6.この想いをきみに繋げる。
インターハイのあと、陸上部にも本当の意味で夏休みがきて、じきに終わっていく。セミの寿命くらい短い休みの間、考えていたことがある。わたしはさくらさんの友達だって、自身もって言えない理由。
今日――あと少しで練習再開という日になってようやく、答えが見えた。結局は単純なことだったけど。
どうやらわたしは、さくらさんのことを同じ陸部の仲間だと思っていなかったらしい。大好きで、大嫌いで、あこがれで――みたいなぐちゃぐちゃの感情を向けていただけで。
それを意識したのは、もうすぐ駅伝――特に、全国高校駅伝の予選に向けた練習が始まるな、と思ったからだった。他のチームメンバーのことと、チーム全体のことを考えて、一丸となって取り組まなきゃいけない。それが駅伝だって、わかってはいるつもり。できてはいない。視野が狭くて、走るときは自分と――さくらさんのことくらいしか、考えられなくなってしまう。だから個人競技に傾いたわけで。
意識の面でも、単純な走りの向き不向きでも――わたしは駅伝が苦手だった。
そのことは監督やマネージャーも当然知っている。知った上で、わたしを駅伝のメンバーに選ぶ。
種目が違っても、わたしは、虎高陸上部の長距離メンバーで2番手だから。それはちゃんと誇らなきゃいけないし、だからこそ逃げられない。
チームで。仲間と。……仲間? わたしは、さくらさんと陸上部のこと、どう思っているんだろう。
インターハイが終わってもきっと、まだまだ長い。家で久しぶりにアイスを食べながら、日差しがまぶしい窓の外を見ていた。
まだ、この夏にいたいんだけどな。
☆
10月に入って、もうすっかり秋だ。一番走りやすい季節。ロードレースの季節。
5kmか10km部門のある市民マラソンに出て、経験を積んだり。練習メニューにロング走の割合が増えたり。それも、アップダウンの多いコースを走ったり。
「今日もやっていくぞ!」
「はい!」
監督の目がぎらぎら燃えている。長距離のみんなも、声に力が入っていた。高校駅伝の予選に向けてやる気が高まっているのには、理由があった。
――今年は、全国高校駅伝に初めて出場する、めったにないチャンスだから。
高校駅伝は毎年、都道府県内の地区予選、都道府県予選、地方大会(近畿とか関東とか)、全国大会と進んでいく。いつもは都道府県予選で1位になった47校が全国に出る。都道府県予選で上位だったところは地方大会に出るけど、そこで入賞しても全国には出られない。すごく狭き門だ。
でも、今年はちょうど、5年ごとにある記念大会の年。記念大会なら、都道府県予選の1位校以外に、それぞれの地方大会で(都道府県の代表を除いて)最上位だった高校にも出場権が与えられる。
枠が広がったと言ってもほんの少しだけど、チャンスが増えたのは確かだ。
それに、監督が言うには「今年の女子駅伝、今までで一番可能性があるんじゃないか」らしい。全国で入賞したわたしとさくらさんがいて。後輩にも、トラックとロードレース両方速い子がけっこういる。来年、何人かは全国行けるんじゃないかな。
タイミングもメンバーも揃って、今年こそは。みんなが前を向いているのに――わたしだけ、不安でしょうがない。燃えている周りを見るだけで、胸の深いところがよどんでしまう。
全部、去年のわたしがダメだったせいだ。ここ5年くらい、虎高の女子駅伝は近畿大会へ進めているんだけど。おととしまでは40校中15位から20位くらいで安定していたのに、去年だけが、31位。
――わたしさえちゃんと走れていたら、違う結果があったのに。
1~5区の中で4区を任されたわたしは、とにかくいい区間記録を出したくて必死だった。一応トラックでは全国に出たけど、ロードレースの実績があまりにもない。そもそも1年のときは、ケガで冬場走れてなかったし。
トラック以上にあるさくらさんとの差を、どうにかして埋めたい。その気持ちでいっぱいだった。
だから、無理してしまったんだ。前半がゆるい下り坂なのをいいことに突っ込んだペースで行きすぎて、案の定足が止まった。5kmなんて、普段から練習で走っていたのに。鉄の塊になった身体でどうにか後半の坂を登って、何人もの後続に抜かれて、どうにか中継所にたどり着いたけど。
――19位で受け取ったたすきを、32位でアンカーに渡した。
思い出すと、いまだに情けなくなる。
「まーきちゃん。いっしょにアップしよっ?」
「あっ、うん。わかった」
視界に突然飛び込んできたさくらさん。小首をかしげてごきげんだ。
