7章 9話 氷の刃
「――どうだい。気分は」
アナザーが消えた後、来見はそう問いかける。
「どうだろうな……」
景一郎は上の空でそう答えた。
気持ちは凪いでいる。
アナザーが回帰することで違和感を覚えるかと思ったのだが、むしろ逆だった。
彼を満たすのはあるべきものがあるべき場所に収まった感覚。
安堵さえ覚える。
「これで君は、完全に人間のカテゴリーを外れた。神の因子を取り込んだ人間――いわば『半神』ってやつだね」
来見は彼の背中に語りかける。
彼の中にあるのは女神の因子。
であれば、半神と評されるのは必然なのかもしれない。
「景一郎君。君には――世界を救いへ導く神になって欲しいんだ」
来見はそう切り出した。
――なんとなく分かる。
きっとそれこそが彼女の狙いだったのだろう。
リリスの因子を景一郎に埋め込むことで、神を作り出す。
自分の制御下にある神を。
もっとも、その先に来見が何を成し遂げたいのかは不明瞭なままだけれど。
「――断る」
そして、彼女の問いへの答えは決まっていた。
別に、彼女に反感を持っているから拒絶したわけではない。
思い出すのはアナザーの言葉だ。
(確かに、世界なんて背負える器じゃないよな)
世界を守るなんて景一郎には荷が重すぎる。
そんな大物にはなれない。
「俺は、大切な人を守るために戦うだけだ」
世界を救うなんて『ついで』でしかない。
大切な人を守るために必要だから。
それだけでしかない。
大切な人が守れるのなら、人類の生活圏が縮小しようと構わないのだ。
「……それで構わないよ」
彼の言葉も、来見には視えていたのだろうか。
彼女は驚くわけでもなく、そう微笑んだ。
「今の君は神だ。思うがまま振る舞うといいよ」
――神なんて、そんなものだからね。
そんなやり取りの中――ダンジョンに変化が訪れる。
ビルが少しずつ溶けてゆく。
縦横無尽に伸びた摩天楼が形を失ってゆく。
「ダンジョンが――」
景一郎は辺りを見回す。
ビルの向こう側の晴天が剥がれる。
幕のように破れ落ちた空の向こう側には外の景色が広がっている。
崩壊してゆくダンジョン。
それらはすべて景一郎を中心として収束してゆく。
ダンジョンが彼の胸へと吸い込まれてゆく。
「これは君の中にある力が具現化したものだからね。君がすべての力を掌握したことで、君の中へと帰っているんだよ」
アナザーと同化しただけではない。
広がったこの世界さえも景一郎の内にあるべきものなのだ。
「さて。そろそろ私の思惑を語らないとね」
――追々語る。
その言葉に偽りはなかったのか、来見がそう告げる。
何を想い、何を為そうとしているのか。
それを語ろうとする。
しかし彼女は何かに気が付いたように言葉を止めた。
そして小さく笑う。
「――と言いたいところだけど、来客みたいだ」
消えてゆくダンジョン。
そうして見える元の景色。
天眼邸の庭には――1人の女性がいた。
金糸の髪を揺らす絶世の美女が。
「お前……」
そこにいたのはグリゼルダ・ローザイアだった。
理由は分からない。
ただ彼女は、狙いすましたように景一郎を待っていた。
「戦え。我と」
それは唐突な要求だった。
だが冗談などではないのだろう。
彼女の目を見れば分かる。
「そして――見極めさせろ。お前の資質を。そして、我の心を」
おそらく、彼女は相応の覚悟を持ってここに立っている。
彼女は殺し合いをする覚悟を持ってここにいる。
「状況がよく分からないけど、味方をする気がなくなったってことか?」
景一郎とグリゼルダ。
2人は歪な主従関係で結ばれていた。
その報復か。
オリジンゲートでは景一郎たちに手を貸してくれた。
だが心まで迎合していたわけではないということだろう。
「…………お前との主従関係は屈辱の連続であった」
グリゼルダは苦々しくそう絞り出す。
心は変わらないまま、肉体だけの主従を強要される。
気位の高い彼女には屈辱でしかなかっただろう。
