17.言いたいこと
ご飯を食べ終わると、今日は秋山さんが先にお風呂に行くことになった。姉さんは僕が引き受けた皿洗いを手伝ってくれた。
皿洗いを終え、手を洗っていると、姉さんが心配そうに聞いてくる。
「弟くん、それどうしたの」
「え? ああ、これ? これは大丈夫だよ」
「ちょっと触るね」
手首はまだ赤いままだ。姉さんの手が触れると、痛みが走る。
「いたっ」
「…冷やすよ」
姉さんは僕の手首を水につけて患部を冷やしてくれる。姉さんに触れられていても、だんだん痛みはなくなっていく。
「なんで言わなかったの」
「だって、心配するでしょ」
「私じゃない。奏ちゃんに」
「秋山さんは、余計に心配させたくないかな」
姉さんは腫れていた手首を優しく撫でる手を止めて僕の顔を覗く。
「どうして?」
「だって、最近落ち込んでるみたいだったから」
「それ、私のせいかも」
姉さんは水を止めると、僕の手をタオルで拭いてくれる。
罪悪感を持っているのか全然顔を合わせてくれない。
「秋山さんに何か言ったの?」
「…その、まあ、いろいろと…」
「忍さん、歩さん、上がりました」
姉さんの言いかけた言葉は中断され、秋山さんが頭にタオルを巻いてからキッチンに顔を覗かせた。
秋山さんは僕の手を拭く姉さんを見て、不思議そうにしている。
「手、どうかしたんですか」
「あ、いや…」
「弟くん?」
姉さんから『言え』と言わんばかりの視線が送られる。
姉さんのことだから、僕がどんな気持ちで言わなかったのか知ってるくせに。
「歩さん、話してください」
「その、実は…」
僕は放課後のことを話した。
深沢先輩という人に会って、無理やり教室に連れ込まれたこと。
一目惚れだったと告白されたこと。でも、それは断ったこと。
秋山さんが好きな生徒がいて、その生徒は僕が秋山さんの近くによくいる人物だから深沢先輩経由で口止めするつもりだったこと。
そして、僕は…
「そうだったんですか」
「ごめん。先に話しておいた方がよかったよね」
「いえ、歩さんが話したくないことを無理に聞いた私も悪いです。だから、歩さんだけが悪いんじゃないです。それに、私はそんな他人を落とそうとする人とは付き合う気はないですよ」
なんだか、少しだけ体と心がスッキリした。話して正解だったかも。
姉さんも話を聞いて……あれ?いない。
「忍さん、先にお風呂行きましたよ」
「ええっ!?」
話を聞いて何か良い答えをくれると思ったのに。でも、それならなんで姉さんは僕が秋山さんに話すように仕向けたんだろう。
場所を変えて秋山さんとリビングのソファーで話していると、廊下を通して姉さんの僕を呼ぶ声が聞こえてきた。
「弟く~ん、上がったよ~」
「あ、忍さん、上がったみたいですね」
「じゃあ、お風呂行ってくるね」
「はい。ゆっくり浸かってください」
僕がお風呂場に行くと、下着と上だけ着た姉さんが髪の水分を取っていた。
なんで下は着ないのかなぁ。誰かの家にお泊まりしたときにしないといいけど。
「話せたみたいだね」
「なんで姉さんは逃げたの」
「知ってたから?」
「核心は言ってないけどね?」
「まあまあ。分かってたから」
姉さんは軽く話を流して、今度は姉さんの話を聞かされる。
服を脱ぎながら聞いていると、姉さんの話が止まる。
「弟くんは女の子苦手だよね」
「えっ!? なんでそうなるの!」
「だって、奏ちゃん見てるときもどこ見たらいいのか分からずにキョロキョロしてるし。バレバレだよ?」
頬が熱くなってきた。
確かに、どこを見ればいいか分からずにキョロキョロしてる!
恥ずかしい…
「好きなの?」
「ひぇっ!?」
「奏ちゃん、どう見ても美少女だし、性格もいい。理想じゃない?」
「お、お風呂入るから!」
その場を逃げるようにして服を脱いでお風呂場に駆け込んだ。
浴槽に浸かりながら秋山さんのことを考えていたら、いつの間にか僕はお風呂場で逆上せたそうで、姉さんに救出してもらったのだった。
歩をお風呂に逃がしてしまい、からかい相手がいなくなったので、奏ちゃんを構うことにした。
「奏ちゃん、ちょっとこっち来て」
「はい、どうしましたか」
とてとてと近寄ってくる奏ちゃんに、私の髪を乾かせてみた。
ん~、やっぱり髪を触るのに慣れてる感じだね。手つきが優しい。
…いや、遊んでるのかな?
そんな感じで奏ちゃんに髪を乾かしてもらっていると、ふわりといい匂いがする。
「あれ?」
「どうしました?」
「シャンプー変えた、というかこの匂い、私のだよね?」
「…!」
あからさまに目をそらす奏ちゃん。だからさっきから距離を作ってたんだね。私がお風呂に行ったときもわざわざ道開けてたし。
「ごめんなさい! 勝手に使って…」
「いいよ? 予備もあるし、この匂い好きだし」
「この匂い、そんなに強くないですよね」
「歩は匂いに過剰に反応しちゃうから、弱めなのを選んでるの」
「私のシャンプーは大丈夫だったんですか」
まあ、大丈夫じゃない?
