終章 36話 聖誕
「ああ――分かっていたことだよ」
どこか清々しげにバベルは笑う。
手足を地面に投げ出し、心臓があった場所から際限なく命をこぼしながら。
「僕も君も、神の因子を継ぐ者」
着実に迫る死。
彼女はそれに一瞥さえしない。
彼女の目に映っているのは灰色の空と、彼女を見下ろしている景一郎だけだ。
「しかし、その位階は大きく隔たっている」
バベルは神の因子を持つ者。
そういう意味では景一郎と同じ立場だ。
しかしモンスターにランクがあるように、神にもある程度の区分けが存在する。
バベルが有している因子はエニグマ――1つの世界を管理する神。
半面、景一郎の身の内にあるのは現在過去未来、そして並行世界さえ管理する存在。
「だから、覚醒率が同じなら僕に勝ち目はない。それは分かっていたことなんだ」
まったくもってスケールが違う。
同じ完成度で争えば、その優劣は明白だった。
「――決めたよ。僕は乗り越える」
そのはずなのにバベルの薄笑いは消えない。
むしろより狂喜し、狂気へと踏み込んでゆく。
「不本意だけど、神の責務も受け入れよう。身の安全を、未来の安泰を守ったまま戦ってもこの勝負に勝ちはないから」
心臓を胸の穴がふさがってゆく。
彼女はゆっくりとした動作で立ち上がった。
「全部全部、全部賭けてみせるよ」
彼女の体から魔力がにじんでゆく。
その量はすさまじく、明らかに景一郎の総魔力を凌駕している。
「ゲームは……狂ってるくらいが面白いからさぁッ!」
バベルの肩甲骨が盛り上がり、弾けた。
そこから飛び出したのは黒い翼。
奈落のように暗く、死のように絶望的な黒。
人知を超えたその翼は、宇宙をそのまま切り取ったかのようだった。
「覚えておくといいよ」
バベルの口が三日月を描く。
「君たちの世界での常識はどうか分からないけれど――ラスボスには第2形態があるものなんだ」
「……これは」
景一郎は眉を寄せる。
実際に見たことがあるわけではない。
だが、彼女の身に起きた変化の意味を理解できていたから。
「これは、神だよ」
これは、未来の景一郎だ。
これから――きっと数刻と経たずに景一郎がたどる道。
人間を捨て、神へと至る道程だ。
「世界のあらゆる場所で――いや、世界を隔てているにもかかわらず、示し合わせるまでもなく人間が存在を感じていたもの――神の姿だよ」
恍惚とした笑み。
バベルは万能感に酔いしれているのか、頬を上気させていた。
それも当然だろう。
見ているだけでも彼女の存在が別次元へと移行したのが分かるのだ。
本人が何も感じていないわけがない。
「これで立場は逆転だね」
バベルの指が景一郎へと向けられた。
さっきまで、景一郎の実力はバベルを超えていた。
相性だけでなく、紅たちを使徒としたことで戦闘力でも勝っていた。
だが、その力関係は覆った。
地力において、バベルは完全に景一郎を上回っている。
「僕のスキルがある以上、君は完全な神になるわけにはいかない」
そして、景一郎は彼女と同じ手段に頼れない。
景一郎の優位性。
それは発展途上であるということ。
肉体も魔力も神へと移行する過程にあるため、常に変化し続けている。
それによりバベルのスキルを無効化できるという突破口。
彼女と同じように覚醒率を上げることで対抗しては、相性の有利という勝機を捨てることになってしまう。
「だけど、不完全な神では本当の神には勝てない」
だが問題は、はたしてこの力の差が相性程度で取り返せるものなのか否か、だ。
「ここからが本当のラストバトルだね」
彼女の宣言と同時、地面に蓮の花が咲いた。
――違う。
あれは右腕だ。
バベルの肉体のあらゆる場所から右手が生えている。
それらは折り重なり、まるで蓮華のような姿となっているのだ。
彼女を中心として伸びる右腕たち。
その醜く歪んだ人体は背徳そのもの。
見ているだけで吐き気を催しそうな姿だった。
「ふふ、あは、あははははははははははは!」
そして悪徳の花弁は、景一郎に狙いを定めた。
バベルの周囲で咲いた右腕が――伸びた。
動作ではない、物理的に腕が伸縮しているのだ。
骨が、皮が、肉が伸びて景一郎へと襲来する。
――あれもおそらく【致死の右】を内包しているはずだ。
景一郎は跳んで右腕の津波を躱した。
「分かる、分かるよ! 1秒ごとに人間としての意識が死んでゆく! 勝っても負けても、僕の存在はこの世界の摂理となり、勝利の美酒に酔うことさえも許されない!」
景一郎は絶え間なく襲う数十本もの右腕。
一方で、バベルはこちらを見てさえいない。
焦点の合わない瞳で天へと語りかけている。
「でも大丈夫だ! 僕は今、この戦いに酔いしれているんだから!」
突如、右腕たちが方向転換する。
右腕が変形し、2つ目の肘が現れたのだ。
追尾してくる右手を景一郎は避ける。
だが終わらない。
新たな肘を作り、軌道を曲げる。
何度も何度も何度も。
右腕は折れ、多角的に景一郎を追い立てる。
「お互い、勝っても負けてもゲームオーバー! なら! 最高に狂ったエンディングを作ろうじゃないか救世主!」
蛇のように、あるいは龍のように。
右腕は複雑な軌跡を描いて景一郎を追い詰めてゆく。
数本程度ならどうにでもなる。
しかし100に届きそうな数の腕だ。
必然的に逃げ場は少なくなる。
そしてついに――逃走経路が潰えた。
四方八方、上下左右から迫ってくる右腕。
どう動いてもすべてを避けるのは不可能だ。
そして、あの内のどれか1本に掠めただけで景一郎の体は塵となる。
「――仕方ないか」
だから、景一郎は動いた。
――覚悟した。
突如として景一郎の魔力が膨張する。
黒い影が弾け、迫っていた右腕を呑み込んでゆく。
本来であれば右腕に触れた部分から影は分解されてゆくだろう。
だが、今回はそうならなかった。
バベルの右腕たちは拮抗さえ許されずに影の中へと消えていった。
「一線を越えた僕のキャパシティさえ超えた魔力、か」
その状況にバベルは動揺を見せることはない。
彼女も分かっているのだ。
景一郎が何をしたのかを。
ほんの1分にさえ満たない。
だが間違いなく――彼女は先輩なのだから。
「ようこそ。神の世界へ」
それは先輩としてか。
バベルが口にしたのは歓迎の言葉だった。
神VS神。




