4.物語はまだ始まりを迎えない
4月の終わりの球技大会は5月の初めのゴールデンウィークにより完全にほとぼりが冷め、クラスでは話題にすらならなかった。
球技大会の話題は出ないものの、クラスの中にはいくつかの小さなグループができていて、何事にもグループで動くことが多くなっていた。
その中の一つに、夏樹と真冬に加わった歩と奏の四人のグループがある。
奏としては、このグループが一番信頼できるグループだと思っている。そして、ある日の放課後、奏は部活で教室にはいない歩以外の二人に相談を持ちかけていた。
「え?あたしたちに相談?」
「はい。その、仲の良いお二人にしか頼めなくて……」
「お?これは、もしかして俺にも活躍するチャンスか!」
「かなっちの頼み……あたし、気になります!」
連休明けの水曜日、授業は他の曜日とは一限分少なく、早く学校が終わるのを利用して部活に専念したり、放課後に遊ぶ約束をしたりする生徒が多くみられた。
そんな水曜日に教室に残っていた夏樹と真冬は、重役になるのが分かったらしく、軽く意気込んでいるのが分かる。
「私の頼み事というのは――」
昨年度の2月、雪学の受験日に、私は朝から体調が悪く、あまり良くない気持ちで受験教室へと向かいました。
(0356…はここですね)
二つ目の教室で受験番号を見つけて、教室へと入ろうとしたとき、ちょうど教室から出てきた、少し暗い雰囲気の男子生徒が私を見るなり私の体の心配をしてきました。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫ですけど、どうしてですか?」
「顔色が悪いように見えたから…。あ、本当に悪くなったら、何か合図を、いや、ここで席順を見ているふりをしてよ。そうしたら僕が何とかするから」
「わ、分かりました…?」
彼は私の曖昧な相槌に満足したのか、鉛筆を削ったあとのゴミを捨てて教室に戻っていきました。
改めて教室の席順を見ると、私の受験番号が書いてある机が一番左上、つまり、窓側の一番前にありました。
…うぅ、一番前は嫌いです。
私は昔から知らない人に話しかけられることがありましたが、多分顔や体目的な人ばかりだと思っていました。
ですが、先程の名前も知らない彼からはそういう目的を感じませんでした。少し彼のことが気になりましたが、受験のことの方が優先すべきだと思い、午前中に実施される国数英の三教科の最後の足掻きをしようと彼のことは一時的に頭から離すことにしました。
英語の試験が終わりかけた頃でしょうか、急に体調が悪化し始めて、最後の方の問題はほとんど覚えていません。
(気持ち悪い、そういえば、彼は…)
頭の中で彼のことを考えると、不思議と安心感が増していきました。
英語の試験が終わると同時に、午前中の試験がすべて終わりました。私の体調は先程よりは良くなっていましたが、彼に言われたとおり、廊下で席順を眺めてみます。
「大丈夫だった!?」
「え、あ、その、ちょっと悪化してきていて……」
「ここだと視線が集まるし、ご飯とかあるなら持ってこれますか?」
「わ、分かりました」
私が自分の席でお弁当箱を取り出している間も、彼はリュックから何かを出して、準備をしているようでした。
彼は小さな鞄を持って、私を連れて人目がつきにくそうな、試験が行われていない校舎へと移動しました。
人気のない校舎には余分なミーティングチェアがあったので、それを二つほど使って、お昼休みのためにとられた40分を休憩と回復に使うことにしました。
「まずカイロ。貼るタイプだから中に着てる服の上から貼ってね」
「はい」
彼は私がカイロを貼り終わるまで背を向けて、他の何かを鞄から取り出して、私が張り終わるのを待ってくれていました。
「貼り終わりました」
「なら、次はこれを持ってて。お湯が入ってるから、それでお腹あたりを温めて。あとは体力がいるから、持ってきたご飯を食べようか」
「あ、ありがとうございます。その、なんてお礼をすればいいか……」
「お礼はいいよ。朝からつらそうだったから、放っておけなくてさ。だから、これは僕が一方的にしただけ」
彼はそれ以上何も言わず、鞄からサンドイッチを手にして食べ始めました。
一口が小さい彼はまるで小動物で、それを見ていると気持ち悪さを忘れてお昼ごはんを食べることができました。
(名前はなんて言うんだろう)
ただその事が気になり彼自身に聞きたかったのですが、私のせいで時間を使わせてしまった彼に、私は話しかける気は出てきませんでした。
そのとき、彼は食べかけのサンドイッチを包んで、広げたハンカチの上に置くとこう言いました。
「僕のことは気にせず先に教室に戻って。ここは少し寒いから」
「分かりました。その、本当にありがとうございます。午後からも頑張りましょうね」
