7.鉢合わせる人たち
秋山さんは歌ったことは戻ってきた二人に話すことはなかった。
というか、夏樹と真冬は自作のミックスジュースを生成して二人で飲み比べをして楽しんでいたため気にする素振りもしなかった。
ミックスジュースは夏樹的には不味かったのか、嫌そうな顔をして真冬に笑われていた。真冬もそれを同じように飲んだけれど、なぜかこっちは平然としていた。それのせいか、夏樹はもう一度口にして、再び嫌そうな顔をしていた。
その後は、カラオケはしなかった。真冬がBGM代わりにカラオケで洋楽を流したり、夏樹が面白がって置いてあったドラムセットで遊んだりする以外は、飲み物を継ぎ足しに行ったり、談笑したりして時間を過ごした。談笑の間でも、秋山さんは力無く笑うだけで何かを待っていて落ち着かないように見えた。
あのとき、彼女は何を思ったのだろうか。僕は部屋から出ていけばよかったのか。それとも、彼女の歌を褒めるべきだったのか。未だ彼女が何を思って歌ったのか分からなかった。
カラオケは6時を越すまでには終わっていた。夏樹と真冬はそのまま帰ったため、帰り道は秋山さんと二人きりになった。
いつも話しかけてくるのは夏樹か真冬からで、僕も秋山さんもその会話に乗るだけで、二人きりになると少し気まずい。
道中にスーパーがあるので、秋山さんとはそこで分かれると思っていた。しかし、彼女は僕の予想を遥かに越えたことをしてきた。
第一に、スーパーには見向きもしなかった。まあ、秋山さんのことだから作り置きくらいしていたのだろう。
第二に、スーパーを過ぎたあたりから少し前を歩いていた彼女は、僕の隣を歩いた。それも、肩が当たるギリギリの距離で。
第三に、今彼女は僕の部屋にいる。僕が自室の鍵を開けたらそのまま入ってきた。
なんでいるのかと聞かれたら、彼女がついてきただけです。としか言い様がない。
というか、さっきから何も喋らずソファーに座っていて怖い。何か怒らせることでもしただろうか。
「あの、秋山さん?何か食べます?」
「…(こくり)。」
頷いた。でも、何か様子がおかしい。テストと慣れないカラオケで疲れたのだろうか。何か言ってくれたらはっきりするのに、彼女が緊張しすぎて喋らないから分からない。
誘っておいて何も出さないわけにはいかないので、晩ごはんの準備にキッチンへと向かうと、秋山さんは後ろをついてくる。本当に何なんだ…。
「あれ?」
キッチンで冷蔵庫を開けたとき、見慣れないものが中にあった。それはどこからどう見ても鍋。ラップが被せられているくらいしか特徴がない。冷蔵庫から取り出してコンロへ乗せるとはっと気がついた。
でも、それに気づくには遅かった。後悔というのは後からやってくるという言葉を初めて聞いたときは、心の底からなるほどと思った。そう、後からやってくるのだ。
ガチャっという音が玄関からして、誰が部屋に来たのかはすぐに分かる。
状況とタイミングが悪かった。僕は普段なら脱いでいる靴下を脱ぐ時間がなく着けていた。蒸れた靴下は痩せ気味の高校生を転ばせるのには十分で、そのせいで僕は床の上で滑ってあらぬことかついてきていた秋山さんを押し倒すかのような体勢になってしまう。
音を聞いて焦った、顔見知りの遅れてやってきた『料理人』は僕らの前に現れ、笑ってはいるものの、少し、いや、かなり怒った声でこう言った。
「…そういうのはベッドの上でやってくれない?」
僕たちはお説教を受けていた。『料理人』は、僕たちに怪我がないことを確認するとリビングへと僕たちを連れた。そこで、僕たちを床(秋山さんはクッションあり)に正座させていた。
『料理人』は客人がいるのにも関わらず、自身の履いていた半ズボンを脱ぎ、僕たちの正面にあるソファーに足を組んで座った。ニコニコと笑う顔の奥には、隠れた鬼が住んでいるようにも感じられた。
