりの男がリュートを奏でていた。


古びた衣。ほどけかけた靴紐。

演奏に耳を傾ける者は誰もいなかった。


彼の名はラゼル。

かつて名を馳せた吟遊詩人。だが今は、音を失った詩人として知られている。


ぼく──ユリエル・カグヤは、パン屋の町を後にして最初に訪れた村で、その音の“空白”に出会った。


彼の奏でる曲には、明らかに足りないものがあった。


感情でも技術でもない。

まるで、「誰かと分かち合うための言葉」が、ずっと喉につかえているようだった。


広場の片隅で静かにリュートを抱くその姿は、まるで自分自身を弔っているように見えた。


「……彼、昔はすごかったんだよ」


宿の女将が、ぽつりと語ってくれた。


「踊り子の女とコンビで、旅をしながら歌って踊って。まるで絵本の中の話みたいだった」


「でもね、その彼女が突然いなくなったの。別れも言わず、置き手紙一枚もなくて」


「それ以来、彼は人前で歌わなくなった。音だけが残って、気持ちはどこかに置き忘れたまま……」


ユリエルは静かに頷いた。

その話の間、女将の後ろにきらめく“糸”が見えていた。


それは、ラゼルの心から伸びる糸。

細く、震えるように、そして何かを探し続けるように漂っていた。


その先には、たった一つの名が浮かんでいた。


──セイラ。


夜。

村のはずれの湖に、ぼくはラゼルを見つけた。


彼は焚き火を前に、リュートを手にしていた。だが、弦は弾かれていなかった。


「……きみ、俺の演奏を聴いてたな」


ラゼルは、火の向こうから静かに言った。


「音だけで、人を惹きつけられると思ってた。言葉なんてなくても、通じると思ってた」


「でも──俺は、独りよがりだった。セイラは、ずっと……」


彼は言葉を切った。


そのとき、ぼくの中に、糸が走った。


その糸は、彼の記憶の一点に強く結ばれていた。


──セイラが消えた、最後の日。


その日、彼女は踊らなかった。

ラゼルはそれを「機嫌が悪い」と思い、最後の舞台の出来にも怒りを感じた。


けれど、真実は違った。


彼女はそのとき、すでに「旅立ち」を決めていた。


大きな街に呼ばれた新たな舞台。それは夢への一歩だった。

だが、彼を裏切るようで、告げる勇気が出なかった。


──そして、言葉を失ったまま、彼女は去った。


ラゼルは知らない。

あの日、彼女が書いた小さな手紙が、雨に濡れ、落ち葉の下に紛れていたことを。


彼女が最後に込めた“想い”が、ほんの少しの運命の綾で届かなかったことを。


その糸に、ぼくは手を伸ばす。


静かに、傷ついた紙を一枚、そっと持ち上げるように。


──時間を巻き戻すのではない。

ただ、落ち葉の向きを、少しだけ変える。

水たまりの位置を、微かにずらす。


「気づいて」と願ったその一念に、ただそっと、寄り添うだけ。


翌朝、ラゼルは湖のほとりで、朽ちかけた木箱を開けていた。


「……なんで、こんなところに」


彼が取り出したのは、色褪せた布に包まれた一枚の紙。


破れかけた端。インクがにじんだ文字。

けれど、そこには確かに、優しい筆跡でこう書かれていた。


「あなたと過ごした日々は、私の宝物でした。

 私は、私の夢を選びます。

 でも、あなたの音は、ずっと私の中にあります」


「ありがとう。心から。

 さよならではなく、いつかまた──きっと」


ラゼルは動けなくなった。


手紙を胸に抱き、何度も目を閉じ、そして──


涙をこぼした。


「……俺は、誤解してた。ずっと、恨んで、許せなかった。でも……セイラ、お前は……」


声が震える。


けれど、その震えは、苦しみではなかった。


それは、音を取り戻すための、最初の震えだった。


その夜、広場にはかつてのラゼルの演奏が戻っていた。


でも、それは以前とは違った。


ただの技巧でも、見世物でもない。


彼の音は──誰かを想う、祈りのような優しさを持っていた。


♪――


一曲が終わるたびに、聴いていた人々の目が潤んでいた。

音の力が、心をそっと撫でるように流れていた。


誰もが、それぞれの“誰か”を思い出していた。

大切な人。別れた人。過去の自分。


そして──もう一度、前を向こうと思っていた。


ユリエルは広場の端で、ラゼルと目が合った。


「きみ、名前は?」


「……ユリエルです。ただの旅人です」


「そうか。ありがとう、ユリエル。きっと……きみのおかげだ」


そう言って、ラゼルは深く一礼した。


ユリエルは首を横に振った。


「いえ……あなたの音が、戻ってきただけです」


風が、リュートの余韻を運んでいった。


月明かりの下、村全体が静かに包まれていた。


まるで──誰かの心が、ようやく安らいだ夜だったかのように。


「ありがとう」と「ごめんね」が届いたとき、

人は再び、歌を取り戻す。



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