終章 19話 泡に消ゆ
(このままでは……死んでしまいますね)
血液が水に溶けてゆく。
トライデントの刃が肺に達していたのだろう。
溢れる赤には泡が混じっていた。
(内臓を激しく損傷、酸欠……死は目前)
致命傷と重症の間。
治療を施せば間に合い、この機を逃せば致命となる。
そんなギリギリの境界線。
だから――
(だからこそ――攻撃を)
グツリと不快な音が鳴る。
それは菊理が自身の肩を外し、強引に触手による拘束から逃れた結果によるもの。
「この状況で……!」
ルーシーが驚愕の声を漏らす。
――普段からルーシーは強気に思える言動が目立つ。
しかし好戦的であれども、戦闘狂ではない。
勝利よりも生存を。
そんな普通の感性の持ち主だ。
だから彼女は理解できない。
この状況で、命よりも目先の勝利を優先する人間の気持ちが分からない。
ゆえに目の前の状況が整理できず、反応が遅れる。
「がッ……!?」
菊理の拳がルーシーの顔面へとめり込む。
肘から水を放出して繰り出されたパンチは強烈で、彼女の体は数メートル吹っ飛んだ。
「この状況で――!」
『勘違い、しないでくださいね』
ルーシーが体勢を整えるよりも早く、菊理は掌を突きつけた。
『治療を後回しにしたのは、死んでも貴女に勝とうと思ったからじゃありませんよ』
確かに、菊理の行動は捨て身に見えるかもしれない。
だが冷静に考え、勝つために必要だから選んだ結果だ。
勝って、生きる。
そのためにはこうするしかないと判断した。
『死力を尽くした結果の相討ちは仕方がありませんが、最初から狙っての相討ちなんて御免ですから』
死神に捕まるよりも早く、この戦いを終わらせる。
『【操影・異形】』
突如、菊理の手から影が伸びる。
影は巨大な塊となり――異形の姿となった。
【操影・異形】。
サンショウウオを彷彿とさせる影の化物を召喚するスキル。
景一郎が保有していたユニークスキルだ。
「なによこの化物……!」
とはいえ、この水中という特殊な環境。
そこでは影の化物の力は活かせない。
クラーケンをはじめとしたモンスターに蹂躙されて終わり。
だから菊理は影の異形を――大質量の砲弾として使う。
『【矢印】』
菊理が掌から射出した矢印が異形に突き刺さる。
矢印による強制移動。
それに押され、異形の体がルーシーに迫る。
「きゃぁぁぁ!?」
水中が彼女のフィールドとはいえ、眼前に迫る巨躯を躱すことはできない。
彼女の体は異形ごと押し飛ばされてゆく。
――【魔界顕象】にはいくつかの性質がある。
顕現した世界は、術者を常に中心に据え続けること。
そして【魔界顕象】の面積は一定であること。
つまり【魔界顕象】はルーシーの動きに合わせて移動する。
ならば菊理は逃げる必要がない。
ルーシーを遠くに弾き飛ばしたのなら、自然と菊理は範囲外へと脱出できるのだ。
「ッ……!」
水槽のような戦場から菊理の体が抜けだす。
やっと取り戻した空気。
それを吸うことさえ後回しにして菊理は構えた。
「これで――終わらせます」
ルーシーとの間合いは100メートル以上。
となれば長い射程、回避を許さない攻撃速度、一撃で仕留める威力。
それらを高水準で兼ね備えた一手が必須だ。
「【式神召喚】【形状変化】【硬化】【超速再生】――【矢印】」
【式神召喚】で呼び出した数体の式神を【形状変化】で捻じ曲げて槍のような形に成形。
式神の槍を【硬化】によりさらに強靭に。
壊れても威力を削がれないように【超速再生】を付与。
そして――矢印でレールを作った。
10の矢印が菊理からルーシーへと向かって並ぶ。
「この――」
「遅いですよ」
菊理が投擲した槍が矢印に乗った。
加速する槍。
その速力は矢印を経由するほどに増してゆく。
