8章 26話 代償
「本日はお日柄もよく――っていう気分じゃないかな」
【面影】と【聖剣】のクラン――【聖域】を前にして来見は冗談めかして笑う。
だが和室を漂う空気はあまり心地良いものとはいえなかった。
皆も察しているのだ、これから始まる話が楽しいものではないことを。
「ん……景一郎君のことだと言われたら神妙にはなる」
「ちょうど、気になる話を聞いた後ということもありますからね」
雪子の言葉に同意する菊理。
景一郎とバベルが戦った場に彼女たちもいたのだ。
タイミングから考えても、その件が思い浮かぶのは必然だろう。
実際、その話を今からするのだから。
「ああ……やっぱりもしかして例の話?」
同じく察してはいたのだろう。
詞は微妙な表情でそう漏らす。
「ん……神の因子とか」
「……あんなの、安っぽい揺さぶりでしょ」
透流の言葉をそう否定したのは香子だった。
動揺を誘うためのブラフ。
確かに論理的に考えればその可能性は高かっただろう。
バベル・エンドが論理的思考とは縁がない少女であるという大前提がなければ。
「………………」
一方でグリゼルダは黙ったままだ。
どこまで彼女が知っているのかは分からない。
だが、あちらの世界の住人なのだ。
多少の知識はあっても不思議ではない。
「わたくしも同意見でしたが……わざわざ話をするあたり、あながち否定できたものではないということですわね」
そう口にしたのは明乃だ。
彼女も最初はバベルの戯言として処理しようとしていたらしい。
だが、わざわざ来見が事情を説明することにしたことで考えを改めた。
ただの妄言なら、肯定も否定も必要ないからだ。
そうならなかったからこそ逆に――明乃はこの件に説明が必要な事実が存在すると理解したのだ。
「私もその話はゆっこと菊理から聞いています。説明は――欲しいですね」
紅は来見と正面から向き合う。
激情を見せることなく、それでも偽りを許さないといった態度で。
「そうだね。説明しようか。どうせ――勝つためには避けられない未来だったんだから」
忘れそうになるが、天眼来見は冒険者ではない。
ゆえにこの場にいる人間の中で、もっとも非力な存在だ。
なのにそれを感じさせない。
場さえ支配しそうな雰囲気で彼女は笑う。
「まず前提から話すと、神様には役割っていうものがあるのさ。管轄と言い換えても良い」
順を追う、ということか。
来見が話し始めたのは、本題から少し離れた部分だった。
「たとえばエニグマがこの世界の『生物』を管轄していたように。景一郎君の中にある因子の持ち主――リリスちゃんにも管轄がある」
エニグマ。
オリジンゲートに座し、世界を越えようとするものを阻む門番。
そして――バベル・エンドが身に宿す力の大本だ。
「それは――すべての世界。現在過去未来。あらゆる平行世界の『存続』」
正直なところ、具体的なイメージは湧かない。
異世界の存在など、少し前まで知らなかったのだ。
それらすべてを管理している存在など理解を越えている。
だが、きっと事実なのだろう。
ここで煙に巻いたところで意味などないのだから。
「厳密に言えば人類の存続、って言うべきかもしれないけれどね」
来見は頷きながらそう自己完結していた。
「人類が存亡の危機に陥ったとき、危機を脱するまで手助けをする。それが彼女の役割なんだ」
たとえば――異世界からの侵略。
すべての世界を担当しているはずのリリスが景一郎のいる世界だけに肩入れする理由もそれだろう。
あくまで人類が危機に陥っているのは景一郎たちの側だけ。
来見の目的が『異世界の通行を不可能にする』であることが偽りでないのなら、バベルたちの世界には滅亡の危機などない。
だから、一方的に侵略されている景一郎たちだけに味方することができるのだ。
おそらくだが、もしも今回の戦いが互いに侵略しあうような戦争だったのなら――リリスはまた違った立ち位置でこの争いに関わっていたのだろう。
「そして景一郎君はそんな彼女の因子を持ち……今も神へと割合が傾きつつある」
すでに景一郎の力は冒険者の限界を突破しつつある。
それこそアナザーと同化する前後では別人というべき戦力差がある。