と、言いたいけど、私個人としてはあんまり気にしたことなかったから、なんとも言えないね。
「歩が大丈夫そうだし良いでしょ」
うん。これが一番いい回答かも。
なんか上手いこと言いくるめられてそう。
「それなら良かったです」
奏ちゃん、なんか騙されやすそうで私ちょっと不安だよ?
そういえば、さっきから浴槽から音が聞こえないな。そろそろ出てくるはずなんだけど。
髪も乾いたことだし、お風呂場を少し覗いてみよう。歩は驚くかな?
「弟く…、弟くん!?」
驚かされたのは私だった。
歩が浴槽の中で逆上せて、一歩間違えれば溺死もあり得た状況だった。
奏ちゃんも私の反応がおかしいことに気づいて、お風呂場を覗く。
「え、歩さん!しっかりしてください!」
楽しいお話会は中断して、歩を回収する作業に移った。本当は奏ちゃんをからかうつもりだったのに、歩の救助が最優先になっていた。
歩には後できつく言っておかないとな。
僕はクールタイムを終えてソファーの上で起き上がると、秋山さんと姉さんがそれぞれ左右から支えてくれた。
どうやら僕はお風呂場で逆上せたみたいだ。久しぶりに長風呂で体が耐えられなかったみたいだ。
「歩さん、お水どうぞ」
「ごめんね、秋山さん」
「弟くん、落ち着いた?」
「うん。もう大丈夫。秋山さんも姉さんも、心配かけてごめん」
僕が謝ると、秋山さんはムッと頬を膨らませて僕の座るソファーに座り、僕の左側に位置取る。
「まずは自分の心配をしてください! 本当に、心配だったんですよ!」
怒っているようだが、言葉の中に優しさが詰まっているのが分かる。手は少しひんやりしていて、お風呂上がりだからか気持ちよく感じる。
「ごめん。これからは気を付けるから」
「気をつければいいんじゃないですっ! 忍さんから聞きました。歩さん、長風呂得意じゃないって」
「うぅ、ごめん…」
姉さんに助けを求めるが、ニヤニヤされるだけで助けてくれない。
前までは秋山さんにちょっかいかけてたけど、最近は僕にちょっかいをかけることが多くなった。秋山さんが困らないだけいいんだけど、僕にやるのもやめてほしいな。
「お水変えてくるね」
「うん。ありがとう姉さん」
姉さんがコップをもってキッチンに入っていく。ただ水入れるだけなのに、なんだか手間取ってる?
あ、帰ってきた。
「はい。お水」
「なんか手間取ってなかった?」
「まあね。慣れてないから」
水を汲むだけなのに難しいとは、どういうことだろう?何か入れたのかも。
とりあえず一口飲んでみよう。
「…しょっぱい?」
「あちゃー。入れすぎたかな」
「え、何入れたんですか?」
秋山さんが姉さんに問い詰めると、姉さんは料理とかで味付けに使う塩を入れたことを話す。
「生理食塩水にしたかったんですね」
「そうなんだけど、塩多かったかな」
「忍さん、生理食塩水は味付けに使う塩は使っちゃ駄目です」
「え、そうなの?」
姉さんは僕からコップを取り上げて流しに捨てにいく。
新しいコップに変えて、今度はペットボトルの水だけを入れてくれた。
後から秋山さんから聞いた話だと、温度も体温くらいがいいらしいし、食塩以外は入れない方がいいらしい。水も蒸留水とかペットボトルの水がいいらしい。知らなかった。
秋山さんはその日はそれで帰って、また明日会うことにした。
今は久しぶりに姉さんと二人きり。
「姉さん、相談したいことがあるんだけど、その…聞いてほしいんだ」
「いいよ。お手伝いでも何でもしてあげるから、言ってみて」
僕はーーーについて……言った。ちゃんと伝えた。心の底から思うことを伝えた。
僕は姉さんに相談したいことは全部言ったし、手伝いはいらないことも言った。だから、これは自分自身の問題だ。
「そっか。歩ならできるよ。頑張って」
「…うん」
駄目なら、ちゃんと諦めよう。
きっと駄目なんだと思う。それでも、この『言いたいこと』を伝えずに終えてしまうのはつらい。
姉さんは僕の頭に手を乗せると、撫ではせずに優しく語りかける。
「じゃあ、私からアドバイスしてあげる」
「アドバイス?」
「奏ちゃんはーーー」
その姉さんの言葉に、僕は立ち尽くすことしかできなかった。
僕は知らなかった。いや、どこかで忘れようとしたのかもしれない。
そんな僕に姉さんは一枚の写真を渡してきた。
「これ…」
「弟くんの10年前の写真だよ」
写っているのは多分僕だ。当時はもっと髪が短く、いつも姉さんの隣にいた。
僕と姉さんに、一人の白髪の女の子を合わせた三人のところを写真で撮られていて、全員が屈託のない笑顔で写っている。
「裏、見てみて」