高速で大気と擦れ合うことにより熱を持った槍は溶けてゆくが【超速再生】によってその形を保ち続ける。
スキルを大盤振る舞いしたレールガン。
音速を越えた一撃はソニックブームを巻き起こしながらルーシーに迫る。
「な――――」
盾を張った。
横に跳んだ。
何もしなかったわけではない。
ルーシーは迫る攻撃にいくつもの対抗策を打ち出した。
だが――すべてが一方的に貫かれる。
「ぅ……!?」
投擲された槍は彼女の腰あたりを撃ち抜き――脇腹を食いちぎった。
「や……ば……!」
背骨が見えそうなほど深くえぐられた肉体。
自重で上半身が転がり落ちそうなほどにその傷は酷い。
致命的なダメージで【魔界顕象】は力を失い、ただの水となり戦場へと降り注ぐ。
迫る死の気配。
ルーシーは治療魔法を纏った右手を傷口に当てる。
しかし――
「治療なんて後にして――」
――すでに菊理はルーシーに迫っていた。
構えた拳は強烈な雷撃を纏っていた。
「――勝負の続きをしませんか?」
自身の傷を意に介さなかった菊理。
すぐさま致命傷を治そうとしたルーシー。
どちらの判断が優れていたかという話ではない。
この戦場に、どれほどの狂気を持ち込んだか。
その差が、明暗を分けた。
「ふざ、ないでッ……!」
跳び退くルーシー。
彼女の周囲にいくつかの水球が浮く。
サイズは小さいが、高圧で射出されたのならば人体を撃ち抜くには充分だろう。
「ッ……!」
それでも菊理は躊躇いなく――間合いを詰めた。
逃げるでも、防ぐでもなく。
間合いの内側に潜り込むことで対応した。
水の刃は彼女の肩を掠め、はるか後方に着弾する。
残されたのは、無防備なルーシーだけ。
「は、ぁぁッ……!」
菊理はほとんど倒れ込むようにして拳を叩き込む。
その一撃は――ルーシーの胸を貫いた。
「うそ……でしょ?」
ルーシーはそう漏らす。
目の前に迫る死が、あまりにも信じがたいのだろう。
だが心臓を失った生物に待つのは死だけ。
「こんなこと――」
彼女は何を言いたかったのかは分からない。
発した言葉が終わるよりも早く、彼女の体は泡になった。
まるで、おとぎ話のように。
「――――」
敗者が消えた戦場は、驚くほどに静かだった。
時折、ぱちぱちと泡が弾ける音がするだけだ。
「がふ……」
菊理の口から血があふれた。
ようやく彼女も手当てを始めるが――
「……あら」
淡く光る手が傷口を撫でる。
だが――
「血が、止まりませんね……」
いつもならすぐに治るはずの傷がなかなか塞がらない。
濡れているせいか、血が固まる様子もなくこぼれ続けている。
(さすがに、ちょっと手遅れだったかもしれませんね)
すでに血を失いすぎたか。
衰弱により治療魔法が本来の性能を発揮できていないのか。
理由はともかく、傷の治りが明らかに遅い。
勝つためとはいえ、あまりに向こう見ずな戦いだった。
死の淵ギリギリで踏みとどまるつもりだったが、そうも上手くはいかないらしい。
「これほどの戦いの結果なら悔いはない……と言いたかったのですけど」
菊理は薄く笑う。
血沸き、肉躍るとでも言えばいいのか。
この戦いは、これまでの人生における最高峰だった。
だから、この戦いそのものには満足している。
「……景一郎さんとの未来はなくなるのは……悲しいですね」
ただ、戦い以外に心残りがあったというだけのこと。
しかし、今からどうにかなる話でないのもまた事実。
「精々……自分のしぶとさに期待しておきましょうか」
菊理は泡に包まれるように倒れ込んだ。
完全に死にスキルになっていた【操影・異形】が――
次回からの戦いは少し並行して進めていく可能性。
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