8章 23話 神の子
「――【影魔法】」
「おやおや」
景一郎が斬りかかろうとも、バベルは悠々と構える。
彼女はただ左手をかざすだけ。
そして――影の斬撃を受け止めた。
「解析完了――だね」
全力の魔力を宿した影の斬撃。
それを受けたバベルは――その場に立っていた。
もちろん無傷ではない。
彼女の左腕は皮膚がめくれ上がり、血が滴っている。
それでも五体満足で生きていた。
――余裕の微笑みを浮かべて。
「ところでいきなり攻撃だなんて……ふふ……あまりボクの話には興味がないのかな」
「【影魔法】」
笑うバベル。
しかし景一郎は構わずに畳みかける。
――どうにも、彼女が口を開くたびに心臓がざわつく。
本能的に、彼女の言葉を聞きたくないのだ。
「それとも、嫌な予感でもしているのかい?」
「ッ……!」
それはきっと図星だった。
一瞬だけ刀を握る手に余計な力がこもる。
しかし次の瞬間には動揺をかき消し、彼は剣を振るった。
先程を越える威力を内包した一閃。
それをバベルは――右手で容易く防いでみせた。
「ボクの右手は魔力も分解できる。すでに君の魔力は解析したからね、これから先未来永劫――君の魔力は通じない」
そう告げるバベル。
――彼女のスキルの詳細を景一郎は知らない。
だが口振りからするに、彼女は右腕を起点としたスキルを使うらしい。
ならば――
景一郎は全速力を以ってバベルの左側に回る。
右手に仕掛けがあるのなら、届かない場所から崩せばいい。
しかし――
「右手を躱せばいいと思ったのかい? そんな浅知恵、何十回経験したと思ってるのかな?」
バベルの左脇腹を狙った斬撃。
黒刀が彼女の肉を断つ直前――バベルの右手が割り込んだ。
右手が脅威なら逆サイドから。
そんな発想は安直だったのか。
彼女は景一郎が動き出した直後から、攻撃を目で追うことさえなく左側に防御を集中させていたのだ。
「ほら……砕けるよ」
景一郎の剣を右手で掴むバベル。
さらに彼女は左手を剣へと触れさせる。
彼女の両手が剣に触れた直後――黒い刃にヒビが入った。
砕かれる。
先程の斬撃のように。
今度は刀そのものが破壊される。
そう直感したとき――景一郎は体内の魔力を全力で迸らせた。
「――――【影魔法】」
「だからそれは――ッ!?」
制御も考えない暴力的な魔力放出。
それはもはや斬撃というよりも大波だった。
剣から放たれた影の瀑布がバベルを呑み込む。
「っとと……」
影の斬撃とその余波で噴き上がる砂煙。
その中から弾き出されるようにして飛び出したバベルの額には――血が垂れていた。
「魔力の分解が間に合わなかったって感じか? 姫のスキルにキャパシティなんてあったんだな。初めて知ったぜ」
ちょうどバベルが着地したところにいたレイチェルはそう呟いた。
魔力を分解拡散させるバベルの右手。
それを貫いてダメージを通した景一郎の一撃。
確かにそれは彼女の防御力に限界があることを示しているように思える。
「ないよ。そんなの」
しかしバベルはそれを否定する。
景一郎の攻撃力が、バベルのガードを上回ったわけではないのだと。
「彼の魔力が変わったんだよ。数秒前に解析した魔力から、ほんの少しだけね」
面白そうにバベルが笑う。
額から鼻へと流れ、口元にまで落ちてきた血液を――彼女は舐めとった。
「君は今も少しずつ人間から離れている。だからこそ、ボクに対して異常なほど相性が良い」
景一郎の身に宿るのはリリスの――女神の因子。
アナザーの同化を経てから、彼の能力は向上を続けている。
そう。続けているのだ。
いわば彼は発展途上。
日進月歩。
ほんの少しだが、数秒ごとに彼は強くなっている。
「君は常に変化を続けているから、解析をしても数秒後にはスキルが通じなくなる。ふふ……! 本ッ当……最悪の相性だねっ」
そんな特異な状況が――恐ろしいほどバベルへと刺さった。
景一郎が未熟だからこそ生じた相性的優位。
もしも彼がもっと前から神の因子を使いこなしていたら。