姉さんに言われるまま、僕は写真を裏返す。
写真が印刷されていない面には、筆記体で名前らしきものがアルファベットで書かれていた。
三行の上から、
H Shinobu
H Ayumu
A Kanade
と書かれている。
僕は、ここに書かれている名前を皆知っている。
この字は姉さんの字じゃない。あの頃までのお母さんの字だ。
どうしてお母さんの性格があんなに変わったのかは分からない。でも、やっぱり僕に何か悪いところがあったんだと思う。
「覚えてる?」
「うん。少しだけ」
「奏ちゃんのことも?」
「ずっと、近くにいてくれたんだね。奏ちゃん」
「覚えてるじゃんか。気づかなかったの?」
「う、ごめんなさい」
姉さんは昔みたいに乱雑に頭を撫でてくる。
忘れていた感覚が戻ってきている気がした。温かい姉さんの手で撫でられていると、いつの間にか寝てしまった。
僕はリビングのソファーに転がされ、弱い暖色の光の中で起きる。
姉さんは僕がすぐに起きることも想定内だったのか、僕が目覚めるのを起きたまま待っててくれた。
起きた僕をひょいと持ち上げ、ベッドに寝かせてくれる。
「奏ちゃん、変わったでしょ?」
「うん。昔とは大違い」
姉さんは僕の受け答えに声を上げずにクスクスと笑う。
「違うよ。一週間くらい前からの話だよ」
「確かに、そこからも違ったかも」
「変わる前後で私は奏ちゃんに同じ話をしたの」
だから先週くらいから秋山さんは雰囲気が違ったのか。僕にも教えてくれればよかったのに。
そんな僕の考えを見透かしたように姉さんは言う。
「弟くんには無理だと思ったから」
「どういうこと?」
「また失わないようにしたかったから」
「…?」
やっぱり姉さんは不思議だ。きっと裏の意味まであるだろうけど、僕には分からない。
その日は気持ちの整理をしていたからか、寝るのが二時間ほど遅かった。つまり、いつもより睡眠時間が二時間短かった。
次の日の6月25日水曜日、朝から秋山さんは僕の部屋に来てくれた。
姉さんは大学ですでに家を出ていて、早くとも夕方までは帰ってこない。
そして、今度は秋山さんと二人きりになった。
昨日は寝るのは遅かったけれど、不思議と眠くはない。
秋山さんには姉さんが昨日の時点で作り置きをしてくれていたお昼ごはんのおかずを一度温めてからお弁当箱に詰める作業をしてもらい、僕はその間に朝ごはんを作る。
「歩さん」
「わっ、な、なに?」
驚いた僕に、秋山さんはいきなり名前を呼んだことを謝る。
「あ、いえ、すみません。驚かすつもりはなかったんです」
「僕の方こそ、オーバーリアクションだったよね。ごめん。それで、どうしたの?」
秋山さんは作り置きが乗っていた耐熱皿を指差して「あの…」と申し訳なさそうに言う。
「大したことじゃないんですけど、洗い物がしたくて…いいですか?」
「いいよ。というか、本当は僕がやるべきなんだけど」
「私にも手伝わせてくださいよ。微力ですが力になれますよ」
「全然微力じゃないよ。すごく助かってる」
秋山さんはすぐに僕から顔をそらして、耐熱皿の方を向く。
何か変なこと言っちゃったかな…?
僕は朝ごはんを作るのに戻った途端、秋山さんが耐熱皿に触れ、「ひゃっ!」と声をあげた。
秋山さんを見ると、左手を隠すように右手で覆っている。
「冷やさないと!」
「あ、歩さん!?」
僕は秋山さんの手の甲に手を重ねてシンクに導く。ハンドルを上げて水道水を出し、秋山さんの手を冷やす。
密着していることなんて気にせず、秋山さんに必死だった。
「…すみません」
「僕の方こそごめん。僕がしなかったから、秋山さんが火傷して…」
「違います! 私が不注意だったんです。歩さんは謝る必要ないです!」
秋山さんと口論になっていると、少し焦げた匂いがしてくる。
匂いの発生源を探すと、火をつけっぱなしのフライパンからだった。
ウインナーにかなり焦げ目がつくだけで済んだものの、秋山さんがさらに罪悪感を持ち、後で謝罪を聞く時間を設けた。
以外にも、謝罪の時間は短く済んだ。
僕の朝ごはんはかなり高評価で、秋山さんは「おいしいです!」と言ってぱくぱく食べてくれていた。
幸い火傷というほどひどく跡が残らず、腫れたり痛んだりもしていなかったから安心した。
ウインナーの焦げたところはできるだけ削ぎ落としたから苦くはないはず。そのため皮のないところがあって見た目も良くないけれど。
秋山さんは姉さんの味と似ていることが羨ましいみたいだったけど、「秋山さんの味も好きだよ」と言って以降、ごはん中に話してくれなかった。
褒めたつもりだったんだけど…。