「我より弱い男を主人と呼び、命じられるがままに体が従う。赦しがたい屈辱であった」
解放された今、彼女が怒りの矛先を景一郎に向けるのは必然なのだろう。
「だが……分からぬのだ」
そのはずなのに。
グリゼルダは言いよどむ。
眉間にしわを寄せ、不快の表情を見せ。
それでも、激情をあらわにすることはない。
「呪縛が解けた今でも、お前の命令を抗いがたく思う」
少しの戸惑いを混じらせた言葉。
それは彼女の中でも消化しきれていない思いなのだろう。
歯切れ悪く彼女は言葉を紡ぐ。
「体を許そうとも、心は一切許さなかったというのに――今では、体よりも心が乱れている」
敵意。憎悪。そして困惑。
グリゼルダは混沌とした感情を彼に向ける。
「んー……それはつまり、屈辱マゾ調教をされてるうちに心までアヘっちゃったってことかな?」
「黙ってろマジで」
口を挟んだ来見に景一郎をそう言い捨てた。
――あまりにも最低な表現である。
さすがに不本意だったのか、グリゼルダは来見を睨む。
とはいえそれも数秒のこと。
彼女はついに――氷剣を抜いた。
「――我は確かめねばならない。この想いは気の迷いか」
氷の切っ先が景一郎を指す。
「それとも、お前を『主』と呼ぶに足る何かを見出したからなのか」
「それで戦うって話になるのか?」
結局のところ、これは心の整理をつけるための戦いなのだ。
屈辱的な支配の中で心が軋んだのか。
過ごした日々の中で、彼女なりに景一郎と歩み寄れるだけの何かを見出したのか。
それを明白にするための戦いというわけだ。
「もっと腹を割って話すとかないのか?」
「そんなもの二の次だ」
平和的な提案をするものの、グリゼルダはそれを切り捨てる。
「我の主が弱いなど――あってはならぬッ」
その声を起爆剤として、グリゼルダが斬撃を繰り出した。
氷の魔法を纏う斬撃。
剣の軌道に沿い、氷の波が景一郎を襲う。
「っと」
奇襲じみた一撃。
とはいえ単発の攻撃に捉えられるほど景一郎も弱くない。
彼は一気に跳び退き、横一線の斬撃を回避した。
着地する景一郎。
グリゼルダはそこに追撃を加える。
「【氷魔法改メ・出力偏重】」
彼女が見せた魔法は、これまでとは規模がまったく違った。
見た目だけでも倍は出力が違う。
広大な天眼邸を一気に覆いつくしかねないほどの氷の瀑布だ。
「これは――」
改造スキル。
あれは異界の冒険者が使っていた技だ。
「我の世界の技術だ。我が使えて不思議はあるまい」
グリゼルダは不敵に笑う。
――彼女も異世界人なのだ。
確かに、彼女がこの世界とは違う技能を有していても不思議はなかった。
空を隠すほどの氷撃。
それに呑み込まれる直前――景一郎は口を開く。
「悪い、天眼来見」
それは謝罪。
「多分、この庭――吹っ飛ばす」
同時に景一郎は、黒太刀を振り上げた。
「なッ……!?」
影の斬撃。
それが氷と拮抗し、打ち砕く。
氷の波を撃ち返し、影の牙は天へと伸びてゆく。
「我の魔法を一撃でだと……?」
影の斬撃は氷の波を裂き、2人へと続く道を作り出す。
景一郎がこれほどの威力の攻撃手段を持っているとは思わなかったのだろう。
グリゼルダの表情に動揺が見える。
「こいつは出力に特化した魔法……でいいんだよな?」
詳しいことは分からないが、改造スキルというのは何らかの分野に特化したものであることくらいは察している。
そしてさっきの一撃が、威力に多くのリソースを割いたものであることも。
つまり――
「ということは――これがお前の全力か?」
あれは、最大威力の魔法だったということ。
それを景一郎は一撃で破った。
その事実は大きい。
「良かろう。少なくともお前は――我の全力を受けるにふさわしい」
グリゼルダの笑みが深まる。
さっきまでより凶悪に、敵意を剥き出しにして。
だが、なぜだろうか――
「【魔界顕象・白の聖域】」
――彼女の笑みは少しだけ、嬉しそうに見えた。
もしかして:ストックホルム症候群。