彼は頷いて、少しだけ手を振って見送ってくれました。
彼のおかげで午後の理科と社会の試験を軽い気持ちで乗り越えられました。でも、受験が終わった途端に溜まった疲れがどっと押し寄せてきたのか、頭がクラクラして先生が話す内容が全く頭に入ってきません。
教室にいた他校の生徒さんが一斉に帰り始めたので、ちょっとクラっとする体を無理矢理動かして流れに乗って帰ろうとしたのですが思ったように体が動きません。
ぼんやりとした視界とふらついた足取りのせいでバランスを崩してしまいました。
その後の私はどうなっていたのでしょう。多分、少しの間気を失っていたと思います。
次に気がついたときには私は学校の保健室にいました。誰かに背負われているのか足が地に着く感覚がありません。でも、不思議と安心感があり、それが誰なのかは何となく分かっていました。
「すみません!保健室の先生はいますか!」
朝から私の心配をしてくれた彼の声が聞こえ、力の入らない体を安心して預けきっていたのでしょう。
「は、はい!保健室担当の河瀬で……」
「このソファー使っても大丈夫ですか?!」
「え、は、はい!どうぞ!」
緊迫した声が飛び交う中、支えが急になくなり、私は座るのには低すぎるソファーと思われるものに座ったようです。なんだか彼の安心感がなくなったのか、怖さと寂しさが襲ってきました。
「えっと、あなた、何か連絡手段はある?」
優しい女性の声が聞こえてきましたが、頭は痛く、声を出すのも辛くて、返事を返せないでいると、私が設定していたスマホの着信音が聞こえてきます。
「これ、あなたのスマホですか?」
声を出すかわりに頷くと、次にお父さんの名前を間違えつつも、誰からの電話なのかを教えてくれます。
「出てもいいですか?」
これにも頷くと、女性は電話をスピーカーモードにしたようで、お父さんの声が聞こえてきます。
『もしもし、奏、大丈夫かい?』
「あ、すみません。私、河瀬と申します。えっと、お父様でお間違いないでしょうか?」
『…はい。もしかして、奏に何かありましたか?』
「その、体調が優れないようでして、今学校の保健室で…」
『何!?奏の体調が!?すぐ行きます!署長!今から半日だけ有給使えますか!』
聞こえてくるお父さんの声に安心して、楽になるように目を閉じてみると、また眠気が襲ってきて重心が右に偏っていきます。
しかし、少し倒れたところで体は受け止められ、反対側に倒されてソファーの表面が冷たく感じます。
『奏!今すぐ行くからな!待っててくれ!』
ピーピーと音が鳴り、電話が切れたことが分かります。きっと、お父さんが迎えに来てくれるのでしょう。
「そうだ、名前を教えてくれますか?外部の利用者の名前は同伴者も書かないといけなくて。記入してくれますか?」
「分かりました」
記入のために離れていく彼の足音で、彼は近くにいたのが分かりました。彼はすぐに記入を終えたようで足音が近づいてきて、さらにもう一人近づいてくるのが分かります。
「体調は大丈夫?」
「…少し気持ち悪いです」
自分でも話せたことに驚きました。きっと、彼が近くにいてくれるおかげです。
「あなた、名前は?」
「…秋山奏です」
目を開けてみると、まだ視界はぼやけたままでしたが、彼が少し安堵した表情で私を見ていました。
それから少し保健室で休ませてもらっていると、お父さんが迎えに来てくれました。お父さんは私の
後からお父さんから聞いたことですが、彼は荷物を運ぶのを手伝ってくれたそうです。
私は併願で地元の公立高校も受験しました。けれど、彼にもう一度会いたいという思いが強く、私はどちらも合格判定をもらっていましたが、会える可能性が高いこの雪校に行きたいと両親に頼みました。雪校は私立高校なので、公立高校に比べればいろいろなものが高いのですが、両親はそれを快く認めてくれました。
「――と、いうことがあって、私、その名前も知らない彼に近づきたいな、と……」
「なるほど。それじゃあ、保健室の名簿を見れば分かるんじゃないか?」
「いいじゃん、なつ。これで解決でしょ!よし、行こー!」
そのまま帰るつもりで荷物もすべて持って教室を出て、三人は一度鍵を返しに職員室を経由してから保健室へと向かう。
その間、奏は夏樹たちにどうやって付き合ったのかを訊いてみたのだが、どちらも誤魔化したため答えを得られなかった。
「そうだ、その『彼』の特徴は何かあるの?」
「見た目は少し暗いイメージでしたけど、内心はとても優しい人でした。特別身につけていたものはなかったはずですし、うーん。そうですね。一人称が僕だったこととかですかね」
「あたしたちと同じ中学校から来た人がいるんだけど、もしかしたらその人とか?まあ、会ってみないと分かんないけど」
