7章 14話 錆びた刃
「ん……」
金髪の女性――鋼紅は瞼を持ち上げた。
底なし沼に沈みきっているかのような倦怠感。
思考が上手くまとまらず、記憶もあいまいだ。
「……ここは?」
紅は重い頭を上げ、周囲を確認する。
そこは見慣れない世界だった。
全体的に黒を基調とした街並み。
例えるのならば――西洋の城とその城下町だろうか。
不気味な城を城壁が囲み、その周囲には建物と通路が規則正しく並んでいる。
しかしそこに人の気配はない。
あるのは徘徊するモンスターの姿だけだ。
「あれは――」
「……魔都だったっぽい」
紅の頭上から声が聞こえた。
彼女が顔を上げると、そこには銀髪の少女がいた。
「ゆっこ……無事だったんですね」
「ん……」
忍足雪子はゆっくりと頷く。
とはいえ体調は芳しくないようで、一連の動作が鈍い。
それも仕方がない。
――雪子は高い塔に体を拘束されていた。
いや、彼女だけではない。
周囲の異常に気を取られていたが、紅も同じ塔に縛りつけられている。
彼女たちを縛っているのは――蜘蛛の糸だろうか。
体が壁面に強く接着されており、手足がほとんど動かない。
「この扱いはおそらく……捕虜といったところでしょうか」
ここが魔都だというのなら、紅たちは殺されていないということ。
ならば次に考えられる状況は、捕虜として捕らわれている可能性だった。
「しかも交渉のためじゃなくて、餌に使われるタイプ」
雪子は無表情にそう呟く。
現状の彼女たちは、見晴らしのいい場所に磔にされている。
見せしめのように。
この世界の住人に見せつけるように。
異世界の冒険者が彼女たちをどう取り扱うつもりなのかは分からない。
だが、あまり良い使われ方はしないのだろう。
それは状況が物語っていた。
「体に力が入りませんね……」
とはいえ、今の紅に逃げ出すだけの力はなかった。
普段であれば蜘蛛の糸を切れなくとも、腕力で壁面ごと腕を引き剥がすことくらいはできただろう。
だが、そんな余力さえない。
原因は――
「この蜘蛛の糸は……あの時の物でしょうか?」
紅の視界の隅で菊理がそう言った。
彼女も目を覚ましたようだ。
蜘蛛の糸。
それで思い出すのは、オズワルドという冒険者だ。
彼は魔力を吸収する蜘蛛の糸を使っていた。
全身を襲う脱力感といい、この拘束は彼によるものと考えて間違いないだろう。
「目覚めたようじゃのう」
「…………あなたは」
そう分析していると、声が聞こえた。
さっきまで頭をよぎっていた老人の声が。
「監視役というわけですか」
いくら紅たちが衰弱していたとしても、逃亡の可能性はある。
だからこそ老人――オズワルド・ギグルはここにいるのだろう。
しかし彼は塔の壁面を歩きながら、紅の言葉を一笑する。
「お前たち原始人相手に、そのようなものが必要だとは思わぬがのう」
拘束を解けるわけがないという自負か。
たとえ拘束から抜け出せても、すぐに捕らえられるということか。
ともあれ、彼の言葉を否定することはできなかった。
今の彼女たちでは、町を徘徊しているモンスターさえ突破できる状態でないことは自覚していたからだ。
「では、どういうつもりですか?」
監視でないのなら、他に意図があるのだろう。
紅は少しでも情報を集めることにする。
「なに。若造のやり方が気に食わぬだけじゃ」
忌々しそうにオズワルドはそう語る。
最初に対峙したときから思っていたが、彼らはあまり仲が良くないようだ。
一枚岩ではない――どころの話ではない。
最初から協調する気がないように見えた。
「これを見てみよ」
オズワルドがそう言った。
直後――彼の背中を何かが突き破る。
長く、黒い謎の物体。
それは脚だった。
おそらく――蜘蛛の脚だ。
「な……!」
背中から蜘蛛の脚を生やした老人。
そのグロテスクな姿に紅は声を漏らす。
それを見てオズワルドは笑う。
苛立たしそうに。嘲るように。
「これは初期の【混成世代】の特徴でのう。完全にモンスターの因子と融合していないがゆえに、モンスターとしての肉体の一部が残っておるのじゃ」
