14.姉の気持ち
誰にでも昔に経験した記憶というものがあると思う。たとえそれが良いことでも悪いことでも、記憶に残っているものがあるはずだ。まだ、日野さんの言葉と、雫さんから聞いた話を不思議と納得させてしまっていた。
「……さん? …忍さん、大丈夫ですか?」
「え、あ、私?」
「はい。大丈夫ですか? ボーッとしていましたよ?」
雫さんは明日も仕事があるので晩御飯を食べて帰っていき、今はテーブルに奏ちゃんと私だけが座っている。
奏ちゃんは部屋に来たときには私服へと着替え、半袖にショートパンツといった薄着になっていた。歩がお風呂に入っている間に物を運び、着ていた制服や私服などは歩が使っていたクローゼットの半分(…よりも少し広いかも?)を使わせている。まあ、歩がそういうのに興味がないから、元々上着くらいしかかかってなかったけど。
「奏ちゃんはさ、昔の記憶ってある?」
「昔、というのはいつ頃まででしょうか…?」
「小学生より前くらいかな? もっと前でもいいけど」
奏ちゃんは少し昔のことを思い出しているようで、少しの間考えていた。
「あっ」
「思い当たりはあった?」
「えっと…誰かと遊んでいたことなんですけど、その、相手が誰だったか思い出せません」
「そっか。奏ちゃんにとって、それは楽しい思い出だった?」
奏ちゃんの表情が少し暗くなり、「どうしてでしょう…?」と自問自答でもするような言葉を発する。
「誰かと遊ぶことはとても好きです。でも、なぜか、あのときは楽しいなんて思わなかったです」
奏ちゃんは何かが引っ掛かっているようで、考える素振りをしてみせたが、答えにはたどり着くことはできなかったらしく、「分からないことは考えても駄目ですね」と話を流した。
ともかく、私が聞きたいことはそれではなく、こほん。と一つ咳払いをして、正面に座る奏ちゃんを見る。
「あのさ、奏ちゃん。話は変わるんだけどさ」
「はい、なんでしょうか」
姿勢よく座る奏ちゃんは、無垢な瞳を私に向け、質問を待つ。なんか可愛さを残した顔を持つ奏ちゃんを愛でたくなった。いや、まだ、まだその時じゃない。
奏ちゃんには肩の力を抜いてほしいところだが、わざわざそれを咎める必要もない。はぁ、ここはひとまず揺さぶってみよう。
「二人はいつになったら付き合うの」
「えっ!?えっと、それは…!」
奏ちゃんは途端に視線を逸らし、ソファーの前に移動させたローテーブルを見る。その視線の先には、並べて置かれた手のひらサイズの白と黒の猫のぬいぐるみがある。昨日の戦利品らしい。ペアとは…なかなかやる。
奏ちゃんの部屋にあった荷物は奏ちゃんと雫さんと私で移して、こっちのテーブルや棚に飾ったもの以外は、まだ大きな袋の中に入っている。私、そういうセンスないからなぁ…。
「まだ私の中でも整理できていないと思うんです」
「…というと?」
「私は、好きな人がいたんです。その子は、いつも私のことを気にかけてくれて、困ったら手を差しのべてくれる、純粋な子でした」
「じゃあ、その子のこと好きなんだ」
奏ちゃんは首を横に振った。
「分からないんです。その子は10年以上前に、離れ離れになってしまったので。顔も声も、何も覚えてないんです」
「なら、歩はどうなの?」
「その…恥ずかしいんですけど、歩さんには、その子と同じ感じがするんです。た、多分、似ているんだと思います」
なるほどねぇ、奏ちゃんには伝えておくべきかな。いや、でも、まだ早い気もする。…だけど、曖昧な気持ちで男女二人が同室は私的には駄目かも。
私はこれを言うのは後回しにした。そのときが来ることを確信して、今は言わないでおこう。奏ちゃんのためにも、歩のためにも。
とりあえずここは鎌をかけてみよう。
「そういえばさ、歩ってかなりモテるんだよ?」
「…え?」
「昔ね、歩は三人から告白されたんだよ?」
「え、えぇ!? あ、あゆ、歩さんは、ど、どうしましたか」
動揺してる…いや、しすぎかな?
