終章 40話 悪神
「【魔界顕象・玉響那由他】」
バベルが唱える。
甘ったるい声で。
愛するように。
心を逆撫でするように。
凪いだ穏やかな声で。
どこか悪魔的な声で。
彼女は、世界を塗り替えた。
「どんだけ傍迷惑なんだよマジで……!」
彼女が起こした以上の規模はこれまで見たことがないものだった。
これまで見てきた【魔界顕象】の範囲は精々数十メートル程度。
だが、彼女の【魔界顕象】は100倍にさえ収まらない。
空が闇に呑まれてゆく。
空に宇宙が投影されてゆく。
目が届く限り――おそらくそれよりも広がっている宇宙。
軽く見積もっても彼女の【魔界顕象】は数十キロ圏内を巻き込んでいた。
「……まるでオリジンゲートだな」
瓦礫の浮かぶ宇宙。
それはまるでオリジンゲート――エニグマがいた部屋に酷似している。
オリジンゲートと似ているのはそれだけではない。
バベルの体が――巨大化してゆく。
天を衝かんばかりに体が拡大され、肌が宇宙に包まれてゆく。
白髪や、女性ゆえの体格など多少の相違点はある。
だが、その姿はまさに――エニグマだ。
「【玉響那由他】の能力は世界の支配」
バベルは景一郎と対峙する。
両手を広げ、演説するかのように言葉を紡ぐ。
「世界の裏側の情報さえ読み取り、スキルの射程に縛られることもない」
彼女はそう説く。
「言いたいことが分かるかな」
彼女の首が傾いた。
口元が三日月を描く。
「僕がこの大地に触れたら、地球全体に【致死の右】を使えるってことだよ」
スキルには射程が存在する。
投げた石がいつか地面に落ちるように。
術者から離れた位置では、スキルの効果も減衰するのだ。
有効射程は術者の魔力や熟練度によって変動する。
だが、無限ということはあり得ない。
しかし彼女が言うことが本当なら。
理論上、足元に触れただけで地球の裏側の地形を変えることもできる。
「まさか――」
「この世界を守りたかったら僕を殺してみなよ! 影の救世主!」
バベルは右手を振り下ろす。
巨大化した剛腕は、きっと一撃で大地を割ることだろう。
だが、それさえも些事。
彼女の【致死の右】が地球に対して発動してしまえば、簡単に世界地図が変わってしまう。
「この……!」
景一郎は矢印に乗って加速する。
彼女の右手は絶対に阻まなければならない。
もしも彼女の手が一瞬でも地面に触れてしまったのなら、そこで世界は終わりだ。
「【魔界顕象】!」
ギリギリのところで景一郎はバベルと地面の間に割り込んだ。
彼の【魔界顕象】により、バベルの手に宿った変質の力が逆転する。
景一郎の肉体へと流れ込み、破壊するはずだった力が逆流し、術者本人であるはずのバベルの腕を破裂させた。
「まだだよ」
だがバベルに動揺はない。
なぜなら――
「ほら、今度は2本だ」
すでに彼女の右腕は――2本あったからだ。
おそらく【致死の右】で右腕を変質させ、3本に枝分かれさせていたのだろう。
景一郎がさっき潰したのはそのうちの1本。
彼女は残る2本を地面へと振り下ろす。
「このッ」
景一郎は地を蹴り、すぐさまバベルの右腕の前に飛び込んだ。
景一郎とバベル。
2人の【魔界顕象】の相性は良い。
彼が身を盾にすれば、一瞬で彼女の腕を破壊できる。
――1本は。
(俺の【魔界顕象】じゃ範囲が狭すぎてカバーしきれない)
だが、彼の視界の端にはもう1本の右腕が映っていた。
「終わりだ。世界」
景一郎の【魔界顕象】の有効射程は5センチ。
実質的に、対象に触れていることが前提となる。
ゆえに1度に止められるのは1つだけ。
同時に2か所を狙われてしまえば手の打ちようがない。
(あの右手は――止められない)
ここから遠距離攻撃をぶつけるか。
いや、それくらいバベルも予想している。
だからこそ彼女は、景一郎から離れた位置に右手を向かわせている。
景一郎の攻撃が着弾するより、右手が地面に触れるほうが早い。
どうにもならない。
そんな無情な答えが脳裏をかすめたとき――
「【魔界顕象・白の聖域】」
大量の氷が地面から噴き出した。
地面から伸びた膨大な氷柱がバベルの右手を包み、抑え込んだのだ。
右手に触れたことで氷は分解されているが、手首を完全に固定されているせいでバベルの腕は進まない。
しかしそれも時間の問題。
バベルの腕力に耐えきれず、氷が砕けてゆく。
「【秘剣・白雷】」
その時、地面から伸びた斬撃が弧を描いた。
「【式神憑依】」
斬撃だけではない。
巨大な魔弾が地面から撃ち上げられる。
斬撃と魔弾。
2つの攻撃はそのままバベルの掌に着弾する。
単体でもかなりの威力を誇る攻撃。
それを同時に受け止めたことで、バベルの体が押された。
わずかによろめくバベル。
彼女がのけぞったことで、右手は地面から遠ざかることとなった。
「あれは――」
突然の援護射撃。
景一郎は攻撃の主へと目を向け――驚きの声を漏らした。
グリゼルダ。
紅。
菊理。
雪子。
そこにいたのは彼の使徒であり、もっとも頼りになる戦力。
一方で、戦えるような状態ではなかったはずの女性たちだった。
「ん……こういうときに出せる大技がなかった」
小柄な女性――雪子が手持無沙汰な様子でそう漏らす。
彼女の本領は隠密あるいは暗殺であり、こういった場面での大技は持たないのだ。
「いやはや、ギリギリだったね」
そんな戦場に白い少女はいた。
彼女は微笑み、杖を手に歩いている。
「未来視てるんだからギリギリとかないデショ」
白い少女にそう言い返すのは黒髪の女性だった。
彼女は触手のような生々しくも禍々しいドレスを纏い戦場を闊歩する。
「ともあれ――微力ながら、お手伝いに来たよ景一郎君」
白と黒。
戦場に現れたのは天眼来見と女神リリスだった。
最終形態、巨神バベル。
決着はそろそろのはず。