オズワルドは足元――塔の壁面へと視線を落とす。
「本当に下らぬことじゃ」
直後、蜘蛛の脚が塔の壁面へと深く刺さる。
ただ足を振るっただけの一撃。
しかしその威力は高ランクのモンスターに引けを取らない。
「儂ら第1世代は悲劇の世代じゃった」
オズワルドは陶酔したように語る。
「人類を新たなステージへと引き上げるための礎となったのに、さらされたのは誹謗中傷ばかり」
彼の言わんとすることは分からなくはない。
人間の体から虫の脚が生えている姿。
あまりに醜悪なキメラ。
その容姿は、容易く受け入れられるものではないだろう。
「それでも新たな人類となれた誇りを抱いて迫害の中を生きておった。じゃが――」
「第2世代は――完全に人の形を保っておった」
「醜悪な見た目でありながら、第2世代よりも弱い。儂らの体は未完成の象徴で、未熟な研究の産物であった」
醜い姿へと変えられ、自尊心でプライドを守ることさえ許されなかった。
そうオズワルドは拳を握る。
そして彼の目が――紅へと向けられた。
「じゃから――見目麗しい子孫が欲しかったところじゃったのだ」
蜘蛛の脚が一本だけ紅へと伸びる。
足先は彼女の臍を掠めるようにして腹部を上ってゆき――胸当てを引き剥がした。
さらされた胸元を冷たい風が撫でる。
「儂らがおったから今の若造共が力を振るえるのじゃ。であれば、儂の取り分が多いのは当然じゃろう」
これまでの経験が彼の思考を歪めたのか。
彼の目に宿る憎悪は――味方へと向けられたものだった。
自分を踏み台に、より洗練された力を得た者たちへの嫉妬だった。
「ッ…………!」
身の危険を感じた紅は体をよじる。
たとえオズワルドの憎悪の対象が味方であったとしても、そのはけ口になろうとしているのはこの場にいる自分だ。
このまま何もしなければ――考えたくもない。
「無駄じゃ。体力も魔力も残っておらんじゃろう」
そう言ってオズワルドは壁面を歩く。
重力を感じさせないほど自然に、ゆっくりと。
その姿はまさに獲物を追い詰める蜘蛛のようだった。
直後――発砲音が聞こえた。
1発や2発ではない。
100。いやそれ以上だ。
機関銃による弾丸の雨がオズワルドを襲った。
「この女子たちを殺さぬようそんな武装を選んだのじゃろうが、それならば儂に通じるはずもないじゃろうに」
だが、通じない。
彼の背中から伸びる蜘蛛の脚に弾かれ、彼の服をほつれさせることさえできていない。
オズワルドが空へと目を向ける。
そこにいたのは一機のヘリだ。
おそらく【先遣部隊】の動向を監視するために巡回していたのだろう。
そして紅の身に迫る危機を前に攻撃したのであろうが――
「――殺すか」
――あまりに無力だった。
「ッ……! 待ってくださいッ……!」
紅は声を上げる。
どんな手段かは分からないが、彼ならば苦もなくあのヘリを落とせるだろう。
容易く殺せるだろう。
だからこその叫び。
無駄かと思われたそれに、なぜかオズワルドは動きを止める。
「そうであったか」
再びオズワルドの視線が紅へと向かう。
どうやらヘリの搭乗者を殺すことはやめたらしい。
だが、それは必ずしも幸運を意味しない。
「観客がおったほうが、興奮できるというわけじゃな?」
彼が感じた鬱憤のすべてが、紅へと向けられるということだから。
「良かろう。存分に、見てもらいながら孕むがよい」
オズワルドの手が紅へと伸びる。
枯れ木のような手が。
蜘蛛の脚が。
彼女を辱めるために伸ばされる。
(景一郎――)
恐怖はある。
だが、紅はオズワルドを睨みつけた。
ここでみじめに助けを乞いたいとは思えなかった。
剣を折られ、鎧を剥がれようと、心まで砕かれるわけにはいかないのだ。
だから――
「ごめんね――その人、お兄ちゃんの大切な人だから」
その時、黒い斬撃がオズワルドの右手首を斬り落とした。
ついに【聖剣】奪還編スタート。
景一郎は間に合うか。




