3 思考の中の宇宙
「お湯、沸きましたよ」
ヒラノさんにそう言われ、やかんがけたたましく鳴っていることに気がつく。キッチンへ行き、お茶を淹れて2つの湯呑と一緒に持っていった。
「どうぞ。茶菓子がないですが……」
「ありがとうございます」
ボイスレコーダーのスイッチを入れてからテーブルの上に置き、雑談をしてからインタビューを始めた。
透明人間のヒラノさんは、普段は菓子メーカーの事務をしていたそうだ。そして、ネットでゲオルギーさんに声を掛けられた。今は研究に協力するとして、休職中らしい。
「誰でも良いわけではないそうです。私は、選ばれたんです。……運命だ、と思いました。私は私に、透明人間が透明人間になれるんですよ。私が透明人間になることは、世界に仕組まれていて、透明人間になるべきだったのです。私は幸せです。少しでも、この研究の役に立てるのですから」
透明人間だということはよく分からないが、どうやらヒラノさんは、幸せになれない運命論者らしい。ヒラノさんにとって、運命は定められたものでそうなるべきであり、きっと物事を選ぶ時にもそうするべきであると自分で選んできた、運命から逃れようとも思わない人なのかもしれない。
そこにあるのは、諦めだけだ。
「今は、楽しいのですか?」
「今? 別に楽しいでも、楽しくないでもないですよ」
「自分は透明人間だと思うことがよく分からないのですが、もう少し詳しくお話いただけますか」
そう聞くと、ヒラノさんは微笑みを返した。
「働き始めたら私の周りには誰もいなくなりました。
周りの大人は気づくんですよね。コイツと関わっても何の意味も価値もないって。よく、そんなに好きじゃないでしょう、そんなこと思ってないでしょう、冷めてますよねって言われていました。それでも、私は本気で私はそう感じている、ここにいると思っていた。私だけが気がついていなかったんです。そうですよね、中身がない奴に皆興味関心を持たないですよね。どうしてそうなったのか……あぁ、そうだ。私はいつもいつも他人の顔色をうかがっていた。嫌われることが恐くて、他人から見られるワタシというものを演じていた。皆が見ているのは、本当の私じゃないということを叫びたかった。身を守る為に必死で仮面を被って見たくないものには目をつぶって逃げて、演じ続けた。親からの抑圧もあったかも知れません。でも結局、私は嘘の世界で生きることを自分で選んだ。自分のせいなんです。抑圧していたのは自分自身だ。自分がかわいくて自分が憎い。頭の中で声が聞こえるんですよ。私をどん底へ陥れようと暴言を吐いてくる。きっとそれすら現実逃避なんでしょうけど。ただ、物心ついたときから私は私に、支配されていたんです。だから私は、いないんです。――ならいっそ、本物になれれば良いと思いました」
悩んだ末に言葉を返す。
「ヒラノさんは……透明人間は実現可能だと考えている、と、そういうことですか?」
「そうですね」
女は本当に嬉しそうに笑ってから、お茶を一口飲むと湯呑の中をじっと見つめた。その嬉しそうな顔に、不快感を覚える。
「……こういうことは、考えたことありますか?」
ヒラノさんが顔を上げる。
「この宇宙が創られたのは、偶然か必然か」
テーブルの上に載せた、ボイスレコーダーの停止ボタンを押す。
「考えたことありません。その、理系じゃなかったので、よく分からないですけど宇宙はビッグバンが起こって出来たとか……」
「間違ってはないですよ。宇宙は138億とか137億年前に出来たとされてますが、まぁ今話している僕等には1億でも10億違ったとしても関係がないですね。宇宙が今の姿になる前には、素粒子や正体の知れないエネルギーがくっついたり離れたりして多く集まっては小さな爆発を起こして、元素を作っていました。そして元素は無秩序に暴れ回って、ちょうど沸騰しているような感じで、ビッグバンと呼ばれている現象が起こってから宇宙に秩序が訪れた。これが宇宙の始まりです。しかし、宇宙が出来たとしても知的生命体、人間という観測者がいなければそもそも宇宙が始まったことも判明しない。その、観測者である私達がこの宇宙に誕生する確率は限りなくゼロに等しいと言われています」
