8.きみはこの先どこへ行くの。
最初の違和感は、皇后杯全国女子駅伝のチーム選考結果を聞いたときにあった。
「よかったな、小牧。1月13日に向けてがんばっていこう。全体練習の日程は追って文書でとのことだ」
「――待ってください、なんでさくらさんがいないんですか」
昼休み、別の先生に用件があって職員室に行ったら、ちょうどいいとこにと監督……藤沢先生に呼び止められて、渡された書類。今年の兵庫県チームの、メンバー表だった。
意味がわからない。最初に目を通したときの正直な感想が、それだった。
両方選ばれるのはまあわかる。彼女は当然で、わたしもこの間の高校駅伝はけっこうがんばったし。そこが決め手になったなら嬉しい。
両方選ばれないのはかなり厳しいなって思うけど。それでも、一応理解はできる。最近は中学生でも高校生と競えるような子、多いし。レベルがとても高いということなら納得はする。
……悔しくなるのはどうしようもないだろうけど。なんで、さくらさんまでって。
彼女だけが選ばれるのは、去年もそうだったみたいに、当たり前のこと。
当然悔しい。わたしもそこに入りたいし、負けるのは絶対いやだけど。現状は、客観的に見てさくらさんが上。
だから、わたしだけが選ばれるのは、本気でわからなかった。作戦がハマって一度勝てたくらいで序列は変わらない。実際、あのあとも近くの市民マラソンに同じ10km部門で出たけど、彼女に2分差つけられた。まだまだこれからなんだ。
彼女がケガで休んでるなんてこともない。メンバー表に彼女がいない理由は、わたしには思いつかなかった。
「悪いが、メンバー選考は県の陸連がやることだからな」
「個人的な感想でいいです。変だなとか思いませんでしたか?」
見苦しいのはわかってる。だけど、どうしても理解できなかったから。渋い顔の藤沢先生を見ても、質問が止められない。
「……まあ、普通なら選ばれるわな。俺から言えるのはそれだけだ」
「……わかりました。しつこく聞いてすみません。でも、ひとつだけいいですか」
「なんだ」
「ケガしては、ない、ですよね」
昨日だってさくらさんは普通に部活へきて、普通に練習していた。ないとは思う。だけど――
それだけは、本当に怖かった。
「小牧さあ、お前が肉離れでグラウンドに倒れたときより辛そうな顔してるな。……安心しろ、ケガとかじゃない」
「……ならよかった、です」
それは本当によかった。安心した、んだけど。
――可能性がひとつ潰れた。
そう思うわたしも、小さいけれどたしかにいて。
もやもやを解消したいだけ。
自分のことしか考えてない。
――情けなくて、ここから逃げてしまいたい。
「大丈夫だ。お前は、お前のやるべきことを楽しくやっていけるように、な。それでいいんだ。ほら、もうすぐ5限だぞ」
「……はい」
先生の優しい言葉が、よけい身体にのしかかった。人前で泣くわけにはいかない。それでも、のどの奥と目が熱くて、熱い。
☆
「お先に失礼しまーす!」
練習が終わってすぐ、さくらさんが帰っていく。ピンクと紫と白のニット帽を揺らしながら、軽やかな足取り。
今みたいな大会シーズンは、長距離の人のたいていが練習後でも残っている。自主練だ。ほどほどにしとけよ、って監督は言うけど。本番までにここを伸ばしたい、克服したい、ってなったら、自主練もいるわけで。
もうすぐ今年も終わる。わたしも、ほとんど最後の大舞台、全国女子駅伝に向けて、冬休みでも気を抜くわけにはいかない。グラウンドは緊張感で満ちている。
それなのに最近、さくらさんは居残りしなくなった。練習のあと、メモ帳片手に監督と話をしてから帰っていく。いつのまにか、彼女のルーティンになっていた。それでいて調子を落とさないのはさすがだけど。
あの人も2月の終わりに引退レースあるのに。寝屋川ハーフマラソンのクォーター(10.54km=フルマラソンの1/4)部門で最後にするって前に言っていたのに。帰ってから練習しているのかもしれないけど、最後を素敵に飾るぞ、なんて気迫、彼女からは見えなかった。
楽しいことが一番。そう言いながら、誰より熱心に練習していたの、知ってるよ。ねえ、どうしたの。ほかに優先したいことでもあるの。
なんて、聞かないけど。干渉しすぎたらいけない。友達になっても、自分で決めたことはちゃんと守る。それが、彼女のためになる。
——頭ではわかっていても。その日の自主練は、なんだか身が入りきらなかった。身体がスポンジみたくなって、蹴り出しても出しても進んでいかない。
☆
