雪章 16話 The lunaria END
「きっついなぁ……コレ」
詞の口は早々に弱音を吐いていた。
【操影】で影を伸ばし、壁へと刺す。
それを足場にして一歩。
気の遠くなるような繰り返し。
落ちている間は数秒で通過した距離も、この方法では途方もない時間がかかってしまう。
加えて肉体の消耗がかなり重くのしかかってくる。
正直なところ、すでに意識もはっきりしていない。
もしも透流を背負っていなければ、さっさと諦めて地べたで最後の休憩を満喫していたことだろう。
「おっと」
わずかに壁が崩れ、影が抜けてしまった。
詞はすぐに肘から新たな影を伸ばし、穴の対岸へと突き刺す。
肘の影をつっかえ棒のようにして体を固定。
そのままの体勢で影を伸ばし、再び壁に刺し直す。
這うようにして壁を上ってゆく詞。
そしてついに、縦穴が終わりを告げた。
「これで……どうだぁ……!」
全力で身を乗り出し、なんとか縦穴から体を引き抜く。
平面な床の存在が懐かしく思えてくる。
視界の端で、手元から伸びている影が崩れていた。
どうやら魔力が底を尽きたらしい。
あと数秒でも脱出が遅れてしまえば、そのまま詞たちは落下していた。
かなりギリギリの状況だったようだ。
しかし、まだ魔界樹の内部であることに変わりはない。
詞は透流を背負い直し、出口を目指してゆく。
「これで……なんとか」
一歩。もう一歩。さらにもう一歩だけ。
そう自分に言い聞かせながら進んでゆく。
そんな無限にも思えるやり取りの果てに――出口が見えた。
さっきまで地下にいたせいだろうか。
差し込んでくる月光さえも眩しく思えてくる。
そんな光へと彼は踏み出して――
「あ……れ…………?」
視界が暗転していた。
頬を削る小石の感覚。
どうやら、転んでしまっていたらしい。
「うっそ……こんな格好つかないこととかある……?」
思わず変な笑いがこぼれてきた。
最後の最後で転ぶだなんて間抜けな話だ。
ここはヒーローのように、颯爽と助け出せたら格好もつくというのに。
そんなことを思いながら立ち上がろうとして――また転んだ。
「あ、れ……?」
今度は身を起こすことも出来ない。
手を支えにしても、踏ん張り切れずに地面を舐める羽目になる。
何度も。
何度繰り返しても、立ち上がれない。
出口はすぐそこだというのに。
立ち上がれさえしたのなら、数秒も必要ない距離にあるというのに。
(力、入らないや……)
嫌でも分かる。
月ヶ瀬詞という人間の限界をついに超えてしまったのだ。
意識はあっても、彼の体はすでに死んでいる。
もう、動くことなど許されていないのだ。
「もうすぐ……なんだよ」
だけど、そんな理由で納得できるわけがない。
立てないなら、這ってでもいい。
見苦しくても、無様でもいい。
そう思っていても、詞の体は出口を目指さない。
傍から見れば、手足を千切られて死にかけた虫と変わらない姿だろう。
「もうすぐだから……もうちょっとだけだから……」
それでも詞はあがく。
「透流ちゃんだけでもいいからぁ……」
ここにいるのは詞だけではない。
詞だけなら諦めもつく。
だけど今、彼の背中には透流がいるのだ。
彼女を背負っている以上、ここで終わるわけにはいかないのだ。
「頑張ってよ……ボク……!」
限界ならとうに超えただろう。
1回超えたなら、2回目が無理な道理がどこにあるのだ。
もう1度くらい、奇跡を起こそうという気概はないのか。
そう体に言い聞かせる。
死んでもいいと思ってここまで頑張ってきたのだ。
なら、意識がある間くらいは動いてくれ。
そう懇願する。
しかし、彼の体は動かない。
魔界樹の崩壊は止まらない。
確実に死は彼らの背中を追ってきていた。
「――――詞」
そんな時、声が聞こえた。
包み込むような。
優しくも、力強い声が。
「……お兄ちゃん?」
顔を上げる余力さえない。
それでも、彼の声を聞き違えるはずがなかった。
「詞」
彼は、景一郎は問う。
詞へと。
「――助けは必要か?」
出口の前に立ち、彼は問いかけた。
助けてほしいか、と。
――きっと普段なら、景一郎は何も言わずに助けてくれたはず。
だから分かる。
この問いかけの意味が。
助けてほしいか。
最後まで自分でやり遂げるか。
背負う最愛の人をどう救いたいのか。
守るべき仲間としてではなく、1人の男として――彼は問いかけているのだ。
「――――まさか」
気が付けば、詞は笑っていた。
「冗談キツイよお兄ちゃん」
面白いほどに手足が震えている。
それでも、詞は立ち上がっていた。
「ボクはね――」
ああ、馬鹿らしい。
なんて馬鹿らしいことを考えていたのか。
思い返すほどに笑えてくる。
「好きな子の命を、他の男に預けられるほど――」
透流だけでも助けられたら。
なんて浅はかな。
そうやって彼女を助けたとして。
そうやって自分が死んだとして。
きっと彼女は悲しんでくれるだろう。
だけど、いつかきっと歩き出す。
彼女は強い人だから。
――それでいいのか?
それで詞はいいのか?
そうやって彼女が再び歩み出した道に自分がいないことに耐えられるのか。
彼女が、そうやってまた他の誰かを好きになるなんて。
――耐えられるわけがない。
耐えられないのなら――
「器が大きくないんだッ……!」
自分も生きて――これからも一生、彼女を守り続けるしかないだろう。
この想いは絶対に譲れない。
たとえ相手が景一郎だったとしても。
彼にさえ、この女性だけは任せられない。
詞自身の手で、守りたいのだ。
「そうか」
そう答えた景一郎は――笑っていた。
だからつられるようにして詞も笑う。
不思議だ。
搾りつくしていたと思った体力がわずかに湧き上がる。
それはほんの雀の涙。
それでも――大切な人を助け出すには充分だった。
「はぁ……はぁ……」
透流を背負ったまま倒れ込む詞。
地面は――固い。
アスファルトの固さを感じる詞の背後で、ついに魔界樹が完全に崩落した。
自分自身の手で、大切な人を守り抜くことができたのだ。
そんな実感が遅れて湧いてくる。
「透流ちゃん」
詞は倒れたまま問いかける。
その視界に夜空を捉えて。
「月が、綺麗だねぇ」
もっとも、霞んだ視界では月などまともに見えていないのだけれど。
それでもきっと、今夜の月は綺麗なはずだ。
「……まあ、死んでもいいなんて言われたら困っちゃうんだけどね」
透流の吐息を感じたまま、詞は意識を手放した。
I love you=月が綺麗ですね=私死んでも良いわ
次回、エピローグ。




