11.それぞれの親
献立を決めて料理を作り始めてから10分くらい経ったときに呼び鈴が鳴りました。火を止めてから玄関まで行って扉を開くと、そこには日野さんが立っていました。
「奏ちゃん、こんな時間に申し訳ない」
「日野さん。どうかしましたか?」
日野さんはマンションの管理人をしていて、忍さんの経営するカフェのマスターをしています。でも、どうして日野さんがここに…?
「少し話がしたいんだけど、時間はあるかい?時間が空いたときでいいんだ。いつ頃がいい?」
「えっと、今は料理中なので、少し後からなら大丈夫です。えっと、一時間後はどうですか?」
日野さんはスマホで予定を確認すると、一時間後に一階の管理人室で会うことを取り決めて、私の部屋の前から離れていきました。
予定通り時刻はあれから1時間後の21時。場所は管理人室。少し重たい空気を感じながら、私と日野さんはテーブルを挟んで向き合います。テーブルには一枚の紙が置かれ、それにはマンションの契約書と書かれています。
「簡単に言えば、契約期間があと2週間、つまり、6月の終わりまでなんだよ」
「…私はどうすればいいんでしょうか?」
「両親に連絡して契約期間を延長してもらうか、自宅に戻るかを選んでもらうことになるね」
一つの答えとしての自宅に戻る。これは避けたい一心で、せっかく歩さんに近づけたのに、これで終わりなのは嫌です。
偶然部屋が隣で、去年の高校入試で出会った男の子と似た雰囲気を持つクラスメイト。こんなに仲良くなれて、今日は彼氏とまで言った。彼は場を乗り切るための嘘だと思っているようで、私のことは今まで通りに見ている気がします。離れたくない、その思いが心の中で強くなるのが分かります。
俯いた私を見て、日野さんは一息ついてから「今のはあくまでも管理人としての話だけどね」と言います。
「僕個人の意見としては、お隣のあゆ……じゃなくて、春川さんのところに一緒に住むのもアリかなって」
「そんなことできるんですか?」
「まあ、春川さんか春川さんの親、そして、秋山さんの親さんの了承が必要だけどね」
条件があるのは分かっていたのですが、私の両親はお願いすれば多分許してくれます。多分。
歩さんのご両親は一体どんな方なんでしょうか。歩さんのように優しい方の気がします。少しの希望を持ちつつ話の続きを待つも、話はこれだけだそうで、当たり前ですがこの話は歩さんを含めた他の人には誰にも伝えていないそうです。
「話がついたらまた聞きに行くから、6月の終わりまでにはちゃんと相談しておいてね」
「分かりました。親切にありがとうございます」
「いいよいいよ。僕は仕事だからね」
もう一度お礼をしてから管理人室を出ると、時間は15分しか経っておらず、部屋に戻りながらスマホでお母さんに電話をかけてみます。
雨音が聞こえる中、数回コール音が鳴った後、コール音が切れたので繋がったかと思いきや、録音された音声が流れてきました。
『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』
多分このパターンは電池が切れています。この前も電源がつかないと言って、充電不足ということがありました。
お母さん、ちゃんと充電してください……
今度はお父さんに電話をかけてみます。さすがはお父さん。3コール以内に繋がり、スマホ越しに声が聞こえてきました。
『もしもし?奏かい?』
「はい。奏です。今電話しても大丈夫でしたか?」
『ああ、大丈夫だよ。どうかしたのかい?』
「その、マンションの管理人さんの日野さんから、契約期間が6月末までだって言われました。なので、契約してなかったのか聞きたかったんです」
『…ちょっと待ってね。雫に聞かないと分からないから、後で折り返すよ』
「分かりました。あ、お母さんのスマホ、電池切れみたいなので充電してあげてください」
『了解。多分30分くらいしたら折り返すから、また後で』
電話を切るとちょうど部屋の前に着き、開きづらい鍵を開けてようやく部屋に戻ってきました。
約束を守れるように明日のお昼用に予備のお弁当箱を洗って、学校の授業の準備もしてから、父親からの電話を待ちました。
週の初めは日曜日だと言う人もいますが、月曜日からだと言う人もいます。明確な決まりがあるのかないのかよく分からないですが、私は後者だと思っています。
週初め、朝の6時。お隣の歩さんのお部屋には、ベッドの上で男女のペアが寝ていました。
正直なところ、ほんの少しだけ驚きました。
「えっと、忍さん?」
「やぁ。奏ちゃん」
私が名前を呼ぶと、忍さんは歩さんの隣で寝転んだまま、手をひらひらと振ります。忍さんは私が来た理由を訊いてきます。
「朝ごはんを届けに……」
「おっ、ついに正妻ムーブか!?」
「ち、違います!」
私は否定しましたが、忍さんはいきなり起き上がり、額に手を当てて何か考え始めました。
「失礼、ムーブではなく正妻か」
「からかわないでくださいよっ!」
「あはは。やっぱり奏ちゃんは面白いな」
私たちの声で歩さんが起きてしまうといけないので、忍さんはそっと毛布から出て私の手を引きます。