「いや、あいつはさすがに違うだろ。一人称は僕だけど、内心優しいやつではなかったはずだ」
「ま、まあ、そこは会って確認してみますから、その思い浮かべた人の批判は止めましょう?」
「「はーい」」
二人はハモったところで、校舎の一階の端にある保健室に着いた。失礼します、と挨拶をして中に入ると、眼鏡をかけた保健室の先生が顔を出す。
「はい。どうしましたか」
「一年E組の秋山奏です。河瀬先生はいらっしゃいますか?」
「はい。私が河瀬です。私に何か?」
「実は…」
河瀬先生に理由を伝えると、先生は申し訳なさそうに「ごめんなさいね」と謝った。
「保健室の利用者名簿は毎年4月で更新して、過去のものは廃棄してしまうの。だから、昨年度の名簿はないの」
「そうでしたか。ありがとうございました。河瀬先生」
「私も役に立たなくてごめんなさいね」
「いえいえ、先生は悪くありませんよ」
先生は奏に思い出せたら随時伝えることを約束して、三人は保健室を出た。荷物もすべて持ってきてしまったので、今日のところはここで解散ということになった。
同じ週の金曜日、週の終わりというのに、放課後の教室には生徒が三人集まっていた。無論、それは奏と夏樹と真冬で、水曜日の続きをしていた。
「昨日はあたしたちが都合が悪くてできなかったけど、歩と一緒にやったの?」
「いえ、春川さんとは勉強をしていました。話すのは少し恥ずかしくて」
その言葉に二人は苦笑いを浮かべる。奏の顔を見ていた真冬は何かを思いついたようで、ゴソゴソと鞄の中をかき回して取り出したのはスケッチブックだった。
「よし、かなっちには記憶にある『彼』の顔を描いてもらうよ!」
「顔ですか、そうですね。やってみましょうか」
そうして15分程度奏のお絵かきが行われて、出来上がったのがデフォルメされた目元が髪で隠れかけた男の子だった。
「あの、かなっち?絵は上手いんだけど、これじゃ判別つけれないと思うよ?」
「ご、ごめんなさい。昔からこういう絵ばかり描いていて、自然とこうなってしまうというか…」
「まあまあ、とりあえずこれで探してみるか?」
夏樹はスケッチブックを横に振ってそう訊く。しかし、これでは『彼』を見つけることは困難だと感じた奏と真冬は首を横に振る。
再び考え始めてしまい、何かいい案がないかを模索する。顔や体、心情に記録などいろいろな観点から『彼』を特定しようとしたが、他にしていないものは…?
「声、ですかね?」
ふと口にしたその意見は、瞬く間に二人に採用された。
「でも、かなっちしか分からないから、私たちじゃ力になれないよ?」
「それこそ一人称が僕の人を探すのが早いんじゃないか?」
「ですけど、多くの人から一人ずつ聞いていくのも苦ではないですか?」
「確かに。かなっちの言う通りだね。時間がかかりすぎるのもあるし、逆に『彼』が大勢に知られるから、もしかしたら名乗り出ないってことになるかもしれないもんね」
奏は再び頭を悩ますことになり、その後も三人で意見を出しあってみたけれど、採用される意見は出なかった。
夏樹と真冬は帰る時間らしく、二人が帰るならと奏も帰ることにした。
奏は自分の部屋に着いて鍵を開けようとするも、鍵が回らず上手く開かなかった。最近鍵穴の調子が悪いように感じられ、ピッキングというのを少し調べていたので、持っていたゼムクリップを伸ばしたり、少し曲げたりしてカチャカチャしていると、ゼムクリップごと右回転して鍵が開いた。
意外とできるものなんだと感心しながら部屋に入ると、少し違和感を感じた。ただ、マンションに着いたときから眠気がすさまじく、記憶を頼りに寝室へと向かっていく。途中で机に鞄が引っ掛かり転びそうになったが、寝るのを優先したかった奏は、その場に鞄を置いて寝室へと行く。
お風呂に入ってから寝ようかと思ったが、ベッドに腰かけた瞬間にその気は失せた。
ベッドで横になると先程まででもかなり強かった睡魔はさらにパワーアップして、今日のところは次起きた自分に任せることにした。
部活が長引いて時刻は18時手前。いつもなら部活も終わり、コンビニで何かを買ってから帰ってきて部屋で買ったものを食べている時間だが、今からコンビニまで行くのも面倒になってきた。
今日のところは作り置きもしていないので非常食でも食べようかと思い、僕は5分という短い帰路に着いた。
僕は部屋の階の廊下で違和感を覚えた。いつもと何かが違うのだ。自分の部屋に近づくにつれて嫌な予感が強くなっていき、鍵穴に鍵を挿してみると少し緩くかかっていた鍵はすぐに開いた。
「えっ!?」
玄関に置いてあった学校指定のローファーを見て、思わず声が出てしまい、部屋の中にいる人に気づかれないように口元を押さえた。
一度外に出て、館銘板を確認するも、しっかり春川と書いてある。
(誰かが間違えて入った?でも、どうやって…?)
