1 透明人間という女性
「私は、透明人間なんです」
女は椅子に座るなり、言葉を発した。
「はっ?」
思わず聞き返す。しかし、女はそれには反応せずに、ぼんやりと床を見つめたまま語りだした。
「幼少から、思い当たる節はありました。遊んでいる時に、友人から「今楽しい?」って聞かれるんです。勿論、楽しいって答えます。実際に私は楽しいと思ってましたし。でも、ふと考えてみるんですよね、あれ、私、今楽しいのかなって。そうすると分からない。自分が何を感じてるのか、何を思っているのか分からなくなったんです。自分を見失うってやつですね。何を考えているのか分からないとか、本音を話さないとかも言われてきました。そりゃあ、聞かれたら答えますよ。ただ、本当にそう思っているかと尋ねられたら、そんなこと、私にも分かりません。いや、分からなくなって当然だったんです。友人と行動する時、家族と話す時、そこに私は居なかったから。私は空っぽなんです」
身なりはちゃんとしていた。
髪は1つに束ねており、ブルーのストライプのシャツに、黒いズボン、黒い靴。よく見るオフィススタイルである。薄化粧だが、ちゃんとしているように見えた。ただ、駅で待ち合わせてからこの部屋へ来るまで、僕が話しかけるばかりで、女はほとんどはいとか、そうなんですか等としか言葉を発しなかった。人見知りではない、独特な雰囲気を持った方だと思った。
「雨って」
ズボンの裾が濡れているようで、水を絞るように手でぎゅっと握る。
「すごく嫌いです。私、雨女なんですよね。良いことがあっても雨は気持ちを台無しにする。憂鬱になります、これ、私だけですかね」
「い、いや、僕も雨は憂鬱な気分になりますよ。外、大雨で濡れましたか。多分タオルがあったと思います」
そう言って立ち上がり、狭い事務所の隅にあるロッカーを開けた。上段に、開いていないタオルを見つける。赤い金魚のキャラクターが印刷されたタオルだった。随分昔に銀行で契約か何かをして貰ったものだろう。
「いいのを発見しましたよ。これ、ちょっと懐かしいですが」
袋から取り出して手渡す。
「ありがとうございます。ああ、何か見たことありますよこのキャラクター」
女は顔を上げて礼を言った。一応、会話は出来るようだ。真正面からじっと目を見られ、気まずさを感じる。
女は濡れた足首を拭いた。
「ちょっと一息ついてから取材をと思っていたんですが……。そうだ、お茶でも淹れましょう」
「そうですね」
キッチンへと向かい、女のきちんとした名前を聞いていないことに気がついた。ニックネームは透明人間だが、そもそも透明人間は固有名詞が入っていないので呼びにくい。透明人間のなになにさんなら分かるが。
やかんを火にかけ、急須にお茶っ葉のパックを入れると女の前に戻った。
「あの、透明人間さん、お名前は何というのですか。僕は何とお呼びすれば良いでしょう」
そう尋ねると、女は首を傾げた。
「匿名で良いという話ではなかったですか。透明人間に名前など必要ですか」
「えぇ、まあ、匿名で良いんですが。僕が呼びにくくて」
「じゃあ、私はヒラノです。好きな小説に出てくる登場人物の名前です」
透明人間のヒラノさんは笑った。
「ヒラノさんですね」
ポケットから名刺を出して、ヒラノさんに渡す。
「渡すのが遅くなりましたが、ライターの岡徹と申します。本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
まあまあ、お茶が入るまでどうぞゆっくりしてくださいなんて言いながら、僕は妙な女にインタビューをすることになった経緯を思い返した。