表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

第2話 パン屋の後悔(後編)

パン屋の朝は、いつもと同じように始まった。

いや、彼にとっては「変わらないように見えた」だけだったのかもしれない。


「……まったく、またパン生地が気泡だらけじゃねえか。年を取ったな」


誰に言うでもなく呟き、膨らんだ生地を見つめる。

だが、その目には微かに、何かが宿っていた。


それは、夢の残滓。


──昨日、見た夢のせいだった。


夢の中で、息子が笑っていた。

あの頃と変わらぬ子供の姿で、振り返って、ほんの少しだけ困ったような顔をして──それでも、笑っていた。


「……夢だろう。忘れちまえ」


口ではそう言ったが、パンをこねる手には、力がこもっていた。

どこか、もう一度「伝えられるものがある」ような気がしてならなかった。


朝市が始まり、町に活気が戻る時間。


町の人々が小さな袋を手に、パン屋の前に集まり始めていた。

誰もが毎日買っているわけではない。ただ、あの店のパンは「しんとした心に、染みる味がする」と、誰かが言っていた。


「……おっちゃん、今日はどんなパンある?」


声をかけたのは、近所の靴職人の少年だった。

昨日までは、話しかけても「奥で勝手に見てけ」としか言わなかったのに──


「今日は、あんパンだ。あんこ多め。……焼きすぎた」


パン屋は、ぼそりと、けれど確かに答えた。


少年はちょっと驚いて、けれど笑った。


「へえ!ラッキー!」


その笑顔が、パン屋の胸にほんの少し、あたたかさを残していった。


その日、パン屋の男──ゲルド・エアマンは、店を少し早めに閉めて、裏路地の方へ歩いていった。


誰も近づかない、小さな教会の跡地。

そこには今も、枯れた花と風に削られた石碑が、ひっそりと残っていた。


彼はそこに、焼き立てのパンをひとつ置いた。


「……お前の好物だったな、カズナ」


それは、彼の息子の名前。


誰に聞かれたわけでもないのに、彼は小さくつぶやいた。


「昨日な……夢を見た。お前が、振り返ったんだ。怒ってるかと思ったら……笑ってた」


風が吹く。木の葉が舞う。

まるで、その言葉に答えるように、やわらかな風が彼の肩を撫でた。


「……俺は、許されちまったのか?」


自分の言葉に、自分で答えることはできなかった。

でも、その瞬間、肩から何かが落ちた気がした。


今まで背負ってきた“罪”という名の重荷。

あの日、手放してしまった“時間”への後悔。


すべてが一瞬、風の中でほどけていった。


ゲルドの頬を、一筋の涙が流れた。


「カズナ。……すまなかった。……ありがとう」


その言葉を、初めて口にできた。


翌日。


町の人々が、パン屋の異変に気づいた。


「なんだ?今日は、店先に花が飾ってあるぞ」


「え、パンに……リボンが?こんな可愛らしいこと、あの無骨なオヤジが?」


「なんか、パンの香りが違う……優しい」


そして──


「……なあ、見たか?今日のパン屋、鼻歌歌ってたぞ……!」


衝撃の走るようなささやきが、広場を駆け抜けた。


鼻歌。


何年も沈黙と怒号の間でしか暮らしていなかったパン屋が、歌を口ずさんでいたのだ。


それは、かつて息子と一緒にパンを作っていた頃によく歌っていた、古い民謡だった。


客のひとりが、それを聞いて、涙をこぼした。


「変わったんだ……。本当に、変わったんだ……」


それが、町の人々の心をほぐしていった。


パンを買った人は、少しだけ微笑むようになり。

その笑顔を見た人が、少しだけ優しくなり。

その優しさが、また誰かの心を軽くしていった。


小さな町に、静かな“連鎖”が始まった。


まるで、ひとすじの糸がほどけ、編み直されていくように。


その光景を、ぼく──ユリエル・カグヤは、広場の木陰から見ていた。


人々が、笑っていた。

理由もなく、ただ、「今日が少し、いい日だった」と思えるような、そんな顔をしていた。


ゲルドが、子どもに「また来いよ」と言うのを聞いて、ぼくの胸も、少し温かくなった。


(……よかった)


ぼくの“力”は、派手なものじゃない。


炎を出すことも、怪物を倒すこともできない。


でも、こんなふうに、誰かの心の中にある“もつれ”を、そっと解きほぐすことは──できる。


たとえ、その人が気づかなくても。


たとえ、誰の記憶にも残らなくても。


“変わった”という事実は、確かにこの世界を優しくしている。


それだけで、十分だ。


ぼくは、肩に背負った小さな荷物を持って、また次の町へと歩き出した。


その道の先にも、きっと誰かの「ほつれた糸」が待っている。


──パン屋の扉が開く音がした。


ゲルドが、店の奥からひとこと、呟いた。


「……ああ。今日のパンは、なかなかよく焼けてるぜ」


それは、どこにでもあるような、日常の一言だった。


でも、それが彼にとっては──


長い長い後悔の旅路を終えた、最初の“ただの朝”だった。


「今日が、また始まる」

それだけで、誰かの心は救われる。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