8章 29話 たとえ生きる世界が変わろうとも
使徒契約についての話を終えた後。
景一郎は【面影】の拠点――彼の私室にいた。
普段は彼だけしかいない部屋。
そこには今日、一人の来訪者がいた。
――もっとも、立場を思えば家主はむしろ彼女なのだろうけれど。
「景一郎様……」
「……なんだよそんな顔して。まだ、今すぐ別れるわけじゃないってのに」
平静というより消沈。
凪ぐというよりも沈んでいる。
そんな様子の明乃に景一郎は軽い調子でそう返す。
深夜と呼ぶべき時間帯に彼女は部屋を訪れた。
あんな話の後だ。
さすがに景一郎もすぐに寝付くことができずにいた。
きっと彼女も似たようなものなのだろう。
「それは……そうですが」
ネグリジェ姿の明乃は床に目を落とす。
何かを言い出せずにいる――という雰囲気ではない。
どちらかというと、特に用もないのに来てしまったように思えた。
普段の彼女からは想像しづらい行動だが、どうにもそうとしか思えなかったのだ。
「まずは勝たないとな。それから先のことも、勝たないと意味がない」
景一郎は手慰みに読んでいた本を閉じ、本棚へと戻す。
神としての宿命だとか。
景一郎たちの未来だとか。
考えたくなるような話には事欠かない。
だがそのどれもが、まずは勝たねば何の意味もない話なのだ。
勝たなければ未来そのものが残らないのだから。
「そう、ですわね」
それは彼女も分かっているのだろう。
明乃は小さくうなずいた。
(そういえば)
景一郎はふと思い出す。
彼女に言っておきたいことがあったのだ。
「ありがとな」
それは感謝の言葉だ。
「?」
しかしその意図は伝わらなかったようで、明乃は首を傾けた。
――確かに、あまりに言葉足らずだったかもしれない。
「使徒契約の話のとき、真っ先に断ってくれて」
「……皮肉ですの?」
明乃は肩をすくめる。
本気でそう思っているわけではないのだろう。
そして当然、景一郎も皮肉のつもりで言ってなどいない。
「逆だ、逆。あそこで明乃が断ってくれなかったら、断りづらい雰囲気になってただろ」
紅、雪子、菊理、グリゼルダ。
使徒契約の話が持ち上がったとき、真っ先に4人が賛同した。
それは彼女たちの思惑や覚悟があってのことだろう。
迷った時間は少なくとも、深慮からの答えだっただろう。
とはいえ、次々に賛同者が出たことで断りづらい雰囲気が出来上がってしまったのもまた事実。
そして、その空気を察知して――あえて断ち切ったのが明乃だ。
確かに彼女は最初から自分はこの世界に残るべきだと考えていただろう。
だからこそ、自分の発言が有効に作用する――より良い結果へとつながるタイミングで口にした。
賛成と反対。
二つの意見が出そろったことで、残る面々も『断る』という選択肢を口にしやすい空気となった。
あれが偶然だったとは思えない。
交渉役を担っていた彼女なら、それくらいの影響は考えて発言しているはずだから。
「そういうので決めちまったら、多分後悔するだろうからな」
優しければ優しいほど。
紡いできた絆が深ければ深いほど。
あそこで景一郎と使徒契約を結ばないことが後ろめたく、薄情に思えることだろう。
だが、そうではない。
彼の望む答えはそうではないのだ。
自分を気遣った結果、意思を捻じ曲げて使徒契約を結ぶなんて話になってしまえば――景一郎にとって何よりも大きな重荷となる。
「景一郎様は……どうですの?」
静かに明乃は問う。
「選ぶこともできず、選ばされた未来で――景一郎様は……」
契約を結ぶか否か。
ついて行くか否か。
罪悪感や後ろめたさがあったとしても、一応の選択肢は与えられている。
だが景一郎は違う。
たとえ誰もついてこなかったとしても、彼の行き先はすでに決まってしまっていた。
選択の余地などなかった。
そこに思うところはないのか。
明乃はそう問いかける。
「今は、大丈夫だ」
そしてその返事は、思っていたよりもスムーズに口から出ていた。
「確かに、ずっと続いたらどうなるかは分からないけどな。だけど今は、大丈夫だ」
神がどれほど生きるのかなど知らない。
世界を救うだけの日々がどんなものなのかは分からない。
だから、景一郎が答えられるのは今の心境だけ。
未来を悲観してはいない。
そんな答えだけだ。
「世界のためじゃなくて、守りたい人のために戦え、か」
――勝てよ兄弟。世界のためじゃなくて、お前が守りたい誰かのために。
――世界のためなんかよりそっちのほうがお前には似合ってるだろうさ。
そんな言葉を思い出す。
短い付き合いだった義兄弟が口にした最期の言葉を。
「……この力を手に入れたとき、アナザーに言われたんだよ」
疑問符を浮かべていた明乃に景一郎は語った。