「どちらへ?」
「奏ちゃん、2人分しか作ってないでしょ?」
なんの話か一瞬理解できませんでしたが、忍さんがリビングへ入ったらすぐにキッチンを指差すのでそこで分かりました。
「そうだ、奏ちゃん。私が作ってる間の話し相手になってほしいな」
「お手伝いではなく、話し相手ですか?」
「うん。いろいろ聞きたいこともあるし」
「聞きたいこと…?」
「ほらほら、さっさと作るよ!」
私は忍さんに連れられるようにキッチンに入り、忍さんは深夜に買ってきたであろう食材で料理を作り始めました。
「奏ちゃんに二つ聞きたいことがあるんだけど、100%良い話か、50%良い話、どっちが先がいい?」
「え?それなら、100%からお願いします」
私の選択に、忍さんはにっと口角を上げます。
…これは、からかわれるやつです。
「歩のこと、守ってくれたんだね」
「え、その…はい」
私は忍さんには隠しても無駄だと思い、誤魔化さずに肯定しました。そのことに忍さんは少し驚いていましたが、すぐに表情を戻して質問を続けます。
「大丈夫だった?」
「はい。歩さんも私も、怪我一つありませんでした」
あれはかなり驚きました。歩さんがジャケットを着ていたから気づいたのであって、あのジャケットがなければ見間違えかと疑ってしまうくらいには重要なものでした。
「じゃあ、質問。デートの前に私が言ったことは?」
「前、となると…、あ、写真ですか?」
「正解。でも、送ったのを見られると良くないでしょ?だから、私のスマホで撮ったやつを見てほしいな」
忍さんはテーブルに置いてある忍さんのスマホを指差し、私はリビングに戻ってそのスマホを手にします。
電源を入れるとロック画面が現れ、ロック画面には今より少し長い髪の歩さんらしき人物が写っています。
「その写真は今年の2月14日に撮ったものなんだけど、何の日か分かる?」
「バレンタインですか?」
「それはそうだけど、そうじゃなくて。奏ちゃんなら分かるでしょ?」
2月14日、バレンタインのあの日、私は同じクラスの女子とチョコを交換する約束をしていました。でも、渡せなかった。そう、あの日は…
「…あ、高校入試、です」
公欠をもらって雪校へ行ったことで、高校入試が終わってから中学校で会う約束をしていたのですが、熱を出したことで私は参加できなかったんでした。
「帰ったら、歩に持たせたカイロと温水入りの水筒が無くなっててね。受け取った本人なら知ってるでしょ?」
「な、なんで…知って…?」
私はスマホをテーブルに伏せて置きました。料理する手を止めてこちらを見つめる忍さんは、なんとも言えないオーラを放ち、心臓を掴まれているような感覚を覚えます。
「私はあの日、歩の送り迎えで雪校に行ったの。そのとき奏ちゃんを見たの。それで、歩と奏ちゃんのお父さんと一緒に奏ちゃんを車まで運んでね。寝てたみたいだし、覚えはないと思うけど」
「…覚えていないのが、悔しいです」
「仕方ないよ。かなり体調悪そうだったし、それに、奏ちゃんのお父さんに言わないように言ったのは私だから」
「…え?」
それ以上忍さんは何も言わない。まるで、理由を訊いてくるなという雰囲気を醸し出していた。
私は深くまで訊きたかったけれど、忍さんの態度を受けて、次の質問を訊きます。
「50%の良い話はなんですか?」
「あー、えっとね、部屋のことだよ」
「部屋…?」
「奏ちゃんの部屋、6月末までなんでしょ?」
一瞬背筋が凍りました。日野さんは誰にも話していないと言っていましたし、私が話をされたのも昨日です。
「なんで知ってるんですか!?」
「奏ちゃんが前より内装を気にしてたから?」
「ま、前って、私、まだ片手で数えられるくらいしか…!それに話されたのは昨日です!」
「あはは。嘘だって。日野さんに相談されたから知ってただけだよ」
「でも…あっ!」
確かに日野さんは話していないとは言っていましたが、これから言わないとは言ってません。そんなの分かるわけないです。後出しジャンケンをしてるみたいでずるいです。
「というか、この部屋が私の名義になってるから呼び出されただけなんだけどね」
「住んでいるのは歩さんですよね?」
「歩はまだ未成年で契約が面倒だから、この部屋は私名義にしてるんだよ。奏ちゃんのところもそうなんでしょ?」
そうです。私の部屋もお母さん名義での契約でした。そう考えると皆同じような考え方なのかもしれません。
「そうですね。でも、どうして忍さん名義にしているんですか?ご両親がするものだと思いますけど」
「…奏ちゃん」
忍さんは料理を終えて、冷蔵庫から昨日の残りの麻婆茄子を取り出して電子レンジへと入れると、適当に時間を設定して私に振り返ります。
「いや、やっぱりいいや。今話すべきじゃないと思うし」
「そうですか…?」
「うん。歩には、親の話はしないでね。こっちの事情があるから」
「分かりました。気をつけます」
「よし。それじゃあ、歩のこと起こしてきてくれる?隣の部屋からの通い妻として、ね?」
「ち、違いますから!」
私はその場を逃げるようにして、歩さんが寝ている寝室へと駆け込みました。妻はまだ早いです!