まあ、嘘ではないんだけどね。
「二人はね、断られたんだ」
「え、じゃあ…」
「一人だけ、受け入れたよ」
「あ、あわわ…」
手で口を押さえて顔赤くして…恋愛初心者かな?まあ、高校一年生なら、こんなもんか。面白い反応も見られたし、この辺で終わっておこう。
「まあでも、もう自然消滅したと思うよ?」
「よ、よかったです」
ほっと胸を撫で下ろす奏ちゃん。やはりというか、歩の受け入れた人を聞きたい様子。
「誰から告白されたか聞きたい?」
「ひぅ!? お、教えてもらっていいんですか…?」
「いいよ。だって私だから」
「…え」
やっぱり、奏ちゃんって面白いね。さっきまで恥ずかしそうにして、次は落ち着いて、最後にぽかんとして。こんなにコロコロ表情が変わる子が近くにいるなんて、遊び放題じゃん。
「あ、あの…」
「ん? どしたの?」
「私はどうすればいいんでしょうか」
「というと?」
奏ちゃんはまた恥ずかしそうにして、ボソボソと言う。『歩さんと付き合うにはどうすればいいか』なんて、お見通しだよ?
「歩のこと、どう思ってる?」
「え? それは…昔好きだった子に似ていて、優しい…みたいな」
「ふーん。じゃあ、付き合うヒントは無し」
「え! なんでですか!?」
「だって、その昔好きだった子がいたら、そっちを選ぶんでしょ?」
「そ、それは…違います」
弱々しい否定。もう一押ししてみようかな。
「今思い出せないとしても、その子に会ったら顔も声も、何もかも思い出したら、そのとき奏ちゃんはどうする?」
「そ、それは…っ!」
言葉の出てこない奏ちゃんの隣に移動する。もう泣きそうになっているのが分かり、さらっとひっかからない髪で遊ぶふりをして、奏ちゃんが泣くのを止める。
「私はね、歩が幸せになってほしいの。あの子には、辛い思いをさせてしまったから」
「…どういうことですか?」
「私たちの親のことは、聞いた?」
「いえ。聞いたことないです」
…やっぱり、あれは歩には重かった。本人から話すのを待ちたかったけれど、私から言おう。でも、なんで私…あんなこと言ったんだろ。あの言葉は今でも後悔している。もしあの時に戻れるのなら、歩を連れて、どこか遠くに、信頼できるところに連れて行ってあげたい。でも、もう戻れないんだ。
「忍さん?」
「ああ、いや、ごめん。ちょっと、聞いてほしいことがあるんだ」
「はい。いいですけど…」
「でも、今は中断」
「え?」
奏ちゃんが反応したところで、リビングに入ってきた人がいる。黒っぽい服に少し伸びてきた髪にタオルを乗せた男の子だ。
「ごめん、待たせちゃった?」
「待ってないよ。奏ちゃんと離してたから」
「それならいいけど」
「というか弟くん、髪の毛かなり伸びてきたね。来週くらいに切っちゃう?」
「姉さんがいいならそれで」
私は歩の髪をタオルでわしゃわしゃして髪を乱れさせる。ついでに髪を指で挟んで長さを確認して、終わりに歩の頭に一度ポンと手を置く。
「ちゃんと乾かしなよ」
「分かってるよ」
ただでさえ、体が…いや、心も、弱いから。
「お風呂行こっか、奏ちゃん」
「私もですか?」
「話の続き、しよ?」
「は、はいっ」
奏ちゃんは席を立ち、私の下へと小走りで向かってくる。なんか小さい子みたいだね。
奏ちゃんがスピードを緩めて私に並ぶと、私との身長差がよく分かる。私の視線が奏ちゃんの頭のてっぺんくらいだ。ちなみに歩は今年の春時点で162センチだったから、私より6センチだけ背が低い。高校男子はここからでも成長することもよくあるけどね。
「私と奏ちゃんって、並ぶと姉妹みたいじゃない?」
「私、上も下もいないので、忍さんみたいなお姉さんがいるのが羨ましいです」
奏ちゃんは無意識なのか上目遣いで私を見る。
可愛さのあまり「うっ」と声が出かけた。危ない危ない。私はその感情を抑えて言葉を繋げる。
「あはは、そう言われると恥ずかしいな。また、時間があれば来るつもりだし、それに私、そろそろ夏休みだから暇だから、しばらくはこっちにいようかな?」
「えっ、もうそんな時期なの」
いち早く反応したのは歩で、そんな歩に笑って答える。
「そうだよ~。私もそろそろ二十歳じゃなくなっちゃうね」
次に反応したのは奏ちゃんで、見上げるようにして訊く。
「え、忍さん、誕生日いつですか?」
「7月の19だね。奏ちゃんもお祝いしてくれるの?」
「もちろんです。忍さんにはこれからもお世話になりますので、いっぱいお祝いしたいです」
「ふふっ、ありがと」
私が奏ちゃんの頭に手を置くと、奏ちゃんは嬉しそうにする。そのまま髪を撫でるように手を動かし、奏ちゃんの背中に手を当て、お風呂に連行する。
「じゃ、弟くんはちゃんと髪の毛乾かしておくんだよ?」
「はいはい。秋山さんにちょっかい出しすぎないようにね」
「分かってるって」
「大丈夫ですよ。心配することはありませんよ」
いろいろ確認しないといけないからね。もしかしたら…ね?
