終章 3話 女神と呼ばれた少女
景一郎はとある人物と会うために町はずれの森を訪れていた。
このあたりはちょっとした高地になっており街を一望できる。
天眼来見の言う通り『彼女』の趣味がそうであるのなら、確かにここはうってつけなのかもしれない。
「――そんなところにいたのか」
来見から聞いていた場所に探していると、そこに少女はいた。
――もっとも、彼女を少女と呼ぶのが適切なのかは議論の余地があるけれど。
「……何やってるんだ?」
景一郎は少女――リリスを見て思わずそう漏らしていた。
「見て分からないワケ? 描いてるんだケド」
リリスが首だけで振り返る。
確かに彼女の言う通りだろう。
彼女はウッドチェアに腰かけており、その正面にはキャンバスがある。
加えて絵筆と絵の具があるとなれば絵を描いていると考えるのが常識だろう。
だから、そんな見れば分かることをわざわざ聞いたりはしない。
「いや、今のは『何をしているんだ』というより『何やってんだお前』みたいなニュアンスだと思ってくれ」
問題といえば彼女の格好である。
彼女が日頃から着ているのは触手のような生々しくも禍々しいドレスだ。
あれを正常なファッションだというつもりはない。
ただ、残念ながら今の彼女の姿は正常か否か以前にファッションではなかった。
――端的に言えば裸エプロンだ。
いや。確かに下着は身に着けている。
だからといってそれがどれほどの言い訳になるのだろうか。
ここは森だが未開のジャングルではない。
ならば間違いなくこの服装――着ていないことを服装と呼ぶことに抵抗はあるが――は間違いなく痴女の所業である。
「だから描いてるんだケド」
「そうだな。ああ、そうだ。言われてみればそうかもしれない」
駄目だ。
彼女の反応を受けて嫌でも理解した。
あれは景一郎の言わんとすることが分かっていないのではなく、分かった上で無視している。
要は取り合う気がないのだ。
――これに関してはこちらにも多少の非があることは否定しない。
彼女がさっきまで趣味に没頭していたと考えれば、いきなり話しかけた彼が邪険にされることに文句などつけられるはずもない。
彼女があまりにも突っ込みどころのある姿をしていたことも一因だと声を大にして言いたいけれど。
「というか……なんか絵の中でこの町滅んでないか?」
ふとキャンバスに視線を移し、景一郎はその絵に口元を引きつらせた。
上手いか下手か。
その点に関していえば間違いなく前者だろう。
芸術に関心のない彼でも分かるほどのその絵は異常だった。
本日は快晴。ここから見える景色は変わることなく平和だ。
まさか侵略を受けている世界の光景とは思えまい。
だというのに、彼女が描き出す世界はひどく絶望的で破滅的。
色彩のせいではない。
むしろ黒などといった暗い色はあまり使われていない。
なのに驚くほどに薄気味が悪い。
鮮やかなはずなのに、その裏に粘ついた悪意を想起してしまう。
視覚効果ではない何かが見た者の嫌悪感を刺激するのだ。
――正直、低ランクのモンスターよりもよほど恐怖を掻き立てる絵だった。
「アハッ……!」
「縁起でもねぇ……!」
なぜこの平和的な光景をここまで裏返せるのか不思議でならない。
少なくとも救済の女神が持っていていい感性ではなかった。
「救済の女神としてどうなんだそれ」
「別に良いデショ。仕事はきちんとやってるわけだシ。アタシの趣向まで合わせてやる必要ないカラ」
それは善と偽善の話だ。
そこにどんな意図があったとして、行った行為が善行であるのならば問題はないという論法。
加えてその『善行』が彼女にしか為しえない偉業であるのなら、彼女が善意で動いているのかなど些末な問題なのかもしれない。
「まあ、それもそう……なのか?」
悪く言えば不真面目。
良く言えば息抜き上手ということなのだろうか。
「デ? 何か言いたいことでもあったワケ?」
そうリリスが問いかけてくる。
ここは普通に散歩して通るような場所ではない。
景一郎が現れた時点で、何らかの用事があったことなど筒抜けなのだろう。
「いや、よく考えたらあんまり喋ったことないなと思ってさ」
とはいえ別に後ろめたいことがあるわけでもない。
だから景一郎はそう答えた。
リリスの因子が景一郎の中にあり、同じ運命をたどるというのなら。
先達のことを知っておいても損にはならないだろう。
