13.予想外の来客
マンションへ戻ってエレベーターを待っていると、僕のスマホから音が鳴る。
「電話だ。それも姉さんから」
「私に構わず出てください。出来るだけ聞かないようにするので」
「そこまでしなくてもいいけど…」
電話に出ると、姉さんの声が聞こえる。
『もしもし、歩?』
「どうしたの姉さん?」
『奏ちゃん、まだ側にいるよね?』
「いるけど…どうしたの?」
『奏ちゃんが良ければご飯一緒に食べないって、誘っておいて。じゃ、それだけ』
「え、あ、まって…」
テレン♪とスマホから音が鳴り、通話が切断される。
姉さんからの電話が終わると、秋山さんはエレベーターのボタンを押す。少し待つと扉が開き、無人のエレベーターへと乗り込む。
「あの、秋山さん」
「はい。なんですか?」
「姉さんが『一緒にご飯食べないか』って聞いてきたけど、どうする?」
秋山さんは目を輝かせて「いいんですか!」と体を寄せる。
一食分減るのは負担を減らせるかもしれないけど、ずっと呼んでいると秋山さんの冷蔵庫の食材が痛まないか心配になった。
何も知らない秋山さんは一度荷物を置いてから、浮かれた様子で僕の部屋に来た。
僕が扉を開けると、私服姿で髪を自由にした秋山さんが笑顔を見せる。
「おじゃまします」
「はい、どうぞ」
「…あれ?」
秋山さんは何かに気がついたらしく、リビングへと急行する。
秋山さんはリビングに入るなり、リビングで待っている人たちに向かって叫ぶ。
「お母さん!」
「あら。おかえり、奏」
僕は遅れてリビングに戻ると、姉さんに加えて穏やかな表情を崩さない女性と、苦笑いを浮かべる管理人の日野さんが秋山さんを迎える。女性の髪は黒く、今の秋山さんと同じく結んでいないストレートヘアだ。
「ふふっ、なんでここにいるか聞きたそうね」
「聞きたいです!せっかくの…」
「せっかくの?」
「…っ、なんでもないです!」
秋山さんは顔を合わせないまま秋山さんの母である雫さんの隣に座る。
席順は四人席に秋山さんと雫さん、日野さんが座り、ローテーブルに僕と姉さんが座る。ローテーブルの一方に二人座ると、少し幅狭く感じるけれど、全体が見える方がいいので無理にでもその席で座った。
「奏ちゃん、私と雫さんがいつ会ったか知りたい?」
「気になりますけど、またお母さんが何か…」
「まあ、それも含めてだよ。ね、雫さん?」
「…忍ちゃん意地悪」
姉さんが雫さんをからかうと、秋山さんと雫さんが恥ずかしがる。こういうところを見ていると、やっぱり親子なんだなぁ。と思う。
お昼過ぎのこと、私が帰ろうと扉を開けると、知らない女性が突然開いた扉に驚いた。
「すみません。大丈夫でしたか?」
「ええ、私は大丈夫。それより、あなたが春川さん?」
「はい。そうですけど」
私の肯定を聞いた女性は念入りに私の全身を見ると、頭にはてなマークを浮かべる。
「あなた…男の人ではない、よね?」
「私は生まれたときから女です」
「そうよね。でも、奏は男の子だって言っていたのだけれど…」
私は奏ちゃんの名前が出たことから、目の前で考え事を始めてしまった女性を勝手に奏の母だと位置付け、確認するために質問を投げかけることにした。
「すみません。お名前をお伺いしても?」
「あ、はい。私は秋山雫と申します。日頃から奏と仲良くしていただいてありがとうございます」
雫さんは私のことを奏ちゃんの友達だと誤解しているらしい。仕方ないな。雫さんに私は訂正を入れる。
「奏ちゃんが気にしている人は私の弟の方ですよ」
「あら、そうなの?なら、あなたはその子のお姉さん?」
「はい。春川忍です。よろしくお願いします、雫さん」
「…そう。ええ、忍ちゃん、よろしくね」
一瞬雫さんの視線が私から離れたものの、すぐさま私に笑顔を向けてきた。私もそれに応えて雫さんに笑顔を返す。
そして、それからは部屋に入れて少し話をしただけだ。特別歩と奏ちゃんに言っておくべきことはなかった。
あ、でも、スマホの充電は忘れずにしてほしいかな?
