終章 21話 弱者の毒牙
「ふわぁぁぁ!?」
頓狂な声を上げて詞は起き上がった。
「僕、どれくらい寝ちゃってた!?」
思わず声を裏返らせる詞。
――眠る。
それは人間なら誰もが行うものだ。
しかし現在は戦闘中。
それも気絶ではなく睡眠。
本来であれば絶対にありえないことだ。
「倒れると同時に目を覚ましたので、1秒未満かと」
体重を感じさせない軽やかさで傍らに着地したナツメがそう答えた。
さすがに直立したまま熟睡するのは不可能に近い。
意識を失うと同時にその場で転び、地面に体を打った衝撃で目を覚ました――というのが一連の流れだったようだ。
「睡眠効果付与の攻撃……厄介」
そう漏らしたのは透流だ。
彼女の目はパジャマの少女――カトレアの周囲に浮遊するシャボンへと向けられている。
スキルの中には、攻撃に属性を付与するものがある。
それこそオズワルドのような【付与術士】が得意とするスキルだ。
カトレアが使用しているのは【状態付与・睡眠】。
彼女が操作するシャボンに触れた相手を強制的に眠らせるスキルだ。
「さっきの見た感じ、破裂したときの飛沫が跳ねるだけで駄目って感じね」
香子は舌打ちをする。
――さっきの詞がそうだった。
彼は確かにナイフでシャボンを斬り捨てた。
直撃はしていない。
ただ――破裂したシャボンが一滴だけ素手に飛び散った。
それだけで意識が暗転したのだ。
もし追撃を食らっていたらと思うと寒気がする。
「攻撃性能が低いおかげで広域防御が出来るのが幸いですわね」
そう言って明乃は殺到するシャボンを【エリアシールド】ですべて防いだ。
シャボンは拮抗する間もなく割れて飛沫を散らしながら消えてゆく。
「時間稼ぎならそれでもいいけど――」
「……倒すとなると難易度が爆上がりだよねぇ」
香子の言葉を受け、詞は肩をすくめる。
彼らの視線の先にいるのはカトレア。
彼女は大きなシャボンを上に乗ったまま目を閉じている。
――時折、頭がこくりと揺れているのは冗談だと思いたい。
「なんだか、気が乗らないわ」
カトレアは気だるそうにシャボンに身を沈ませる。
あのシャボンは特別製なのか、クッションのようにへこみながらも割れることはない。
「何より不気味なのが――あの手だよね」
だが、問題は彼女だけではない。
詞はわずかに視線を上げる。
そこには――
「【魔界顕象】と同時に出てきたものの、いまだに動く気配がありませんね」
明乃も気味が悪そうに目を細めている。
――手だ。
カトレアが【魔界顕象】を使ってから起きた唯一の変化。
彼女の頭上5メートルあたりの位置に、巨大な手が浮遊しているのだ。
手首から先しかない金色の手。
それは戦いが始まってからも指一本さえ動かない。
何も起こらない。
だが、何もないはずがない。
これを不気味といわずして何なのか。
「やっぱり、自分でグリゼルダを追うべきだったかしら」
つまらなそうにカトレアは息を吐いた。
「それを邪魔されたからこうなってる、でしょ?」
「……本気でやれば出来ていたわ」
「うわぁ……ダメ人間感すごいよぉ」
詞は苦笑する。
――もっとも、カトレアが力の底を見せようとしていないのは明白だったけれど。
「……まあいいわ」
頬杖をつくカトレア。
彼女は興味なさげに詞たちから視線を逸らす。
「幸い――特別機を送り込めたわけだし」
☆
「――【魔界顕象】」
グリゼルダが唱える。
その声は世界の理を組み替え、彼女のための世界を顕現させる。
それは氷の宮殿。
白銀の王宮が世界を塗り潰そうと――
「【白の――】」「遅ぇよ」
しかし、氷の城壁は容易く崩れ去る。
「ッ――!」
「別に、驚くことじゃねぇだろ。【魔界顕象】の相殺なんてよ」
レイチェルは顔色一つ変えない。
「俺の【魔界顕象】は燃費が良いからな。好きなだけ繰り返してくれていいぜ。チキンレースなら、こっちに分がある」
そう彼は笑った。
【魔界顕象】の発動には大量の魔力を必要とする。
グリゼルダでさえ魔力が万全な状態から5~6回ほどが限界だろう。
それに見合う性能があるからこそ、彼女の世界でも主要な戦術として確立されたわけなのだが。
とはいえ、長丁場になる可能性があるこの戦い。
ここで【魔界顕象】の打ち合いになるのは面白くない。
ましてレイチェルの言う通りに魔力が枯渇するまでの打ち合いになれば目も当てられない。
景一郎の解放に【魔界顕象】が必要である以上、その時点で彼の目論見は成功といって良いのだから。
「そういえば、お前の【魔界顕象】を見たことはなかったな」
グリゼルダはそう問う。