体が揺れる感覚があり、きっと姉さんの寝癖の悪さだと思って寝返りを打つ。まだ揺れている。もしかして地震…?
ハッと目を覚ますと、目の前には壁が。そして後ろからは秋山さんの声が。…え?
体を起こして反対側を見ると、そこには秋山さんが。私服の秋山さんがそこにいる。
「おはようございます、歩さん」
「お、おはよう…ございます?」
ジーッと秋山さんを見る。髪色は白銀色で、長さは肩甲骨あたりまでで留めずにストレート。声も優しくて、お山はそれなりの大きさ。やばい。朝から思い出してしまう…!
いやいや、そんなことより、この人は秋山さんで間違いない。
「わ、私に何かついてますか…?」
「あ、いや、秋山さんが秋山さんなのか確認してて(?)」
なんだかよく分からない返答をして、秋山さんが困っている。今言い直しても多分同じような変な答えになりそうだからやめておく。こういうときは視線で会話だ。どうしたの~?みたいな感じの視線を送る。いや、分からないか。
秋山さんは不思議そうに首をかしげると、なにか閃いたようで手のひらに拳を落とす。まさか、分かったのか…?
「ごはん、できてますよ」
伝わってたー!
これには秋山さんの理解力にさすがとしか言い様がない。
同級生に起こされるのは初めてだ。それに、ごはんを作って待っててくれた。ベッドから降りると、寝室の扉がまた開く。
「へぇい、新婚さん方~?」
「ひゃあ!?」
「姉さ、ん"っ!?」
秋山さんが僕に向かって飛び込んできて、僕は秋山さんに頭突きを喰らい、床に倒れる。それを姉さんはすかさずスマホを構えて一枚。ぱしゃり。
「ふぇ…?」
痛みとシャッター音で気がついたらしい秋山さんは倒れた僕を見て驚く。
「あ、歩さん、大丈夫ですか!?」
大丈夫…じゃないです。というか、秋山さんも痛かったのでは…?
秋山さんは手を差し伸べてくれて、僕はそれで立ち上がる。まだ胸あたりが痛いけれど、朝ごはんを食べているといつの間にか治っていた。
朝ごはんは秋山さんと姉さんと僕の三人で食べて、秋山さんは着替えのために一度部屋に戻り、姉さんは今から大学へ行く準備をしている。僕も着替えをして準備を整える。
時刻は7時半を過ぎていて、一時間後には朝礼があり、学校が始まる。もう一度、今日の必要な教科の教科書などがあるかを確認して準備万端。いつも8時15分くらいに出ているので、まだまだ時間はある。
すると呼び鈴が鳴る。玄関を開けると、そこには夏服姿の秋山さんが。そろそろ衣替えの時期だとは思っていたけれど、秋山さんは早めに衣替えするタイプらしい。
「秋や…」
「歩さん」
「え、あ、はい。なんでしょうか?」
「今日から絶対夏服です」
「…え?なんて言ったの?」
「今日から夏服です!」
ほう、夏服。今日から、絶対…。
夏服ー!どこー!?
部屋に、戻って寝室へ。一回出した後、どこにやったんだっけ…?お、覚えてない!
夏服にしなければ生徒指導室送りになるので、それだけは避けたい!
「あ、あの、夏服なら、クローゼットの下から二つ目の引き出しにありますよ」
「え、なんで知ってるの!?」
「着替えを探しているときに見つけただけですから!変なことはしてないです!」
確かに、朝着ていた私服は、昨日僕がお風呂に入っている間に秋山さんが用意してくれていたものだ。探すのだったら、見ていてもおかしくない。
「ありがとう、秋山さん。着替えてくる!」
そう言って、寝室の扉を閉めて着替え直す。かなり恥ずかしい。今一度思えば、テストがあった週が夏服移行期間と聞いた気がする。テスト勉強に必死になっていてすっかり忘れていた。後で秋山さんにはお礼を言っておかないと。