奏ちゃんとお風呂に入ってから約5分、私が奏ちゃんの髪を洗っていると外からドライヤーの音が聞こえてきた。それを聞き流しながら、湯気が立ちこめるお風呂場で密会を続ける。
「奏ちゃん、痒いところない?」
「はい、大丈夫ですよ」
「それにしても、綺麗な髪だね」
奏ちゃんは私の一言に動きを止め、泡立ったボディタオルの泡が奏ちゃんの体をつたって落ちる。触れられたくない話題を振ってしまったと感じて、私なすぐさまフォローを入れようとしたが、先に奏ちゃんが話し出す。
「私、この髪があまり好きではないんです」
奏ちゃんは少し間を置いたものの、私がさらに追及するつもりがないことを理解したのか、体を洗っていたタオルを胸に当てて、話を続ける。
「小さいころは病気とか変とか言われて遠ざけられてきました。でも、何人かは私と笑ってくれる人もいました。今では、全然会わない人たちですけど」
泡つきのタオルを胸から離すと、今度はプラスチックの風呂桶の隣に置き、風呂桶のお湯で手についた泡を綺麗に落とす。
「中学生になってからは、たくさんの人に出会いました。女子からは私が男子からモテるからという理由で近くに寄られて、男子からは告白の対象として…いろいろな方がいました。あ、告白は全て断ってきましたよ?」
鏡越しの奏ちゃんは笑っていた。過去の嫌なことを全て無かったことにできるような笑顔だった。
「そして、高校受験のときに歩さんに会いました。高校生になって、歩さんと同じクラスになれたのはとても嬉しかったです。それに、部屋も隣で、今日から同じ部屋なんて、夢を見てる感じです」
ひとしきり話した奏ちゃんは、お湯をかえて私が奏ちゃんの髪を洗い終わるのを待っていた。
そういえば、ドライヤーの音が聞こえなくなった。話に集中しすぎて聞いてなかった。多分歩はリビングまで行ってるだろうし、ちょっと話そう。
「多分、歩は知らないよ」
「何がですか?」
「奏ちゃんと初めて会ったのが高校受験だったこと」
「え?」
「目開けちゃ駄目だよ」
「あ…はい」
風呂桶からお湯が溢れ、お湯は奏ちゃんの全身をまとう石鹸の泡を巻き込んでから、音を立てて床に当たり、泡を連れて排水口へと向かっていく。
何度かお湯をかけられ、完全に泡が落ちて、私が「もういいよ」と声をかけると、奏ちゃんは「どうぞ」と風呂椅子を譲ってくれる。
「今度は奏ちゃんがしてくれるの?」
「はい。洗ってもらったお礼です」
「それじゃ、お願いしようかな」
譲ってもらった椅子には座らず、椅子の上に風呂桶とシャンプーが乗せて、私は膝を折って床に座る。私の髪はお尻よりも下まであるから、床でも椅子でも髪が床に触れるんだよね。
「忍さんの髪、すごく長いです」
「あはは、単に切りに行くのがめんどくさいからこうなってるだけなんだけどね」
奏ちゃんは物珍しそうに私の髪を触ると、少しの間私の髪の重量で遊んでいた。昔から歩に手入れされてきた髪はスルスルと指の間に流れていき、今日まで日頃からケアを怠っていないことは奏ちゃんにも伝わるだろう。
「ちゃんと綺麗にしてますよね」
「シャンプーが人より倍はいるけどね」
「短い人が羨ましく感じますよね」
「いや? そうでもないよ」
奏ちゃんの疑問が見なくても分かる。そうだ。そろそろ話を再開させないと。
「話の続き、してもいい?」
「よろしくお願いします」
「ふふっ、そう畏まらなくていいのに」
さて、私も覚悟を決めないとね。
「奏ちゃん。幸せな子供の話と、不幸な親の話、どっちから聞きたい?」
その瞬間、お風呂場の中はシン…と静まり返ったのだった。