『月間陸上競技』『陸上競技ガイド』、マラソン中心だけど一応『ランナーズ』、どれを見てもさくらさんの進路が載っていない。前とは違って、インターネットにも情報がない。
この時期になってもないなんて、どう考えてもおかしい。おかしいんだよ。わかってる。
……来月号には、載っていますように。
☆
クラスメイトとのなにげない会話が、決定打だった。
「もう冬休み終わっちゃったかー。1か月くらいあってほしいよ。ねっ彩ちゃん!!!」
「話切り出して5秒で同意求めないで」
ついていけないから。
4限目が終わった瞬間、わたしの席に机と弁当を持ってきたこの子。すごい勢いで身を乗り出すものだから、いやでも『中嶋 ひらり』の名札が目に入る。彼女のくせっ毛が、目の前をかすめた。
「じゃあ考える時間あげる。1,2,おしまい!」
「せっかちだなあ。えっと……わたしも長いほうがうれしくはある、かも」
「でしょでしょ。よき理解者さんだ」
「練習に打ち込めるから」
「あー、陸上しか考えてなかったパターン……彩ちゃんぶれないね」
頭をかかえるひらりさん。私と同じくらい小柄だけど、リアクションはやたら大きい。
「それ以外なにがあるの。ひらりさんも大学に向けていっそうバスケ打ち込んでるって話じゃ」
「それはね、そうだよ。でも考えてみて! クリスマスとか年末年始とか、エンジョイしなかったの?」
「ちょっとは。親戚で集まって楽しかった」
「ほらー! ボクもね、いっぱい楽しいことあったよ! 彼氏くんとクリスマスプレゼント交換したり。だからまだ冬休み気分かも……」
「それで英語寝てたの」
「やらかしたねー」
てへ。ひらりさんが舌を出す。おどけて、でも視線は合わない。
彼女は素直だ。言いたいことは言うし、悪いことは反省する。
「大賀先生の雷はじめて食らったよ。いやー今までさんざん見てきたけど、自分に向くと全然違うね。自業自得だけどさ!」
「今日は特に怒ってた。ほかの先生も。なんだかクラスの空気緩いから、仕方ないか」
「そりゃ3学期初日だし。健スポ丸ごとボケてるんだよ」
「たしかに。普通科の人たちはなんだかピリピリしてたけどね」
「ボケてらんないだろうね。もうすぐセンター試験だもん」
センター、しけん。聞き覚えはあるなと反芻して、頭回して、じきに記憶から引っ張り出す。
「あったなあ、そんなの」
「――ひどっ。ほんっと、陸上おばかさんだ。普通科の子に聞かせたらなんて反応するんだろうねー」
「うん。世間知らずだなって、今思った」
「世間知らずっていうか、先生の話聞いてないでしょ」
いくらスポーツ科でも、推薦で大学とか、プロになるなんて人は少数派のはず。たいていの人はセンター試験を受けるわけで。
なのに覚えてないなんて……うん、自分のせいだ。
「そういえば、普通科と健スポはずっと進路指導別だった。そっか。みんな今がんばってるんだ」
黒板の向こう、隣の、そのまた隣の。たくさんの教室に思いをはせる。
ひとつ、疑問が湧いた。
「センター試験、いつだっけ」
ささいな疑問のはずだった。
「13日と14日。世間を知りたかったら、覚えておくよーに」
「そうなんだ——」
あれ。
どこか引っかかる。その日、なにかあったような。
脳内をまた回す。糸と糸をぐるりつなげる。
そうだ、駅伝だ。全国女子駅伝。
——そこで止まれば、よかったのに。
「もしかして、さくらさんが駅伝出ないの」
センター試験を受ける。スポーツ推薦ですらない。だとしたら、それは。
いやな予感。思い当たったこと。
どうしようもなくて、席を立った。
椅子ががたり倒れる音。気にしない。
「あっちゃー」とひらりさんの声。気にしない。
机の間をずんずん歩いて、彼女の席へ。グループでご飯を食べている。気にしない。
聞きたいことがあった。
「さくらさん、もしかしてスカウ——」
断ったの。そこまで言う前に、白い指で制された。
またいつもの笑みだ。大丈夫だよ、全部わかってるよ、の顔。彼女はいつだってゆったりしている。言い換えれば、余裕を浮かべている。
いや、違う。
ちょっとだけ、申し訳なさそうに目を伏せて。
「卒業式まで待ってて。そしたらね、言うから」
黙ってうなずいた。それしかできなかった。
制されて、落ち着いて、少しずつ体温が下がっていく。
「ごめんなさい」
彼女だけじゃない。このグループに、クラス全体に向けて頭を下げる。
昼ごはん中に人前で、わたしはなにをしているんだ。
席に戻って食べたお弁当。あまり味がしなかったのは、お母さんのせいじゃない。