姉さんは話を終えて、秋山さんの反応を見る。
「じゃあ、お母さんはお昼からここにいたんですね」
「そうよ。忍ちゃんが面白いお話をしてくれたから、ずっとお邪魔させてもらっていたわ」
秋山さんは姉さんが雫さんに対して変なことを言わなかったかという不信感を持った視線を送ると、姉さんはその意図を理解した上でウインクを返す。
その反応に秋山さんはバッと雫さんに視線を移す。だが、雫さんはやんわりとした笑顔で僕を見ているだけで、秋山さんの視線にすら気づいていない。
雫さんに秋山さんの方を見るように伝えるべきか…。
僕が考えて話すより先に、姉さんが立ってテーブルに向かう。
「さて、本題に移ろうか。というわけで日野さん、よろしく」
「えっ、ああ。分かったよ」
一呼吸置き、日野さんは姿勢を整えると、椅子に座る秋山さんと雫さんと対面する。
もう一呼吸置き、神妙な面持ちで日野さんは立ったままの姉さんと、座る雫さんに問う。
なんだかスイッチが入ったみたいに、日野さんの目付きが真剣なものになる。
「まず、304号室に現在契約中の春川忍さん、303号室に契約中の秋山雫さん、双方の合意の上での契約となります。よろしいでしょうか」
問いかけられた二人はすぐさま肯定の意を返し、次の質問を待つ。
「秋山雫さん。あなたは本日、6月16日をもって303号室における、3ヶ月の契約の終了及び、304号室への編入を同意します。確定なら、こちらにサインをお願いします」
静かな部屋に一枚の紙にサインを書く音だけが響き、雫さんがペンを置くと、また部屋の中は少しの間無音になる。
秋山さんは「えっ、えっ?」と契約書と雫さんに視線が往復している。
「確認ができました。それでは、秋山雫さんの304号室の入居期間は、春川忍さんと同じく三年後の年度末となります。本日はありがとうございました」
次に日野さんが頭を上げると、姉さんが大きく息を吐いた。
日野さんの目付きはいつもの優しいものに戻っている。やっぱりこの目付きだと、雰囲気が和らいでしまう。
「うー、毎回思うんだけど、仕事中の日野さんって、いつにも増して真剣というかさぁ」
「僕って、そんなにいつも真剣そうに見えないかな?」
「うん」
資料をビジネスバッグに入れた日野さんは、苦笑いを浮かべながら席を立つ。
姉さんは日野さんが出ていくのについていこうとして、日野さんに遠慮される。
「いいから。ちょっと話させて」
「もう…少しだけだよ?」
ニコリと笑顔を作り、姉さんは日野さんを追いかけるように早歩きで僕の部屋を退出した。
秋山さんは契約書の内容がまだ上手く飲み込めていないようで、朗らかな笑みを浮かべる雫さんを見つめるばかりだ。
僕も同居するなんて話は聞いていなかったため、少し驚いている。
「あの、雫さん」
「どうしたの、歩くん?」
「あ、ああ、いえ、えっと…」
「気になることは訊いていいのよ」
訊いてみたいことはいろいろあるけれど、なんて訊けばいいか分からない。秋山さんも驚いた顔のまま僕を見てくるし…。どう訊こう?
日野さんについていった私は、日野さんが扉を完全に閉めきるまで何も話さず、彼の行動を待っていた。
「それで、話ってなんのことだい?」
落ち着いた声でそう尋ねる日野さんに、私は少し睨みながら質問を投げかける。
「雫さんのこと、日野さんは知っていたんでしょう?」
「さあね、僕はただの管理人だからね。どこまで知っているかなんて、僕にも分からないよ」
「…………」
私は昔から「この人が何を考えているのか」が分かる。でも、日野さんは出会ったときから何を考えているのか見抜けない。
この人が何を考えているか、何を隠そうとしているかも全くと言っていいほど分からない。
秋山さんの母親である雫がどのような存在かを知ってからは、私はずっと日野さんとの対面で話す機会を求めていた。
「教えてくれないんだ?」
その言葉に日野さんはうーん。とわざとらしい演技を見せる。
…普段読めるものが読めないのは怖い。でも、今は訊かないと。
「そうだね。一つだけ忍ちゃんには教えておこう」
続けて、日野さんは言う。
「僕のモットーはね、『人事を尽くして天命を待つ』だよ」
できることは全てして、結果は後の運に任せる、か。マンションの管理人である日野さんには、歩と奏ちゃんの二人を同じ部屋にするくらいしかできないとでも言いたいのだろう。
「言葉通りだね。今の日野さんには」
「そう言ってもらえると光栄だね」
皮肉で言ったつもりだったが、こう返されてしまったら引くしかない。だが、彼は勝ち逃げとでも言いたげに言う。
「じゃ、僕はこの辺で失礼するよ。忍ちゃんも、早く戻ってあげなよ」
「……そうする」
逆に自分が何もかも読まれているようで、私は心底機嫌が悪くなった。去っていく日野さんの背中を最後まで見ることなく、私は部屋へ戻り、せめて歩だけには悟られないように表情を作ろうとするが上手く作れない。
(歩には誤魔化して、日野さんには聞きたいことも聞けなくて、私、やっぱり最低だな……)
自分自身の嫌なところばかりが思い浮かんで、考えないようにするほど悪夢のように嫌なところが出てくる。
「忍さん?」
「…っ!」
不思議そうに私を見る奏ちゃん。今、私はどんな表情をしているのだろうと思いつつも、奏ちゃんの顔を見ればすぐに分かった。
そして、次に奏ちゃんが言いそうなことが予想できた。きっと彼女はこう言うだろう。「嬉しそうな顔ですね」と。
「嬉しそうな顔ですね。どんなお話をしたんですか?」
「そうだね、簡単に言えば、二人のこれからについてのこと、かな」
奏ちゃんはあまり理解できていなさそうだったが、ありがとうございます、と似合いすぎる笑顔で笑った。
僕のやるべきことはやった。あとは連絡するだけだね。
僕はスマホで短い文章を二人の人に送る。一人はすぐに、もう一人は少し遅れて返信が来た。
「…やっぱり、子供たちには勝てないな。ごめんね、忍ちゃん」