ヒラノさんは呆けた顔をして聞いていたが、僕が言葉を切るとはっとしたように息を吸い込んだ。
「じゃあ、宇宙は偶々生まれたってことですか?」
「そうですね、確率論的に考えると偶然と等しい」
ヒラノさんはまた急須の中を見つめ、そして思いついたように言った。
「運命なんか存在しないということを仰りたいのですか?」
「いいえ、運命は存在すると考える人には存在しますよ。話にはまだ続きがあります。宇宙が無数に存在すると考えてみたらどうでしょうか? この宇宙以外にも同じような、まぁ少しずつ違う宇宙が存在すると考えてみてください。この宇宙に存在する私達は外側にある宇宙なんか観測することは出来ませんが。もしかしたら何も無い空間――時間も空間もない宇宙もあるし、生命が生まれない宇宙だってある。存在以前にちょっとバランスを崩して消滅してしまう宇宙だってあるかもしれません。しかし、宇宙が沢山ある、そう考えるとただ単に、条件を満たした宇宙に私達が産まれて、私達が産まれる確率は偶然だから不自然極まりないと騒いでいるに過ぎません。外側にある宇宙は観測出来ませんが、僕等が存在していることこそが、この宇宙以外に無数の宇宙が存在することの証明である……という結論に至るという考え方があります。人間原理と言うそうですが。だから、確率論ではなく統計的に考えてみてください。統計的に考えてみれば必然であると言えるのですが、それはたくさんの選択肢が存在する中で結果的にそのように見えるだけなんです」
「統計……」
ヒラノさんが遠い目をするので、堪えきれずに笑う。
「いや、僕も理数は得意ではないですが。数学の授業で統計って習ったでしょう」
「習いましたかね。でも、統計は分かりますよ。街行く人にアンケート、統計データとか言いますもんね」
ヒラノさんの目は死んでいたが、僕はお構いなしに続ける。
「ヒラノさんは物事を決定する時に、今までこうしてきたからという習慣やそうするべきだという観念にとらわれて決定しているんでしょう。私はこういう人間だからと決めつけて、これが限界だと考える。日常生活での選択肢だってこの宇宙が誕生したのは必然であると言えることと同じですよ。未来から過去を見てみれば、そう仕組まれていたと感じてもおかしくないです。ヒラノさんが運命だ、と感じているだけで本当は運命なんか存在しませんよ。それはヒラノさんが選択して来ただけであって、大体同じような考え方でいると統計的に未来は確定されてくるだけなんですよ」
ヒラノさんは不安そうな眼でこちらを見た。少し震える手で湯呑を包み込んでいる。
もう茶はぬるくなっていた。
「じゃあどうすればいいですか?」
「……簡単ですよ。選択を変えて行動するんです。考え方は後から付いてくる。それで運命だと思っているものは変わる。ヒラノさんの未来は今、どのような運命にあると考えていますか?」
ヒラノさんは俯いて少し考える素振りを見せた。
「真っ暗闇しかない、面白くない地獄――」
「運命が変えられるなら、変えたいと思わないんですか」
ヒラノさんは俯いたまま、視線を泳がせた。顔を上げ、僕と目が合う。すがるような目付き、不安そうな口元だ。
「あの……私、どうすれば良いですか。私、子供みたいなんですけど、どうすれば良いか……分からなくて……自分で変えられる自信がありません」
「まずは、透明人間になれるとしても辞めた方が良い」
そう答えると、ヒラノさんはスマホを取り出して電話をかけ始めた。暫くして留守電のアナウンスがスマホから漏れ聞こえる。
「ヒラノです。私、研究に協力出来ません。ご迷惑おかけして申し訳ございません」
そう残して電話を切った。
「そうそう、そういう思い切りが大事ですよ」
「岡さん、ありがとうございます。私のインタビューは無駄になってしまいましたので、お詫びをしたいのですが……ご飯でもいかがですか?」
ヒラノさんは恥ずかしそうに笑った。
時刻は丁度12時前くらいだったが、全くお腹が空いていない。
「朝が遅かったのでまだお腹が空いていないんですよね。外はまだ大雨で少し肌寒いし、家に帰って風呂で温まった方が良いですよ」
安易な希望は持たない方が良い。
「そうですね」