「いやぁ~、まさか弟くんが既読にしないと思ったら、彼女作って遊んでたなんてね~?」
この『料理人』と表している人は、僕の姉の春川忍で、僕は姉さんと呼んでいる。そんな姉さんは大学三年生を楽しんでいて、週末に暇があると金曜日の午後から僕の部屋に遊びに来ることがある。
今日来るとは聞いていなかったけれど、突然暇になったから来たらしい。ただし、その連絡が来ていたことに気がついたのは秋山さんを押し倒したのを見られた後のことだけど。
いや、僕は悪くない。学校ではスマホの通知が迷惑にならないように、最近までは音も振動もない設定でやっていた。
しかし、今日初めて機内モードが良いと夏樹から進められ、ボタン一つで切り替えられることに満足した僕は、あろうことか機内モードをオンにしたまま通知時に振動がするように設定したため、姉さんの連絡に気がつかなかった。
…やっぱり僕が悪い。擦り付けようとしてごめん夏樹。
「んで、奏ちゃんは弟くんの彼女?」
「え、あ、いや…ち、違う、というか…」
「あっ、ふーん。なるほどね」
秋山さんの控えめな否定で姉さんは僕たちが彼氏彼女の関係ではないことを理解してくれたようだ。でも、どうしてそんなにニヤニヤしてるんですか…?
「その、姉さ…」
「まあまあ、その話はごはん食べてからにしよっか?」
「…はい」
今回の件は確実に僕に非がある。まず、設定を変えたことを忘れていたこと。次に、秋山さんが立ち入るのを拒めばよかったところを拒まずに入れてしまったこと。最後に、足を滑らせて押し倒したところを見られたこと。
秋山さんを入れた3人で、温め直した鍋を緊張した空気の中つついているが、その誰もが黙々と箸と口を動かしていた。
だが、その沈黙は長くは続かなかった。姉さんが爆笑を繰り出したことで。
「…っぷ、ふふ、あははは…!もう、ごはんなんだからもうちょっと楽しく食べようよ!」
「え、あの…」
奏の困惑する様子を気にもせず、箸の持ち手側で秋山さんの頬をぷにぷにと押す。
「ほらほら、奏ちゃんも笑顔笑顔!」
「ひゃ、ご、ごめらひゃい!」
「はいはい。謝らない。弟くんの謝る癖が移った?」
「しょ、しょんなんや、ないれす…」
秋山さんの顔を赤くさせた姉さんは、構われていなかった子犬をあやすように僕の頭を撫でる。
「いや~!もうさ、弟くんも連れてくるなら事前に言ってよぉ~!私は悪くなんて思わないんだからさ!」
「…ごめんなさい、姉さん」
これでも、姉さんはお酒が回っているわけではない。ただ、姉さんは怒るのが苦手で、怒ることすら嫌いなのである。相手に反省の意志が見られれば、普通はそこで怒るのを止める。多分、秋山さんがいたから少し止めるのが遅れただけだろう。
「いいんだよ。心配したけどね」
「う、ごめんなさい…」
姉さんは少し乱暴に僕の頭を撫でて、ふふっと柔らかい笑みを浮かべる。姉さんはいつも優しい。こうやって僕のことを心配してくれるし、きっと帰ってきたときにいなかったのは、僕を探しに行っていたのだろう。
「ただいま。歩」
「うん、おかえり、姉さん」
いつも姉さんが来たときには、姉さんは必ず「ただいま」と言う。僕はそれに「おかえり」と帰すことが定着してきた。
それを見せられていた秋山さんを見ると、少し機嫌が悪そうに見えた。
奏は忍が作ってくれた料理を腹八分目ほどまで食べて手を合わせた。歩と忍が食べ終わってから謝って、自分の部屋に戻ることを決めて、二人が食べ終わるのを待っていると忍と目が合った。
「ねえ、奏ちゃん。後で少しだけ、時間くれない?」
「はい。大丈夫ですけど…?」
「やった。じゃ、弟くんはお留守番で。あ、お風呂入っててもいいよ~」
歩はこくりと頷くと、お茶碗に残ったご飯を食べるのに集中する。一足先に食べ終わった忍は奏を外へ連れ出そうと玄関まで手を引いていく。
