20220117
陳腐な話をしたいわけじゃないけど、しょうがない、出だしは「おれが大学の頃」なんだ。ド田舎って言っていいほどの田舎だったかはナントモだけど、まあ田舎だったな。駅前に小さい本屋があってさ。一応新刊書店なんだけど、背表紙が大体日焼けしててね。いわゆる文豪系の新潮文庫を一冊手に取ってみると、表紙のデザインがもう新しいの出てるんだけどなあっていう、まあそんなぐらいの田舎だったわけさ。その駅の反対側に行くってのは滅多にそんな気も起きないことで、何せそっちには何もありゃしないからさ。よほど散歩しようって気にでもならないと行かないわけだ。で、何せヒマを持て余した大学時代の話だからさ、たまには行ってみようって気にもなるわけさ。そういう気を起こすのって、大抵夜中の三時とかそれぐらいの、寝そこなってハラ減ってるけど食うもんねえなあってときで。当時はまだスマホなんて上等なものもなかったし、その日は冬も真冬でね、おれの部屋にはエアコンもなくて室内でも吐く息が白いってザマだった。で、外に出た方が幾分マシなんじゃないかって、一年三百六十五日もあれば一度ぐらいそんな気まぐれ起こすことだってあるだろうさ。で、外に出た。コンビニまで歩いて二十分ってところだったが、財布の中には二百円ぐらいしかなかったし、まあ歩いてりゃその間は食わずに済むだろみたいな雑な考えで歩いてたわけさ。その夜は雪は降ってなかったけど、前の月に降った雪がいまだに路上に残ってて、泥まじりで生き恥さらしてた。駅舎には夜中でも明かりがついていて、小汚いじいさんがひとりベンチに寝そべってたよ。酒瓶だけ握ってたままでさ。それ以外は無人の街だった。おれはさっき言った、駅の反対側に行ってみようと思った。踏切の向こう側は未開の地だった。昼間にすら行ったことがないのに、街灯もろくに生えてない暗い街並みは、新鮮というよりフツーに怖いと思ったね。それでも引き返そうって気にならなかったのはなんでだろうな、そういう気分だったからとしか言いようもないんだが。風も吹かないから、響いてるのは自分が泥みたいな雪を踏みしめる、ぐっ、ぐっ、というくぐもった音だけだった。そういう風景を歩いていくと、徐々に何かこうひんやりとした冷気が降りてくるのを感じたんだな。いや先に言ってしまうと、幽霊とかが出てくる話ではないよこれは? いやわかんないけどさ。今言ったのは物理的な冷たさのことで、ようするに気づかないうちに山沿いの道を歩いてたんだな。暗いからそれすらもわかってなかったんだよ、本当。で、その冷気は山肌をつたって我が身に降りかかってたわけだ。そのまましばらく歩いていくと、不意に明るい場所に出た。トンネルだ。内部には明かりがともっていたから、そっちの方が明るかったんだ。それが歩行者用のトンネルってやつでね、田舎にはこういうのもあるんだなあって思ったよ。入口のところに「スケボーの練習禁止」って看板が立ててあって、まあなんていうかちょっと危ない感じもしたわけだ。でもなんだろうなあ、「今を逃したら一生こんなところに入ることもないだろう」って気がしてさ、入ったわけだ。そのトンネルは通りすぎるのに歩いてせいぜい十分もかからないぐらいの長さだった。計ってないからわからないけど、体感的にはそれぐらいで、つまりおれはもちろんそのトンネルを出口までくぐり抜けたってことなんだけど。ただ、何事もなく、ってことはなかった。濡れた靴跡をつけつつ歩いていくと、中腹ぐらいに、壁にもたれるようにして寝転がってる人影があってさ。そりゃ、よけて通ろうとするよな。そいつは右側の壁にもたれてたから、当然おれは左側の壁に寄って進んでいった。そういうとき、誰だって「見ないようにしようとして見る」みたいな見方をすると思うんだけど、きみはどうかな。おれはそうやって見たよ。小汚いじいさんでさ。ああいう人達ってなんで酒瓶だけは持ってるんだろうな……ってところで、ん?ってなるわけさ。あの三倍醸造酒のラベルはさっき見たばっかだぞ……そういえば駅舎で寝転んでたじいさんとよく似てるな……いや、同じじいさんじゃないか?ってね。いやおれにじいさんの目利きなんてできんのかって話だけどさ、少なくとも印象の上ではまったくもって同一人物で、おれはちょっとぞっとしてしまってね。物理的に先回りができないわけじゃない。ただする意味もないし、さっきも言ったようにその日の路面状況なら足跡ぐらい残りそうなものだしな。単にねぐらを変えただけとか、そもそも別人だったとか、まあそんな妥当な解釈もできるわけだけどさ、とにかくそのときのおれはものすごく怖くなって、コソコソと逃げるようにその場を後にした。トンネルの反対側に出るといっそうわけわからない場所なわけだけど、とてもじゃないが引き返す気にはなれなくて、そのまま当てもなく歩き続けたよ。何せスマホがなかったからさ当時。まあオチはないよ。大分歩いた先に二十四時間営業のガソリンスタンドがあって、そのちょっと先にコンビニがあって、そこでしばらく立ち読みしてるあいだに外が明るくなってきて、すぐ近くに一個先の駅があるとわかっておれは始発に乗って帰ったよ。運賃は百五十円だった。持っててよかったよ二百円。駅舎にはもうあのじいさんの姿はなくてさ、そこだけが不安だったけど、まあなんとか家に帰れたってわけだ。何、それで終わりって? オチはないって言ったばかりだが。