どうやら今回は、彼のホームグラウンドで戦うしかないようだ。
負けるつもりはないが、警戒はしておいたほうが良いだろう。
「知りたいのか?」
「――まあ、多少の興味が出てきたとは言ってやって良いかもしれぬ。感謝して答えろ」
「めちゃくちゃ理不尽じゃねぇか……」
レイチェルは苦笑する。
「別に、教えて不利になるわけでもないし良いけどよ」
情報が重要なのはどの戦いでも変わらない。
しかし【魔界顕象】は特に固有性の強いスキルだ。
初見であればかなりの理不尽を強要できるが、知られていれば立ち回りを考える余地がある。
ギミックを知られると途端に不利になる【魔界顕象】。
どんな状況でも一定以上の効果を発揮する【魔界顕象】。
明快に分かれるわけではないが、自然とそう二分されてゆく。
そしてレイチェルの場合は後者らしい。
「――てわけで、聞いても笑うなよ?」
「安心しろ。どんなモンスターに由来していたとしても一笑に付してやろう」
「……超安心だなこりゃぁ」
嘆息。
「俺が持ってる因子は――」
気を取り直して、レイチェルは声を上げた。
その名は――
「――――スライムだ」
……最弱のモンスターの名だった。
ランクに区分けすることさえおこがましい。
冒険者としてのレベルが遅れているこちらの世界でさえ雑魚とされるモンスター。
それこそ単体なら一般人でも殺せるモンスターの名だった。
「……うむ」
なんというか、反応しづらい。
見下すことすら恥ずかしい。
馬鹿にする――という形で相手にすることそのものが屈辱。
そんな相手だった。
「まあ、その……あれだな?」
「笑わねぇのかよ!」
悲痛な声が響いた。
「……ジョークであったか。我を謀るとは……殺すか」
「残念ながらジョークじゃねぇ! マジで残念ながらだけどな! てか、ウソ吐いてなくても殺す気満々だっただろ!」
どうやら嘘ではないらしい。
だが面倒な点もある。
スライムなどというモンスターの因子を持って大成した冒険者はいない。
だから――どんな【魔界顕象】を発現するかなど聞いたこともない。
そのギミックが皆目見当もつかないのだ。
「だからオレ、他のメンバーにも言ってなかったのによぉ……」
レイチェルは肩を落とす。
「オレって純血の家系だから生来の因子なんてねぇし、貧乏だったから一番安い因子しか手に入らなかったんだよ」
モンスターの因子を一切有していない純粋な人間――純血。
その特徴は、どんな因子とも適合する反面――弱い。
弱ければ稼ぎも少なく、高額で取引されるような優れた因子を取り入れることもできない。
純血は可能性の塊。
一方、可能性を掴む力さえ与えられていない。
そういう存在なのだ。
「ま、元になったモンスターがしょぼけりゃ【魔界顕象】もしょぼい。おかげで燃費だけは良いんだけどよ。能力なんて、恥ずかしくて見せられたもんじゃないぜ」
レイチェルは腰に手を当て、爪先で地面を叩く。
「とはいえ、見せるしかないんだけどよ」
そして、彼の魔力が膨れ上がった。
とはいえ、その魔力量は他の【先遣部隊】よりもかなり少ない。
【先遣部隊】で最大の魔力を有するルーシーと比べたら、おそらく1割に届くがどうかといったところだろう。
「それじゃあ、好きに防いでもらって構わないぜ? そっちの魔力が切れるまで、100回でも1000回でも脳死で繰り返すだけだからな」
「【魔界顕象】――【澱の檻】」
そして世界が――変わらない。
景色も、気配も。
怖気も恐怖も存在しない。
数秒前との変化がまるで感じられない。
「……別段、何も変わっていないようだが」
「そりゃ最下級の因子だからな。世界を組み替えるなんて大層なことは出来ねぇさ」
だが【魔界顕象】が不発だったというわけではないらしい。
低級モンスターの【魔界顕象】であるがゆえ、世界への干渉力が低い。
それこそグリゼルダたちのようなSランクモンスターの【魔界顕象】と比較することそのものが間違いなのだ。
「【澱の檻】の能力は肉体拡張。【魔界顕象】を使っている間、このあたりの地面なんかも俺の体として世界に判定されるようになる」
レイチェルは髪をかき上げた。
「それがどうした、って顔だよな」
彼は口角を吊り上げる。
その意図はまだ見えない。
「つまり、こういうことだ」
レイチェルの指がグリゼルダへと向けられた。
そして――
「そこ、トラップがあるぜ?」
そして――グリゼルダの足元が崩落した。
トラップは術者の近くにしか設置できない。その原則が【澱の檻】による肉体拡張で崩れる。
最弱の職業【罠士】と最弱の因子【スライム】。その相性は最高に近い。