「し、忍さん!外に出るなら、その…下は履きませんか…?」
「…あ、ごめんごめん。やりたいことだらけで忘れてた」
忍は歩が洗濯するためにお風呂場のカゴに入っていた、お説教前に脱いだ半ズボンを履いて、奏の待つ玄関に戻ってきた。
「よし。冒険に行こう。奏ちゃん!」
「冒険ですか…?」
「うん。奏ちゃん腹八分目くらいしか食べてないでしょ?」
「え、えっと、たぶん、そうです?」
「じゃあ、私のオススメのデートスポットに連れてってあげる。一般人は絶対に知らないところにね?」
忍は奏が迷った末に断らないことを予想し、ある人に連絡をとっていた。万が一奏が断れば一人で行こうと思っていたが、奏は忍の予想とは少し違ったものの、かなり食い気味に承諾し忍は奏と一緒に目的地へと向かうことになった。
マンションを出てから歩いて3分ほど行ったところには個人経営のカフェがあった。
忍がその店の前に足を止めると、奏も少し遅れて足を止める。
「着いたよ。奏ちゃん」
「え、でも、Closedって看板が…」
「大丈夫だって。30分だけ貸し切りにしてるだけだから」
「えっ、貸し切りですか!?」
奏は忍から一歩後退して驚き、さらに遠慮するようにもう一歩下がる。しかし三歩目は忍に腕を引かれるようにして前へと進み、歩を止める。
「や、闇金ですか…?」
震えた声が忍の耳に届き、忍は優しい声で言う。
「大丈夫。私がここのオーナーだからね」
ぽかんと口を開けて反応しなくなる奏。忍はそれを面白がりながら、抵抗力が小さくなった奏をカフェへと連れていく。
カフェには一人の客がいた。その人は忍たちが入ってきても振り向きもしない。
「久しぶり、日野さん。いや、マスター?」
「えっ!?」
奏が驚いたところで、歩と奏が住んでいるマンションの管理人であり、このカフェの店長でもある日野勇太が振り返る。
「ふふっ、久しぶりだね。忍ちゃん。それと、奏ちゃんも」
「は、はいっ、日頃からお世話になって…」
「ここでは挨拶は不要だよ」
奏がきちんと挨拶をしようとすると、日野さんは奏の話を切るように言葉を挟む。奏は初めてのルールに戸惑いつつもそれに従う。代わりに一礼だけすると、日野さんは笑顔を作る。
「それより忍ちゃん、カウンターでいいかい?」
「いや、今日はテーブル席で」
「了解。好きな席に座って待っててね」
日野さんはそう言うと奥へと下がっていった。
忍は窓に一番近い席を選び、奏もその向かいに座る。奏は制服に皺がつかないように気をつけて座り直してメニューに目を通していると、伝票を持った日野さんが帰ってきた。
「ご注文を承ります」
「奏ちゃん、先どうぞ?」
「えっと、カルピスとプリンでお願いします」
「はい。かしこまりました」
伝票に記録が終わると、今度は日野さんは忍の注文を聞く。忍は慣れたように、メニュー表を見ずに注文をする。
「アイスコーヒーとプリン固めで。あ、あと抹茶アイス」
「クラシックプリンだね。あと、抹茶アイスはないって前から…」
「知ってるよ。オーナーだもん」
「あはは…、そうだよね」
諦めるように笑う日野さんと、それを楽しそうに見る忍、そして、奏はメニュー表をペラペラと捲っている。
日野さんはすぐに営業モードに切り替えて、二人に確認する。
「では、カルピスとアイスコーヒー、プリンがノーマルとクラシックでよろしいでしょうか?」
「大丈夫だよ」
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
綺麗な身のこなしで奥へ行く日野さんを見送り、忍はテーブルに両肘をついて、もう3週は捲り続けている奏へ視線を送る。
「それランチメニューだよ?」
「えっ!?」