「アイツは多分、俺にどういう未来が待っているのかを知っていたんだろうな」
アナザー。
彼は景一郎が与えられた神の因子そのものだったといってもいい。
そんな彼が、何の事情も理解していなかったとは考えにくい。
――思えば、最初から彼は来見たちを『悪魔』呼ばわりしていた。
あれは真実を知り、景一郎の手前それを明るみに出すこともできないアナザーなりの糾弾だったのだろうか。
「正義の味方じゃあるまいし。それくらいに考えておいたほうが、俺には合っているんだろうな」
世界のために戦う――どうにもしっくりこない。
これまでの戦いは。
オリジンゲートでの戦いも。
【先遣部隊】の戦いも。
世界なんて二の次だったから。
残念ながら影浦景一郎は器の大きな人間ではない。
世界などと、そんな俯瞰した視点で戦えるほど立派ではない。
いつだって身内贔屓で、他人よりも友達が大切だから戦うのだ。
この世界を守るのだって、結局は大切な人たちがここに住んでいるからだ。
そうでなければ、ここまで本気にはなれなかっただろう。
「――景一郎様」
そして明乃が口を開く。
躊躇うように。
「もしわたくしと会わなければ貴方はこんなことに――」
それはもしもの話。
すでに過去となり、変えようのない話。
だがどうにも魅力的で、多くの人が夢想してしまうIFの物語だ。
「ああ。こんな未来はなかっただろうな」
「ッ……!」
景一郎の言葉に明乃は言葉を詰まらせる。
過去が違えば現在が違い、未来も違う。
それはごく自然なこと。
「一生、紅たちに追いつけなくて。他の仲間とも出会えなくて。紅たちもオリジンゲートで死んでたかもしれないし。こんな未来にはならなかっただろうな」
そして、それを景一郎が望んでいるとは限らない。
「ありがとうな。もう一度、俺が進むためのキッカケになってくれて」
もしかすると、影浦景一郎という男の物語はバッドエンドかもしれない。
それでも、最悪ではなかった。
そう景一郎は思う。
もしも過去が違えば、きっともっと多くの悔いを残して生きていただろうと。
「そんな言い方……卑怯ですわ」
そう言って明乃は下を向く。
しかしその口元は、先程に比べて少し力が抜けているように見えた。
「すべてを投げ捨てて添い遂げたいと言えたのなら――」
消え入りそうな小さな声。
しかし不思議と、その声は景一郎に深く届いた。
「おいおい……その発言もわりと卑怯だろ」
「それもそうですわね」
そう言って明乃は顔を上げる。
――眼は潤んでいる。
それでも彼女は――微笑んでいた。
「まあ……あれだな」
景一郎は頭を掻き、天井を仰ぐ。
思い出すのはここに来るまでの道程だ。
「過程も結末も。全部知ったうえで過去に戻ったとして。それでも俺は100回でも200回でも同じ選択をしたと思う」
後悔はない。
最善と信じて生きてきたし、今でも信じている。
「あの洞窟で明乃と出会って――冒険を始める。何度でも」
それほど、あの日の決意には意味があった。
あの出会いには意味があった。
今でも、自信を持ってそう言える。
「…………それできっと、わたくしは何度でも貴方に惚れ込むのでしょうね」
明乃は嘆息する。
「惚れ込んでたのか?」
「じゃなかったら、ここまでいたしませんわ」
「――そう……かもな」
つられて景一郎も笑う。
「そういえば、確か二十歳になったんだったよな?」
「? ええ、そうですわね」
景一郎は思い出し、冷蔵庫へと歩いてゆく。
「グリゼルダはともかく。ウチのパーティは未成年ばっかりだったからな」
彼が冷蔵庫から取り出したのはワインだ。
彼は下戸というわけではない。
だが【面影】を結成して以来は、酒を飲む機会はかなり減っていた。
周りが未成年ばかりだったからという気遣いはある。
だが同時に、彼女たちと酒を酌み交わせる日まで――楽しみを取っておきたいという気持ちもあったからだ。
「全員が飲めるようになるまでは誘わないつもりだったんだけど、そう悠長にも言ってられなくなったからな」
――景一郎が完全に神へと至るまで1ヵ月。
それは同時に、勝利の可能性が潰えるまでのリミットであり――景一郎がこの世界にとどまることのできる限界でもある。
だから、【面影】の全員が大人になるまで待つわけにはいかない。
ならせめて、彼女とくらいは晩酌を楽しみたいと思っていたのだ。
「ちょっとだけ、付き合ってくれないか?」
「ええ。ご一緒いたしますわ」
それから、景一郎たちの間で交わされたのは他愛のない話だけだった。
景一郎と明乃。
二人の関係は個人的に分類が難しかったり。
好意はあるように思えるけれど、不思議と結ばれている光景は浮かばない。
そんな印象です。