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第1話:パン屋の後悔(前編)

――風が、あたたかい。


それは前世の終わりと、今の世界の始まりを繋ぐ、やわらかな境界線だった。


ぼく──いや、ユリエル・カグヤは、朝の光に包まれながら、小さな町にたどり着いた。


この地はアエル・ラフィーナ。魔法も剣もある世界だが、目の前に広がっているのはごく普通の町並み。白い石畳に、低い屋根の家々。市が開かれる広場には、干した果実やパンの香ばしい匂いが漂っている。


「……いい匂い」


つい鼻をくすぐる香りに誘われて、ぼくは一軒の店の前で足を止めた。


看板には「カーヴ・ブレッド」とだけ書かれている。


だが、中から聞こえるのは、笑い声ではなかった。代わりに聞こえてきたのは、低く唸るような、男のため息だった。


がらん、と扉が開き、出てきたのは初老の男。だが、その表情には笑顔がなかった。


「……おい、並ぶなって言っただろうが。焼き上がるのはまだだ」


客は誰もいないのに、男は虚空に向かって吐き捨てるように言った。


その声は、怒っているというより……痛んでいた。



町の人に尋ねると、すぐに噂を教えてくれた。


「ああ、あのパン屋かい? あそこは昔は家族でやってたんだけどな。奥さんと子どもを事故でね……」


「子どもが出て行ったとき、あのじいさん、最後にひどいこと言っちまったらしいよ」


「もう何年も前の話だけど、あの店主、あれから一度も笑ってねえんだ」


話を聞いたぼくの中に、あの店主の姿が浮かんだ。


確かに、怒っていた。でも、それ以上に「許してくれ」という叫びが、表情の奥に宿っていた。


……その夜。


ぼくはまた、“それ”を見た。


きらめく糸。


淡く、揺らめくその光は、パン屋の男に繋がっていた。そして、その糸の先は──過去へと伸びていた。


ほんのわずかな変化。小さな時間の歪み。けれど、そこにぼくは“できること”を見つけた。


夢のような感覚の中、ぼくはその糸に手を触れた。


途端に目の前に広がったのは、数年前の情景だった。


言い争う親子。


「そんな半端な夢で飯が食えるか!」


「でも、パンじゃなくて、自分の道を……」


「ふざけるな!」


言葉は鋭く、重く、そして取り返しのつかない最後の言葉となった。


そのとき──


一陣の風。


糸を通して、ぼくはそっとその風を送った。


突風が、ほんの一秒、少年の足を遅らせる。その間に、男の手が、肩に触れる。怒りではない、名残惜しさのこもった、ただの“父親”の手。


そして少年は、驚いたように振り返る。


その一瞬が、運命の端にささやかな「修正」を加えた。


それだけだった。


でも、それだけでよかった。



翌朝。


パン屋の男は、開店前の店でひとり、椅子に座っていた。


誰もいない空間で、ぽつりと呟いた。


「……夢を見たんだ。あいつが、振り返って、笑ってた」


誰に向けてでもない独り言。


でも、そこには確かな安らぎがあった。


そして、次の瞬間──


ふわりと、男の口元が緩む。


「……ったく、あいつめ……泣いてるくせに、強がってやがった……」


その日、町の人々は目を見張った。


いつも仏頂面だったパン屋が、客に「おう、今日はいい天気だな」などと話しかけていたのだ。


それだけで、町の空気が少しだけ温かくなった。


「パンの味も、違う気がする」


「……ああ、優しい味だ」


人々は気づかない。


彼が、ほんの少し「過去と向き合えた」ことを。


そして、その小さな奇跡の裏に、“誰かの手”があったことを。


ぼく──ユリエル・カグヤは、広場の外れから、その光景を見守っていた。


誰もぼくの名を知らない。

でも、それでいい。


誰かが、今日を笑って過ごせるのなら。


ぼくはただ、風に乗って次の「糸」へと歩いていく。


──物語の“ほつれ”を、静かに、紡ぐために。



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