紅章 9話 運命~間違い~
「御用改めである!」
強烈な蹴りで扉が軋む。
留め具が弾け、吹っ飛ぶ扉。
もはやただの金属塊と化したそれは宙を舞い、ボス部屋に鎮座していた主君へと牙を剥いた。
――そこにいたのはスライムだ。
アメーバ状の肉体。
山のように盛り上がった体は高さだけで10メートルほど。
しかしいざ戦いとなれば、その粘体の体積はさらに膨張することだろう。
スライムへと飛来する扉。
しかしスライムは躱さない。
できなかったのか、やらなかったのか。
それは定かではない。
そこに存在する現実は、扉はスライムの肉体をすり抜けて向こう側の壁に突き刺さったということだけだ。
「見敵必殺!」
乱暴な開戦の合図。
紅音は高速で部屋の中へと走り込んだ。
ボスに反応さえ許さない刹那の交錯。
彼女の剣が振るわれた。
「どうだっ!」
スライムを飛び越えながら、紅音は空中でボスの生存を確認する。
振るった斬撃。
その傷跡は――ない。
さっきの扉がそうであったように。
彼女の刀はスライムをすり抜けていた。
「――――!」
ようやく反応が追いついたのか。
スライムの触手が紅音へと伸びてゆく。
それはまるで幾本もの槍。
弱いモンスターとされるスライムとはいえ、ここにいるのは最低でもBランクに属するモンスター。
当たれば負傷は避けられない。
「遅いっ」
しかし『当たれば』などという仮定は紅音に対して無粋の極み。
なぜなら、当たらない。
実現しない仮定など意味がない。
紅音は空中で身をひねり、触手による攻撃の隙間へと体を滑り込ませる。
動きにくい空中というハンデさえ彼女の動きを止められない。
しかし追撃は続く。
着地した紅音を狙うように触手が降り注ぐ。
触手の雨。
だがその攻撃密度さえ彼女を捉えきれない。
最小限の動作で攻撃をかいくぐる紅音。
首筋を。
腰を。
足を。
触手が全身を掠めるようにして地面に突き刺さった。
「そらっ」
くるりとその場で回る紅音。
円形に斬撃の軌跡が引かれてゆく。
――だが、刀は触手をすり抜ける。
その事実を横目に観察しながら、紅音はスライムから距離を取る。
彼女は刀を逆手に持ち、地面へと刺し込んだ。
「今度はこっちの番だよ」
振り上げられる刀。
それに伴って大量の岩石が巻き上がった。
放物線を描く大小様々な岩。
だが、当たらない。
すべてがスライムをすり抜け、地面へと転がってゆく。
「ありゃりゃ」
どんな攻撃も当たらない。
まるで幽霊でも相手にしているかのように手応えがない。
紅音は太刀を肩に担ぎスライムへと向き合った。
「もしかしてアレってお父さんが言ってた『ファントムスライム』って奴かな」
紅音が口にしたのはAランクモンスターの名前だった。
その名の通り、スライム系列のモンスター。
最大の特徴は確か――
「物理完全無効、だっけ?」
――あらゆる物理攻撃を透過する体質。
スキルではない。
だからこそ無効スキルも意味をなさない。
そんな厄介な性質を持っていたはず。
「でもさぁ!」
触手のさらなる追撃が紅音に迫る。
彼女はそれを跳んで躱した。
しかし追撃は終わらない。
触手は方向転換し、彼女の命を狙う。
「これならどうかな?」
飛び込んでくる触手。
紅音はそれを――左手で受け止めた。
飛び散る血液。
触手は彼女の掌を貫き、穴を空けた。
「紅音ちゃん!?」
紅音の負傷に思わず血の気が引く。
鹿目が動揺の叫びを上げるも、紅音の表情に変化はない。
変わらず敵を見据えていた。
「攻撃している今なら――実体でしょ!」
刀を構える紅音。
彼女はそのまま――左手ごと触手に刀を刺し込んだ。
現在、紅音はファントムスライムの攻撃を受けている。
言い換えるのなら、ファントムスライムは物理的な干渉を行っている最中だ。
ならば理屈で考えて透過は不可能。
そんな思考に根差したのであろうカウンター。
だが――
「攻撃してる時でも物理無効のままなの……!?」
触手からは一滴さえ血が流れない。
紅音に攻撃を加えていながら、紅音からの反撃を受けていない。
物理的に考えられない現象がそこにあった。
「こいつの物理無効は『攻撃時にしか実体化しない』なんて可愛いものじゃない――」
ここでついに紅音の表情が歪んだ。
眉を寄せ、ファントムスライムを睨みつけている。
――ファントムスライムの透過にON・OFFの概念がない。
――攻撃中のカウンターなら有効だなんてご都合を許さない。
ファントムスライムは物理攻撃で倒せない。
それだけがこの場におけるルールなのだ。
「お父さん、言ってたなぁ」
紅音は触手から距離を取る。
穿たれた左手から流れる血は止まらない。
「『ダンジョンには必ずテーマがある』かぁ」
紅音はから笑いと共に天井を見上げていた。
テーマ。
それは鹿目も聞いたことがある。
上級の冒険者の間で語られる理論。
確か【面影】の月ヶ瀬詞が言及したことで有名になった話だったか。
ダンジョン内のモンスターは無作為のようで一定のルールに従っている。
それを『テーマ』と評したのだ。