驚いた奏は表紙を見ると、『モーニング&ランチメニュー』としっかり書かれている。もう一つのメニュー立てにある『ディナーメニュー』と書かれたメニュー表は忘れられたように取り残されていた。
「まあ、奏ちゃんは見なくてもいいかな?」
「な、なんでですか?」
「え~、気になる?」
「言ってくれないなら見ます」
「軽く言えば、二十歳を越えていないと飲めない飲み物だね」
忍にはメニュー表のどこになにが書いてあることが分かる。だって自分で作ったんだもん。
あと、ディナーメニューの中にプリン単体で頼めるメニューは存在しない。あるのはモーニング&ランチの時間だけだ。
忍がメニューを間違えた奏で遊んでいると、注文を持ってきた日野さんがやって来た。
「はい。これがノーマルプリンで、こっちが固め。ドリンクはカルピスとアイスコーヒーだったね?」
「うん。今日もお疲れ。悪いね、休みだったのに」
「え、本当にClosedだったんですか?」
「夜だけだよ。16時まではやってたよ。まあでも、30分遅れるっていう忍ちゃんからの連絡通りだったけど、何かあった?」
「まあまあ、ねっ?奏ちゃん」
「え、は、はいっ!」
顔を赤くして答える奏を見ながら、忍は頼んだクラシックプリンを崩していく。だが、その手は止まり、小さめのスプーンはプリンを乗せたまま空中で静止する。
「歩の分は…、頼んでないもんね」
「僕も歩くんが来ると思ってたから、在庫二つでキープしちゃってね…」
「まあ、そうだよね。私も本当なら歩を連れて来ようと思ってたし」
奏はその言葉を聞いて、少し申し訳なさそうにする。
そんな奏を見過ごさない忍は、気分が変わっただけだよ。とフォローを入れる。
私が奏ちゃんを連れて来ようと思ったのは、ついさっきのことだ。玄関でローファーが2セット並んで置いてあったのを見て、私は部屋に入った輩を問い詰めようと思っていた。それが、問い詰めるという思いは歩が押し倒していた女の子を見たことで180度方向転換した。
私が奏ちゃんに向けた第一印象は、とにかくかわいい女の子だった。それを自身の弟が連れてきたことにとても喜んだ。褒めたかったけれど、押し倒していたのを見たことで褒めるのは止めた。
歩がわざとしたことではないと分かっていたものの、怪我をしていたら良くないことは周知の事実に変わりない。だから、日頃から急いだせいで怪我をしないように怒っただけだ。
スマホの設定も彼女を連れてくるのも歩の自由だ。私が制限することはしない。だけど、連絡は取れるようにしていてほしい。特に歩は…、いや、今は止めておこう。またこの話をするときがあったらその時に言おう。
とにかく、私は奏ちゃんを歓迎してる。
これからよろしくね。
忍から歓迎を受けた奏は、歩の姉である忍からお墨付きをもらったことに素直に喜んだ。
話と共にプリンを食べ終えた二人は貸し切り時間ギリギリになっていることに気がつき席を立った。忍は記入された伝票を持ってレジを済ます。ワンコインでお釣りが帰ってくる値段だったので奏は驚いた。
帰り道、奏は忍の隣を歩き、お会計について話していた。
「あの、私の食べた分は払うので…」
「いいのいいの。どうせ一人100円だし」
「え?どういう…?」
「お昼時にプリンとドリンクがセットで100円で売られるときがたまにあるんだけど、今日はその日でね。私が先に二つ枠取りして、普通のプリンと固めのプリンを残してもらってたんだ。それで先に奏ちゃんに選んでもらって、残ったのを私が食べる。それで二つで200円。安くない?」
「破格すぎます!」
「まあ、本当は料理に追加で頼むやつなんだけどね」
「え、でも、私たち…」
「…オーナー権限だから多分大丈夫!」
少し間があったのが心配になるも、奏はそこについてはとやかく聞かずに、当たり前かのように歩の部屋に戻るのだった。