確かに彼の戦闘力は今よりも上だったかもしれない。
だがバベルに対して相性で優位になれないだけ、今よりも苦しい戦いを強いられていただろう。
――誰かが、景一郎がこのタイミングで覚醒できるように仕向けたかのように不気味な偶然だ。
もっとも、それを引き起こした少女は今も白々しく笑っているのだろうけれど。
「まあでも……だからこそ、ここで決着はつまらないか」
バベルは肩をすくめる。
態度に反してどこか嬉々とした様子で。
「ボクは全力でこの侵略ゲームを楽しんでいるんだ。だから、ラスボスが操り人形なんて我慢ならない」
「……操り人形?」
そして彼女が告げた言葉。
それが妙に引っかかった。
「そ。何の事情も知らない、自分の背負う宿命も知らない軽い剣じゃ存分には楽しめない。勇者だろうと魔王だろうと、相応の心意気を求めたいんだよボクは」
彼女はそう語る。
彼女が楽しめるように。
この世界が、彼女が楽しめるゲームであれるように。
当然のように彼女は景一郎にキャラクターであることを強いる。
善悪は問わない。
だが、雌雄を決するに値する大物であれと。
「だから戦いはここでおしまい。ちょっとだけお話をしようじゃないか」
彼女はパンと手を叩く。
彼女にはすでに戦意がないように見える。
――とはいえ、彼女の独特の雰囲気のせいで真意は見えないのだが。
だが騙し討ちをするつもりがあるとは思えない。
そんな――勝つために有効な手段を彼女が選ぶとは思えない。
少なくとも彼女のこれまでの言動を見る限り、彼女はもっと非合理な手法を好むように思える。
「ボクはゲートキーパー……君たちが呼ぶところのエニグマの因子を持った【混成世代】なんだよ」
バベルはそう言った。
【混成世代】はモンスターの因子を持つ。
しかし彼女はその例外であると。
モンスターではなくエニグマ――神に分類される因子を取り込んでいると。
「だからボクは君の状態もよく理解している」
彼女が知ったようなことを言うのは必然だったのかもしれない。
文字通り彼女は、本当に知っていたのだから。
景一郎と同じ、神の因子を持つ者だったのだから。
「幸い、ボクは因子が薄かったおかげで、君みたいな宿命を負う羽目にはならなかったけど」
「……宿命?」
――嫌な予感がする。
彼女と対峙するときから拭えなかった感覚。
パンドラの箱を前にしたような不安感。
「そうだよ。ボクも『左手』で解析するまでは知らなかったんだけどさ。どうにも、神の因子との同調率が上がりすぎると――その神が持っていた役割も引き継いじゃうみたいなんだよね」
だがようやく分かり始めた。
最初はバベルに対して何かを感じているのだと思っていた。
しかし、違った。
パンドラの箱はバベルではない。
彼女はいわば鍵。
箱は――不安を掻き立てる何かを抱え込んでいたのは――景一郎自身だ。
「ボクは右手を使って同調を抑えているけど、君はそうもいかないでしょう? しかも、因子そのものがボクのより高位みたいだからね」
「…………」
面白そうに語るバベル。
反して景一郎の表情は険しくなる。
「んー、それにしても興味が出てきたかな」
聞いてもろくなことにならないと本能が叫ぶ。
同時に、知らずに進んでいいのかと理性が諭す。
「君にとってこの世界って、この世界にいる人たちって――全部を捨ててでも守りたいほど大切なのかな?」
「……何が言いたいんだ?」
「この世界の技術で【混成世代】が作れたってことは、生きている神が手を貸したはずだよね? まあ薄々そうじゃないかとは思っていたけど、本当に何も知らされていないお人形だったみたいだね」
下手な操り人形のように体を揺らして笑うバベル。
その笑みは妖しくも嗜虐的で、無邪気な悪魔のようだった。
「あとで、君たちの神様にでも尋ねてみなよ」
だが、彼女に微笑みかけられるまでもなく――
「神の因子と適合した人間は――この世界にとどまれないってホントなのぉ、ってさ」
すでに影浦景一郎の未来は――悪魔に蝕まれていた。
景一郎の宿命が白日の下に――