そして、その成長はまだ止まらない。
鍛えなくとも、当然のように能力が向上し続けている。
子供が大人になるにつれ、身体機能が強化されてゆくように。
「バベル=エンドのように人間の部分を残し、上手く調整しているなら問題はなかったかもしれない。でも景一郎君にそんな調整能力はないわけで、彼は遠くない未来に完全に人間性を失う」
バベルは2つのユニークスキルを持っていた。
あらゆる存在を解析する力と、解析したものを歪める力。
それにより、本来なら止められないはずの変化を――肉体が神へと傾いてゆくのを防いでいた。
しかし景一郎にそんな芸当はできない。
「……人間性を失うとか言われたら、めちゃくちゃ性格が悪くなるって言われてる気がするな」
景一郎はぼそりとそう漏らす。
だが残念なことに――そんな軽口を笑える雰囲気ではなかった。
心地悪い沈黙が生まれただけだ。
「で、そこまではそれほど問題じゃないんだ」
「すごく問題だと思いますわ」
明乃は来見の言葉を否定する。
確かに景一郎の姿に大きな変化はない。
だが肉体が神に近づいてゆく、組み変わってゆく。
それを些細とは言い難いだろう。
「そうかい? たとえば彼の因子がエニグマだったなら何も問題はないさ。まあ――寿命は神基準になるかもしれないけど、この世界で生物を守るために――生物が『枠』を越えないように監視するだけで良いんだから。まだ、それっぽい生き方をすることは可能だよ」
しかし来見は取り合わない。
「でも、彼が得た因子はあらゆる世界を救済するという神で――宿命だった」
彼女は語る。
景一郎が神となることそのものが問題なのではない。
――どの神になるのかが問題だったのだと。
「今もリリスちゃんがこの世界にいるのは【先遣部隊】の脅威が消えていないからだ。逆に言えば、この世界の人類が安全になったなら、彼女は別の世界を救うために旅立つ」
神に役割があり管轄があるのなら。
そして、その対象が現在過去未来などと無限に存在しているのなら。
「そう」
「【先遣部隊】を倒してこの世界を救ったら――景一郎君はこの世界を離れなければならない。次の世界を救うためにね」
神に限った話ではない。
人間もそうだ。
仕事が終われば、いつまでもそこにとどまり続けはしない。
また次の現場へと向かわねばならないだろう。
ただそのスケールが神の尺度となるだけ。
世界を、時間を越えることになるだけ。
だが、その『それだけ』があまりにも致命的だった。
「それじゃあ……」
「うん。次の戦いが終われば――景一郎君とはお別れだよ。世界も時間も隔てられ、永遠に交わることはない」
「っ…………!」
一歩、二歩。
よろめくように紅が後ずさる。
それは彼女に限った話ではない。
この場にいる者たちは一様に顔色が悪い。
例外はそれこそ来見くらいだろう。
景一郎だってそうだ。
頭を思いきり殴られるよりも酷い。
頭に泥が詰まっているかのように思考がまとまらない。
(この戦いが終わったら……この世界にはいられない、か)
それはつまり、この場にいる彼女たちとも――それ以外の大切な人とも永遠に会えないということ。
(人間としての幸せは、保証されない……)
残念ながらアナザーの遺言は間違っていた。
人間としての幸せが保証されない?
逆だ。
人間としての幸せが奪われることが確定してしまっているではないか。
戦いの先にある未来と呼ぶには、あまりに暗すぎる。
出会い、絆を育む。
そんな当然な――人間としての生き方はもう、許されない。
(勝っても負けても、俺は皆とは一緒にいられないってわけか)
確か来見はさっき『神基準の寿命』などと口にしていた。
であれば、きっとその神としての戦いは永遠に近いものなのだろう。
神の寿命など、想像もつかないのだから。
それはきっと――地獄のような未来なのだろう。
「とはいえ、ここからが本題だよ。じゃないと、皆を集める意味がない」
なのに来見は話を終わらせない。
暗い雰囲気に、パンと手を叩く音が響いた。
「君たちには――今日、選んで欲しい」
「この世界と景一郎君。どちらが好きかな?」
最後の問いかけの意図は――