だが、そのテーマにはおおまかに2種類存在する。
雑魚からボスまでが同一の条件で選定されているタイプ。
あるいは、ボスを活かすために雑魚が配置されているタイプ。
だとしたら、今回のダンジョンは後者だ。
ここまで現れたのは『対魔法に特化したモンスター』だった。
その理由はシンプル。
ボス部屋に魔法使いが現れないようにするため。
――『物理完全無効』のファントムスライムの弱点を補うためだ。
ここまで鹿目たちはなんの危機感もなく探索できた。
それは紅音が卓越した剣技の使い手だったからだ。
もし――もしも――その剣技が通じない敵が相手だったのなら。
「――やば。これ勝てないかも」
紅音の口から漏れた言葉は、絶望するのに充分すぎるものだった。
☆
攻防は終わらない。
だが、それは一方的なものだった。
ファントムスライムが攻撃して、紅音が躱す。
紅音が反撃しても、ファントムスライムは意にも介さない。
実力だけならば紅音が凌駕しているはずなのに。
そこにあるのは圧倒的な相性差。
無情な壁に阻まれ、紅音の攻撃は通らない。
「紅音ちゃん……?」
鹿目はそんな光景を前に立ち尽くしていた。
――明らかに紅音が余裕を失い始めている。
表情は真剣そのもの。
頬を汗が流れている。
何度が攻撃を受け、着流しが裂けている。
最初の気楽な様子はもはや消え失せていた。
(紅音ちゃん、もしかして魔法系のスキルを持ってないんじゃ……)
これまでの戦闘を見るに、彼女の職業は直接攻撃に特化している。
魔法に分類される攻撃手段がなくてもおかしくはない。
魔剣とまではいかずとも、それに準ずる道具を所持していればあるいは――とも考えたが、もしそんな道具を持っているのならすでに使っているはず。
「出口は……」
(塞がれてる……)
この場を離脱して、他の冒険者の到着を待つか。
そう思うも、その望みは絶たれる。
出口がファントムスライムにふさがれているのだ。
あそこから脱出するには、ファントムスライムの体内に潜る必要がある。
――不可能だ。
「だとしたら……」
やはりファントムスライムを倒すしか活路はない。
ならば、
(私のトラップなら有効打になるかもしれない)
ファントムスライムは物理攻撃に絶対的な優位を持つ。
半面、魔法攻撃には致命的に弱い。
それこそ、鹿目のスキルでも有効打になるほどに。
「行かなきゃ……」
もはや疑う余地はない。
紅音は今、窮地に陥りつつある。
「このままじゃ紅音ちゃんが危ない」
そして鹿目なら、事態を打破できるかもしれない。
可能性がある、程度の話だったとしてもだ。
「私よりも、紅音ちゃんが生きないと」
(紅音ちゃんはこれから未来で、たくさんの人を救える人だから――)
そんな思考に至った時、鹿目の足は止まった。
「――違う……!」
頭を振る。
しかし雑念は消えない。
一度浮かんでしまえば、染みついていた思考が絡みついてくる。
「違う、違う、違う……!」
右目が痛む。
気が付けば、鹿目はその場でうずくまっていた。
ここが戦場であることも忘れて。
紅音から目を逸らして。
頭を抱えたままブツブツと言葉を繰り返す。
「数だとか価値だとか……そういうのじゃ、ない!」
違う。
違う。
そういう考えが、嫌いだったんじゃないのか。
だからあの日、少しだけ……安心したのではないのか。
――自分が、選ばれなかったことに。
頭を巡る欝々とした思考。
動けない。
動けない。
それがどれほど致命的なことなのか、気付けないまま。
「危ない鹿目ちゃん!」
「え……?」
悲痛な紅音の声が彼女を現実に引き戻す。
鹿目が顔を上げたとき。
ファントムスライムの触手が眼前に迫っていた。
あと数メートルか。
そんなことは関係がない。
鹿目の回避能力では躱せない。
それだけがこの場における真実だ。
(これ死んじゃ――)
走馬灯なのだろうか。
触手の動きが鮮明に見える。
見えたところで、体は動かないのだけれど。
(ダメ)
迫る死。
恐怖が湧き上がる。
自分の死への恐れ。
そして、役割を果たせないことへの恐れだ。
(死ぬならせめて、紅音ちゃんを助けてからじゃないと)
そうじゃないと命が無駄に、
もったいない、
未来で救える人が、
違う、
紅音ちゃんは友達で、
だから助けたいだけで、
ああでも間に合わなくて――
「っ――!?」
顔を覆ってしゃがみ込む鹿目。
しかし衝撃は訪れない。
「……?」
数秒。
避けられないはずの衝撃も、痛みもない。
困惑したまま鹿目は顔を上げる。
「はは……」
そこには紅音がいた。
彼女は手を広げ、鹿目の前に立っていた。
「紅音……ちゃん?」
べちゃべちゃと音が鳴る。
赤いものが地面を広がってゆく。
指先に触れたそれは熱くて、命の温度を感じさせる。
それを目で追えば、紅音の腹から流れ落ちていて――
「――ぎりぎりせーふ、ってね」
そう笑う紅音の腹部は、触手に貫かれていた。
1章アナザーで出てきた『ボスの欠点を補う雑魚が配置されているタイプ』のダンジョンです。