「不安ならあたしがてきとーに吹き飛ばしてあげるから! 駅伝がんばろうね」
「……なんでわかるの」
「やっていくぞ! ってしてるときにひとりだけ下向いてたら、そりゃあ心配しちゃうよ」
腰に手を当てて、頬を軽くふくらませて、不満のポーズ。背が高い彼女には、やけに絵面が映えていた。
……それはそれとして、謝らなきゃ。
「ごめんなさい。心配かけたし、空気悪くした」
「だいじょーぶ! みんなと楽しんで走れたら、きっといいことが待ってるよ」
「……そう、かも」
「かもじゃなくて、そうだよ! 牧ちゃんとわたしと、陸上のみんなはね、仲間でライバルなんだから」
友達とはまだ言わないでくれている。少し心が痛むけど、でも――
「うん。がんばろうね」
「おっけー、そうと決まれば練習だ!」
腕を伸ばしてストレッチを始める彼女に、わたしも追随する。
グラウンドは活気であふれていた。
☆
紅葉が街を彩って、たまに風に流されて飛んでくる、そんな季節。11月が半分過ぎ去って。今年も、高校駅伝の地区大会がやってきた。
今年の舞台は大阪の能勢町。去年とは違うけど。わたしに与えられた役割は――またしても、4区だった。
はっきりとは言われてない。でもわかってしまう。去年を乗り越えてほしい、お前にはできるって、監督たちが思っていること。
今までの自分なら、自分しか見えてなくて、また同じ失敗をしていたかもしれない。でも、今年はきっとだいじょうぶ。
インターハイでさくらさんに勝ってから、少しずつ、変われてきてる気がするんだ。
4区の中継所で、そっと出番を待つ。周りはいろんな高校のチームと、スタッフさんたち。コースまで出れば、沿道でたくさんの人が応援している。たくさんの声と人影があるけれど、息を吸って、ゆっくり吐いて。お昼近くなのにはっきり白い息を、じっと目で追って。
思い出すのは、これまでのこと。前よりも練習方法とかを教え遭ったり、ふつうに雑談したり、部のみんなとたくさん話すようにしたこと。『駅伝は個人種目で、チーム種目だ。どっちも忘れるんじゃないぞ』と、監督の教え。
さくらさんとたすき渡しの練習をしたこと。たすきのかわりに使ったベルトが大きすぎて渡しづらくて、彼女とふたりで笑ったなあ。
県の地区予選と、県予選。無難な順位とタイムだったけど、大崩れはしなかった。
今日のコースを試走に行ったとき、とても気持ちよく走れたこと。
今朝、虎高を出る前に円陣を組んだこと。重ねたみんなの手が温かかった。
全部が私の自信になる。錯覚じゃなく、元気が沸く。瞑想は――うん、いいかな。目を閉じて無理にひとりの世界に入らなくても、平気になってきた気がする。
まだまだだとは思うけど。それでもわたしは、少しずつすこやかになっている。陸上が楽しくなってきている。
ほら、今も。
「!」
呼ばれた。ウィンドブレーカーを脱いで、マネージャーの子に渡す。
「行ってきます」
「いってらっしゃい、牧ちゃん!」
スタートラインに並んで軽く跳ねる。身体が温まってくる。
3区の子――2年生の、陽気でボケ気質な女の子。その姿が、すぐに見えてきた。
流れる汗。ゆがんだ顔。たすきを手に取るときの、おぼつかない手つき。かなりしんどそうなのが一目でわかる。それでも、足取りだけはしっかりしていた。わたしに繋ぐ、チームで繋ぐために。あの子の本気が伝わってくる。
――わたしも、最後まで。
両手を振って、出迎える。近づいてきたあの子と目が合った。苦しそうだけど笑う、細まった瞳から。まぶしい光が見えたような。
背を向けて軽く走り出す。うしろに腕を伸ばしながら。
「12位通過、虎屋高校!」
今までより小さな数を告げる、スタッフさんの太い声。
少しだけ温かいたすきの感触が、しっかりと手に乗った。
背後でどさっと音がする。
――がんばったね、ありがとう。あとで会ったら言うからね。
全力でアスファルトを蹴って。わたしは、5kmの道のりへ飛び込んだ。
12位、か。あんまり意識しすぎないように、でも心のどこかに置いておく。まずは自分の走りをして、それがチームのためになったら。
ゆるい上り坂と急カーブの続く田舎道を、すっすっ、はっはっと登っていく。トラック用のスパイクシューズとは違う、マラソン用の底が厚いシューズ。柔らかくクッションを効かせて、アスファルトからの衝撃を受け止めてくれる。新しいシューズにしてよかった。前のものが傷んできていたから、駅伝メンバーの子たちに相談した。そうしたら監督と、1年のマネージャーの子まで乗ってきて。みんなでスポーツ用品店に行って選んだんだ。あれで少し距離が縮まった気がする。