いくら考えても不安は消えず、少し気持ちを落ち着かせてから音を立てないようにもう一度部屋に入る。
玄関からの通路は何もされていなさそうだったが、リビングに配置されていた机や椅子の位置が変わっている。
(怪しい人はいないけど、他に変なところは…?)
周囲を見回すと、寝室の扉が少し開いているのに気がつく。
扉を開けるときにキィ…と音を少し立ててしまったが、それを気にさせないほどの驚きがそこにはあった。
そう、制服姿のままベッドに転がった人がいた。
「秋山さん!?」
大きな声が出てしまったのにも関わらず、秋山さんは起きる気配がない。音を立てず眠る彼女をどうするべきかと悩んでしまう。寝ている人を起こしてしまうのも良心に欠ける。
「ん、んぅ…?」
「あ…」
秋山さんの声を聞いて、音を立てたら起こしてしまわないか不安になった僕はその場を動けなくなってしまう。
「ん、んん~。あれ?」
目覚めた秋山さんは上体を起こして伸びをすると、ゆっくりと視線が合わせられ、秋山さんの澄んだ目が何度か瞼で隠された後、秋山さんは少し遅れて驚いた。
「な、なんで春川さんが!?」
ばっと布団で身を隠す秋山さんに、僕はパニックになりながら言う。
「ここ、僕の部屋だから!」
「…えっ」
秋山さんはキョロキョロと寝室を見渡して、ようやく自分の部屋ではなかったことに気がついたようで、持っていた布団から手を離す。
秋山さんはそっとベッドから降りて、僕の横を通りすぎていき、寝室とリビングを繋ぐ扉の境目に立つ。
「そ、その、ごめんなさい!」
「え、ちょっと待って!」
謝ったと思えば急に玄関に逃げていった秋山さんを追おうとしたが、リュックが走るのを邪魔して追うことができなかった。
すぐに玄関から飛び出していったであろう音が聞こえて、部屋の中には誰もいないときと同様の静けさが漂った。
リビングまで出ると、机の横に置き去りにされたスクールバックを発見し、さらにはその上に秋山さんのスマホまで置いてあり、彼女が取りに来るまで待つ方がいいか悩む。
(でも、同じマンションに入って来たなら、部屋はどこかにあるけど……全部屋見て回るか?)
それでは効率が悪すぎる。たとえ見つけたとしても、もし秋山さんが親さんと一緒に住んでいるとならば、秋山さんの親に会ったらなんて言って鞄を返せばいいのか。秋山さんが僕の部屋に間違えて入って、出るときに忘れていってしまった、なんて説明するのも秋山さんが気にしそうで、せっかく連絡先まで交換した友達を失いたくない。
「早く取りにきてくれ……」
そう願うしかない僕はその日の夜何も食べずに秋山さんのことを考えていたら、いつの間にか寝ていたらしく朝を迎えていた。
一方の奏は自分の部屋の鍵を中から閉めて、リビングにまで行く気力もなく廊下の壁に体を預けて膝を抱えて震えていた。
(春川さん怒ってたら謝りに行かなきゃ、でも、今行ったら迷惑かな…。それとも、口も聞いてもらえなくなるのかな…)
自分のために今日も案を考えてくれていた夏樹と真冬の顔が思い浮かび、二人の時間を無駄なことに使わせてしまったのではないか、と奏は深く後悔をしていた。
幸い声が漏れることはなかったが、奏はしばらくその場を動けずじっとしていた。
歩とは異なり、奏は朝のうちに作り置きを用意していたので温めた残りものだけを食べて、仲を少しでも戻せるように歩へのお詫びに何か作ることにした。