プロローグ
人は誰かの物語の登場人物になりたいと願う。
だが、現実は、ページの外で静かにめくられていく――。
ぼくは、ずっと誰かの“役に立ちたかった”。
目立たなくて、取り柄もなくて、いつも人混みに埋もれていた。クラスで孤立していたわけでも、特別嫌われていたわけでもない。ただ、「いた」と言われれば思い出される程度の存在だった。
“空気”と呼ばれる人種は、実はけっこう苦しい。
呼吸はできる。でも、声は届かない。
誰かの痛みを察しても、それを伝える勇気がなかった。
助けたいと願っても、手を伸ばせなかった。
一歩踏み出すたびに、「お前なんかに何ができる」と、もう一人の自分が耳元で囁いてくる。
それでも、ぼくは、誰かの心を少しだけでも軽くしたかったんだ。
その思いだけは、最後まで消えなかった。
──気づいたとき、世界はもう、別の色でできていた。
◆
空が深く、青く、静かだった。
まるで、絹のような薄い布を何重にも重ねたような空。
ぼくは、知らない草原の真ん中に、ひとりで立っていた。いや、横たわっていたのかもしれない。体が軽くて、眠りの余韻がまだ指先に残っている。
風が吹き抜ける。甘い匂いがした。果実とも花ともつかない、懐かしいような、泣きたくなるような香り。
「あれ……?」
ぼくは自分の声を聞いて、違和感を覚えた。
若い。というか、幼い。
手を見た。細い。小さい。まるで、小学生のころのような手。
いや──それよりももっと小さいかもしれない。
周囲に人影はない。木々が揺れ、鳥が鳴いている。聞いたことのない音なのに、胸の奥に響いてくる。
──ここはどこだ?
──どうして、ぼくはここにいる?
立ち上がろうとしたとき、視界の端に“糸”が見えた。
いや──それはたしかに“糸”ではあるけれど、普通の糸じゃない。
光っている。
細く、揺らぎながら、でも確かにそこに存在していて、まるで生き物のように呼吸している。
「……なんだろう、これ」
ぼくは、そっと手を伸ばした。
触れた瞬間、心が震えた。
痛みでも、恐怖でもない。むしろ──やさしさ。
心の奥で何かが共鳴する。これは、誰かの感情だ。誰かが泣いている。孤独のなかで、誰にも言えない苦しみを抱えて。
それは──ぼく自身のようでもあった。
気づけば涙が頬を伝っていた。理由もないのに、ただ泣きたくなった。誰かを、抱きしめたくなった。
「……大丈夫だよ」
そう口に出した瞬間、糸がふわりと震え、そして──消えた。
あとには、何も残っていなかった。
でも、心だけは確かに変わっていた。
何かを受け取り、何かを与えた気がする。
「これが……ぼくの、力?」
そんなこと、誰も教えてくれなかった。けれど、わかる。
ぼくは、誰かのために“糸”を紡ぐことができる。
それが何なのか、どうしてそんなことができるのかは、今はまだ分からない。
でも、それでいい。
ようやく、誰かの物語の登場人物になれる気がするから。
誰も気づかない場所で、ささやかな奇跡を。
誰かの痛みを、そっとほどく糸を。
ぼくは──
こうして、「運命の織り手」の物語が、静かに始まった。