「なあ」
「何?」
「なんていうか……初っ端から怒らせかねない質問だけど良いか?」
景一郎は躊躇いがちに尋ねた。
二人の共通項といえばなかなかにデリケートな話題だ。
しかも相手はよく分からない性格をしている。
そんな理由で、彼は切り出す前に予防線を張った。
「ハ? 良いわけないデショ? 常識ないワケ?」
「……ぱっと見てめちゃくちゃ常識なさそうな奴に正論を叩きつけられた」
まさか裸エプロンの女に常識を説かれるとは。
「…………デ?」
「?」
「だカラ。何が聞きたかったのか聞いてるんだケド」
「お、おう……」
それでは無難に天気の話題からでも始めようか。
そんなことを考えていると、意外にもリリスは続きを促した。
話を聞いてくれるつもりはあったらしい。
となれば下手に遠慮して迂遠な問いをしても怒らせるだけだろう。
景一郎は直球に疑問を投げかけた。
「別に何もしてくれてないって言いたいわけじゃないけどさ。なんというかこう、もっと直接的に手伝ったりとかしてくれないものなのか? 女神って」
――今も景一郎の肉体は成長を続けている。
人間から神へと。
その終着点がリリスだというのなら、彼女の力はおそらく絶大なものだ。
きっとこの戦いなど遊戯のようなもので、気まぐれ次第ですぐに終結してしまう程度のものなのだろう。
だからこそ問う。
そうしない理由を。
「――さァ。そういう真面目な奴もいたんじゃナイ?」
リリスはペインティングナイフを指先でくるりと回す。
「アタシが出張れば早いけど、それって気に食わないんだヨネ」
彼女はそう語った。
「その世界の人間が、部外者ヅラして助けられるのを待ってるってサ」
特に怒っている風でもなくリリスはそう笑う。
優しい笑みではなく、猟奇的な笑みで。
「震えて縮こまってたくせに、敵が死んだ途端にまるで自分が戦って勝ち取ったと言わんばかりに喜んだり抱き合ったりウザいんだヨネ。戦ってない奴なんかに、勝利を喜ぶ資格なんてないデショ」
「それくらい大目に見てやれよ……」
「正直、一般人も戦場にぶちこんでやりたいヨネ」
「頼むからやめてくれ」
意味もなく死人が増えるだけだ。
「この町を見たら分かるデショ? あんなに平和。実情は、アンタが犠牲にならなきゃ――こうなっちゃうのにネ」
リリスの指がキャンバスに向けられる。
救いのない絵画へと向けられる。
彼女の言わんとすることも分からなくはない。
このあたりは魔都からもそう離れてはいない。
景一郎たちをはじめとした冒険者たちの努力がなければ、とうに異世界の領土となっていてもおかしくない場所なのだ。
彼女はそれに対する危機感の薄さ、あるいは現実感の薄さを指摘しているのだろう。
「嫌にならナイ? 自分は人生丸ごと捨てて世界を救うのに、救われる側は平和的に楽しんじゃってるだなんてネ」
リリスはいやらしく笑う。
「ま、馬鹿真面目にやってみると食傷するワケ。世界を救うなんてネ」
「そういうものなのか?」
残念ながら、その気持ちはまだ景一郎には理解できないものだった。
救えるなら救ったほうが良い。
早く救えるのなら早いほうが良い。
流れる涙は、血は少ないほうが良い。
そんな風にしか思えない。
少なくとも今のところは。
いつか、そういう生き方にうんざりする日が来るのだろうか。
「やっぱり、先輩としては辛い道なのか? 世界を救い続けるっていうのは」
「……サァ」
リリスは目を細める。
彼女は手慰みに黒髪を摘まみ上げた。
「アタシの場合、望んで選んだ道だカラ」
彼女はそう言った。
ただ、これは景一郎に対しての返事という様子ではない。
何かを思い出しているような、独り言のような言葉だった。
思えば、なぜ彼女は女神となったのだろうか。
何らかの奇跡が、彼女をそういう存在として生み出したのか。
景一郎のように、誰かからそうなるように定められたのか。
「ちょっと意外だな」
景一郎は小さく笑う。
話してみてもリリスに関しては分からないことだらけ。
もしも今、彼に言えることがあるとするのなら――
「正直、誰の目から見ても絶対滅ぼす側――痛ぇ!?」
――キャンバスの角で殴られた。
ちなみにリリスの話を掘り下げてゆく予定はありません。
この物語において彼女はあくまで舞台装置であり、彼女の物語はすでに終わっているものなので。