36.あの世とこの世の境目
とても心地良い眠りの中にいた。
「ハル」と、どこかでハルの名前を呼ぶ声がする。
「ハル、そろそろ目覚めなさい」
ハルは自分を呼ぶ優しい声に目を覚ました。
眠りから意識が戻る時はいつも、ハルはなかなか目が開かないし、頭もボンヤリしている。
だけど今は、目覚めたばかりとは思えないほど頭がスッキリしていて気分がいい。
ハルは閉じていた目をパチリと開くと、目の前にどこか輪郭がハッキリしない人が立っていた。
男性とも女性とも、若いとも老いてるとも言えないその人物に会うのは二度目だった。
彼は神だ。
「神様、こんにちは」
「久しぶりですね、ハル」
ハルの挨拶に神様が応える。
「神様に会えたって事は、またいつの間にか討伐は終わっちゃったって事ですか?」
「いいえ。今回は私がハルに会いに行ったのではなく、ハルが私の元へ来たのですよ」
「え………?」
神様の言っている意味が分からなかった。
「ハルは神の道に入ってきてしまったのです。あの場所でハルが見えた道は、私と神獣にしか見えない道なのですよ」
「え、そうなんだ。勝手に通っちゃいけない道だったんですね。ごめんなさい」
「通るのは自由ですよ。ただ、今いるこの世界は、あの世とこの世の境界線ですからね。ハルが来るのは少し早いかもしれません。
あそこに見えている湖が境目で、湖の向こうがあの世なんですよ」
神様はそう話すと、キラキラと煌めく澄み切った湖を指差した。
『あの世とこの世の境界線?』
――それは死後の世界だ。
あの綺麗な湖が、いわゆる三途の川というものなのか。
川の向こうで、もういないはずの人が手を振ってるというやつ。
そんな湖で、ハルはユニコーンのツノをお手入れするために、ハンカチを濡らしてしまった事を思い出して衝撃を受けた。
「あの、神様。私あの湖で手を洗っちゃったし、ハンカチも濡らしちゃいました」
「構いませんよ。あの湖は皆のものです」
――どうやらあの世との境目の湖は、公共のもののようだ。
『皆のもの』というのは誰の事を指すのかよく分からないが、お化けの話になると怖いので突っ込まない方がいいだろう。
それより確かめないといけない事がある。
「あの……もしかして私、ここに来ちゃったって事は、いつの間にか儚くなっちゃったって事ですか?」
「いいえ、ハルは生きていますよ。だけどもしハルが望むなら、ここにいてもらっても構いません。ユニコーンもハルに懐いているようですからね」
神様の提案に、ハルは少し考えた。
ユニコーンは可愛い。
この場所はなんだか心地もいい。
だけどみんなに何も言わずに、死後の世界に向かうわけにはいかないだろう。双子にも、ケルベロスにもオルトロスにも何も説明していない。
「ユニコちゃんは可愛いけど……まだ死後の世界に行くのは止めておきます」
「ここにいるという事は、あの世に行くという意味ではありません。ここを通る者へ道案内する仕事を始める事もできる、という話です。
ここに来た者に、『あの世は湖を越えた向こうですよ』と案内する者がいれば、道に迷って彷徨う者もなくなるでしょう。とても大事な仕事です。
ハルは新しい仕事を考えているのでしょう?」
さすがは神だ。
神託の討伐が終わった後の、新しい仕事探しを考えている事を知っていた。
だけどそう簡単に引き受けていい仕事ではない。
「お仕事の斡旋、ありがとうございます。でも私は戻りたいです。みんなに何も話してないですから」
「そうですか。……分かりました。残念ですが、確かにまだ早いですね。では元の場所に戻るのに、ユニコーンの空の旅をハルにサービスしましょう。ハルはとてもよく頑張っていますからね」
「わあ!ありがとうございます、神様!」
神の言葉に、ユニコーンがハルの前でしゃがんでくれたので、ハルはユニコーンによじ登る。
ユニコーンの背中は高反発ベッドのような適度な固さがあり、居眠り防止に良さそうだった。
空の上での居眠りは、さすがに危険しかない。
「あ、神様。そういえば、ルビーちゃんはどうしてここにいたのですか?やっぱり可愛いから連れてきちゃったんですか?」
「私もユニコーンも人の容姿で何かを判断する事はありません。可愛いからではなく、神獣であるユニコーンに剣を向けたので、天罰が下ったのですよ」
「え!!」
物騒な理由だった。
先に帰ったルビーは無事にみんなの元へ帰れたのだろうか。
「ハルがここまであの者を迎えにきた事に免じて、今回限り許しています。あの者は無事戻っていますよ」
「え。ありがとうございます……?」
よく分からないけど、ハルがここへ来たからルビーを助けてくれたらしい。
「さあハル、そろそろ行きなさい。ミルキーに危険が迫っています。ハルがここで仕事を始めるならば、ミルキーを迎える事も出来ますが、ハルが戻ることを選ぶならば、早くミルキーの危険を止めた方がいいでしょう。さあ、出発の時ですよ」
「え、何?ミルキーさんに何か起きちゃうの?」
神の言葉が不穏だった。
「ここ」はあの世とこの世の境目だ。
神から色々言われている意味は分からないが、とにかくミルキーを「ここに迎える」事――それは避けるべき案件だろう。
「ハルが戻れば彼の危険は去りますよ。――では出発としましょう。これ以上ここにいると、ハルも戻れなくなりますからね。ハル、また会いましょう」
「あ、はい、神様。ユニコちゃんの空の旅サービスありがとうございます。さようなら」
「これ以上ここにいると戻れなくなる」らしい。
やはり不穏な言葉を聞いた気がして、ハルはもうここから撤退する事にした。
「わあ〜すごい!ユニコちゃん、最高だよ!」
高反発クッションの、腰に優しいユニコーンの背中に座り、風になびくパステル調の虹色たてがみを見ながらの空の旅は、とても快適で贅沢な旅だった。
風が強くハルに当たらないよう、ゆっくりユニコーンが飛んでくれているのも分かる。
ファサアッ――ファサァッと翼をはためかせる音は、空の旅を盛り上げてくれる贅沢なBGMだった。
「空から見る夕日って本当に大きいね。夕日の光がユニコちゃんのたてがみにも羽にも反射してキラキラしてるよ。ユニコちゃんは世界一綺麗だね。国宝級美貌の神獣だよ。良い子だね」
夕日の光にキラキラと輝く虹色のたてがみを、ハルはそっと優しく撫でた。




