第2話 パン屋の後悔(後編)
パン屋の朝は、いつもと同じように始まった。
いや、彼にとっては「変わらないように見えた」だけだったのかもしれない。
「……まったく、またパン生地が気泡だらけじゃねえか。年を取ったな」
誰に言うでもなく呟き、膨らんだ生地を見つめる。
だが、その目には微かに、何かが宿っていた。
それは、夢の残滓。
──昨日、見た夢のせいだった。
夢の中で、息子が笑っていた。
あの頃と変わらぬ子供の姿で、振り返って、ほんの少しだけ困ったような顔をして──それでも、笑っていた。
「……夢だろう。忘れちまえ」
口ではそう言ったが、パンをこねる手には、力がこもっていた。
どこか、もう一度「伝えられるものがある」ような気がしてならなかった。
朝市が始まり、町に活気が戻る時間。
町の人々が小さな袋を手に、パン屋の前に集まり始めていた。
誰もが毎日買っているわけではない。ただ、あの店のパンは「しんとした心に、染みる味がする」と、誰かが言っていた。
「……おっちゃん、今日はどんなパンある?」
声をかけたのは、近所の靴職人の少年だった。
昨日までは、話しかけても「奥で勝手に見てけ」としか言わなかったのに──
「今日は、あんパンだ。あんこ多め。……焼きすぎた」
パン屋は、ぼそりと、けれど確かに答えた。
少年はちょっと驚いて、けれど笑った。
「へえ!ラッキー!」
その笑顔が、パン屋の胸にほんの少し、あたたかさを残していった。
その日、パン屋の男──ゲルド・エアマンは、店を少し早めに閉めて、裏路地の方へ歩いていった。
誰も近づかない、小さな教会の跡地。
そこには今も、枯れた花と風に削られた石碑が、ひっそりと残っていた。
彼はそこに、焼き立てのパンをひとつ置いた。
「……お前の好物だったな、カズナ」
それは、彼の息子の名前。
誰に聞かれたわけでもないのに、彼は小さくつぶやいた。
「昨日な……夢を見た。お前が、振り返ったんだ。怒ってるかと思ったら……笑ってた」
風が吹く。木の葉が舞う。
まるで、その言葉に答えるように、やわらかな風が彼の肩を撫でた。
「……俺は、許されちまったのか?」
自分の言葉に、自分で答えることはできなかった。
でも、その瞬間、肩から何かが落ちた気がした。
今まで背負ってきた“罪”という名の重荷。
あの日、手放してしまった“時間”への後悔。
すべてが一瞬、風の中でほどけていった。
ゲルドの頬を、一筋の涙が流れた。
「カズナ。……すまなかった。……ありがとう」
その言葉を、初めて口にできた。
翌日。
町の人々が、パン屋の異変に気づいた。
「なんだ?今日は、店先に花が飾ってあるぞ」
「え、パンに……リボンが?こんな可愛らしいこと、あの無骨なオヤジが?」
「なんか、パンの香りが違う……優しい」
そして──
「……なあ、見たか?今日のパン屋、鼻歌歌ってたぞ……!」
衝撃の走るようなささやきが、広場を駆け抜けた。
鼻歌。
何年も沈黙と怒号の間でしか暮らしていなかったパン屋が、歌を口ずさんでいたのだ。
それは、かつて息子と一緒にパンを作っていた頃によく歌っていた、古い民謡だった。
客のひとりが、それを聞いて、涙をこぼした。
「変わったんだ……。本当に、変わったんだ……」
それが、町の人々の心をほぐしていった。
パンを買った人は、少しだけ微笑むようになり。
その笑顔を見た人が、少しだけ優しくなり。
その優しさが、また誰かの心を軽くしていった。
小さな町に、静かな“連鎖”が始まった。
まるで、ひとすじの糸がほどけ、編み直されていくように。
その光景を、ぼく──ユリエル・カグヤは、広場の木陰から見ていた。
人々が、笑っていた。
理由もなく、ただ、「今日が少し、いい日だった」と思えるような、そんな顔をしていた。
ゲルドが、子どもに「また来いよ」と言うのを聞いて、ぼくの胸も、少し温かくなった。
(……よかった)
ぼくの“力”は、派手なものじゃない。
炎を出すことも、怪物を倒すこともできない。
でも、こんなふうに、誰かの心の中にある“もつれ”を、そっと解きほぐすことは──できる。
たとえ、その人が気づかなくても。
たとえ、誰の記憶にも残らなくても。
“変わった”という事実は、確かにこの世界を優しくしている。
それだけで、十分だ。
ぼくは、肩に背負った小さな荷物を持って、また次の町へと歩き出した。
その道の先にも、きっと誰かの「ほつれた糸」が待っている。
──パン屋の扉が開く音がした。
ゲルドが、店の奥からひとこと、呟いた。
「……ああ。今日のパンは、なかなかよく焼けてるぜ」
それは、どこにでもあるような、日常の一言だった。
でも、それが彼にとっては──
長い長い後悔の旅路を終えた、最初の“ただの朝”だった。
「今日が、また始まる」
それだけで、誰かの心は救われる。