終章 31話 Deus
「ッ――――」
紅の判断は早かった。
彼女は地を蹴り、一気にバベルとの距離を詰める。
停止状態から一瞬で最高速へ。
加速という概念を超えた高速移動。
スピードという分野において、紅は【先遣部隊】の誰とでも互角以上に戦える。
そう自負していたし、そこに誤りはないだろう。
「ふふ……」
しかしバベルは意に介さない。
彼女は倒れそうなほどに身を逸らし、横薙ぎに振るわれた斬撃の下に潜り込む。
「まだです」
だが紅の攻めは終わらない。
最高速からの急停止。
そのまま身をひねり、今度は剣を縦に振り下ろす。
狙うのはのけぞるバベル――その首だ。
あの体勢から回避行動に移るのは不可能だろう。
「そりゃあ、僕もまだ終わらせたくはないからね」
直後、バベルの足が地面を離れた。
彼女は空中で体を後転させ、その勢いを乗せた蹴りを紅へと向ける。
いわゆるムーンサルトキック。
その足先は正確に紅の顎を狙っている。
「っ」
紅は斬撃を中断して跳び退いた。
バベルの蹴りが紅の前髪を掠めた。
回避の判断があと少し遅ければ手痛い一撃を食らっていたことだろう。
「ふふ……! ちゃんと避けられたね……!」
バベルは薄く笑う。
彼女は両手を軽く広げ、紅が動き出すのを待っている。
(私は以前に一度、あの左手に触れられています)
紅が知る限り、バベルは2つのユニークスキルを持つ。
触れたものを完全解析する左手――【既知の左】。
触れたものを変質させる右手――【致死の右】。
後者は術者が触れたものの性質を熟知していることを条件として発動するようだった。
だが、前者の能力が加われたこの2つのスキルは驚異的な相乗効果を発揮する。
(だから一度でも右手で触れられたら……死ぬ)
左手で敵の肉体を完全解析し、右手で変質させる。
そうすれば容易く人体を破壊できるのだ。
そして紅はオリジンゲートでバベルたちと戦った際、あの左手で触れられている。
つまり今後、バベルの右手の指が掠めただけで紅は致命傷を負いかねないということだ。
「うーん。今度はどうしようか」
バベルは暢気にそう口にした。
そこには戦意らしきものは見られない。
その程度にしか、まだこの戦いに集中しきれていないということだ。
「うん。今度はこうしよう」
身を沈めるバベル。
彼女の右手――指先が太腿に触れた。
「【致死の右】」
「あれは……!?」
突如、バベルの肉体に異変が生じた。
彼女の足が波打っている。
足が膨張と縮小を繰り返す。
内側で何かが暴れているかのようにうごめく肉体。
それが終息したとき――
「ほら――触れるよ」
紅はバベルの肉薄を許していた。
1メートルさえもない近接状態。
すでに視界の大半が、彼女へと伸ばされたバベルの掌で埋め尽くされていた。
「しま――」
あと数センチ。
バベルの手が進めば、紅は頭を吹き飛ばされることになるだろう。
(速い……!)
これまで見たことのない速力。
完全に出遅れた。
(躱せない……!)
ここからでは紅の速力をもってしても回避不能。
――通常の手段では。
――時間停止。
世界が止まる。
これは紅が有するユニークスキル。
短時間だが、時間という絶対の概念に反抗できる。
この数秒だけ、世界は彼女のものとなるのだ。
「――【解除】」
とはいえ消耗も大きく、無駄打ちできるものではない。
紅は首を傾け、バベルの掌の軌道から外れる。
それと同時に時間停止を解除した。
「おっと」
動き出す世界。
予定調和のようにバベルの攻撃は空振りする。
大振りの一撃により重心が前方に偏っているバベル。
対して、紅は万全の体勢で地面に立っている。
「はぁぁぁぁ!」
最高の状態で繰り出すカウンター。
紅は全霊で剣を振り下ろす。
(まずは右手を……斬り落とす!)
狙いはバベルの右手。
あれがあるかどうかで彼女の戦闘力は大きく変わる。
右手を潰してしまえば、即死攻撃の心配はいらない。
ここで勝負を決めることにこだわらず、まずは確実に戦力を削ぎ落と――
「ぁぁあッ!?」
戦場に響く苦痛の声。
それは――紅のものだった。
「……おやおや」
剣を落としてうずくまる紅。
そんな彼女をバベルは見下ろしている。
「これは――斬撃の反動で右手が折れちゃったみたいだね」
特に驚く様子もなくバベルはそう言った。
――紅の右手首が異常に腫れている。
バベルの言う通りだ。
紅の刃は、彼女の薄皮を斬ることさえできなかった。
斬撃の威力を増すために柄を強く握り込んでいた分、むしろ彼女の手首が折れる始末だ。
「いやはや。これは僕の説明不足だったかもしれないね」
明らかな追撃のチャンス。
なのにバベルは動かない。
攻撃もしなければ、間合いを確保することもない。
「君の攻撃じゃあ、僕の体には傷なんてつかないよ」
それが傲慢でないことはさっきの攻防が示していた。
「確か……【致死の右】は……解析した物体を変質させるスキル、でしたね」
「そうだよ」
隠すことなくバベルはうなずく。
能力を知られているか否か程度が勝敗には影響しない。
そういわんばかりに。
「筋肉の密度を変質させて身体強化。皮膚を硬度の高い物質に変質させることで防御力の強化……というわけですか」
「うんうん。そうだね」
動揺するどころかむしろ嬉しそうにバベルは首肯する。
「ほら、その調子で僕の能力を解き明かしてみなよ」
バベルは能力を隠さない。
むしろ戦いの中で問いかけ、敵がその真相に至ることを楽しんでいる。
「君の役割は、死に物狂いで僕の手札を引き出して――駆け付けた君たちの救世主に希望を託して死ぬことなんだから」
――そうでもしなければ、このレベルの戦いを楽しむことさえ難しい。
そう言いたげに。
これまでバベルの戦闘力はあまり描写してこなかったので、このあたりで彼女の戦闘スタイルを開示していきます。