あやめの花の色に近い、バイオレットのラインが入ったものになったのは偶然だけど。わたしとさくらさんと、みんなの象徴。
大事なそれを履いた足で、一歩、また一歩と進んでいく。
あと4km。11位の高校が、もうだいぶ近くに見える。
追いつくのに時間はかからなかった。しばらくは併走して、やがて自然と前に出た。もうすぐ上り坂がきつくなる。
今のところペース配分は順調だ。
坂を登る。今までより広い道に入ったから、沿道の応援が増えてくる。違う高校の応援に来ていそうな人でも、声援を送ってくれたりして。あったかいな、うれしいな。
まだまだ足は止まらない。
4区中間点の標識を越えた。あと半分、ここからはほとんど平らな道が続く。今まで通りに刻んでいこう。左腕だけ一瞬振るのを止めて、ランナーズウオッチを見る。7分40秒。順調だ。
またひとり、前の人影が大きくなった。
ごぼう抜きとはいかないし、逆に一度、びっくりするような脚で抜かれたけど。手ごたえは充分あった。あとは、あの人につなげるだけ。肩から掛けたたすきを強く握る。
あと1kmで、これをきみに。
ひゅーっと、追い風が吹いてきた。木々がさらさら鳴る。身体がすっと軽くなって、どこまでも飛んでいけそう。
――風が心地いい。少しもしんどくない。顔がゆがんだりもしていない。
たん、たんっ。わたしの足音が大きく聞こえる。気がついたら、日差しがぼうっと広がって、全部飲み込んで真っ白で、まっさらで。ふわっとするような。他に誰もいないような。錯覚なのはわかっていても、確かにそんな感じがした。
――ふと、思い出す。
『いらない力が抜けて、風とふわふわ溶け合って、世界に自分しかいないみたいな感じ』
県の合宿で、さくらさんが言っていたことを。一番気持ちいい走りは、そういう感覚になるらしい。そのときはピンとこなかった。彼女はやっぱり独特だって、そう思うだけだったけど。
わかった。これがそうなんだ。
――あのね、さくらさん。きみの言っていた最高の走りで、たすきを届けられそうだよ。
次の交差点を左に曲がれば、彼女の待つ中継所が見える。
中継所には、3人並んでいた。みんな背が高い。だけど、ユニフォームを見るまでもなかった。普段通りのほがらかな笑みで、大きく大きく手を振って。さくらさんが待っている。
「おー疲れさまーーーっ!!」
歩道から小さく笑い声が聞こえた。まあ、ふつう声かけるのはこっちだろうなあ。
いつもより少しだけ軽やかなわたしと、いつも通りのきみで。
たすきを首から抜く。腕と脚を、1mmでも長く伸ばすんだ。
「9位通過、虎屋高校!」
また数字を告げる声――1けたになった、声。それと同時に、さくらさんがふわっと飛び出していく。広い背中が目の前でひるがえる。わたしとみんなの思いが詰まったたすきを、彼女の手に握らせた。
少しだけ触れた彼女の腕が熱いこと、ほてった身体でもよくわかった。
コースを外れながら、彼女のうしろ姿を見送る。崩れ落ちたりしたくない。水平線の向こうに消えるまで見ていたい。……もちろん、無理だけど。
誘導されてテントの中に向かった瞬間――視界が、ぐにゃぐにゃに曲がった。
見えない。目の前がうまく見えない。水色と灰色と黄緑が混ざったみたい。ここは、どこだっけ。
――うはぁ、くらくらする。それから、なんだか肩が重いような。押しつぶされてるみたいだ。
ほとんどなにもわからないけど、たぶん、ブルーシートに手をついた……はず。指がひんやりするから。
「大丈夫ですか!」
知らない女の人の声。
「他校の、人?」
「救護班です。今、どんな感じですか」
「……あの、目の前がグニャグニャして、とってもしんどくて――でも、大丈夫です」
ひとつだけ、はっきり言えることがあった。
「たぶん、全力を出し切ったからって……だけ、なので。きっと、そうです」
「――はい、わかりました。最後まで、走りきったんですね」
「そう。そうです」
ちょっとだけ目が開いた。おんなじ目の高さで、その女の人はたぶん、笑って。
「なにかあったら、すぐ救護テントまで来てくださいね」
優しい声で、去って行った。
……そっか。わたしは走りきったんだ。
監督の運転する車が迎えにくるまで、ふわふわしたままそこにいた。
☆
総合8位。府県の代表校を除くと3番目。それがわたしたちの残した結果。全国の壁は、やっぱりとんでもなく高い。
悔しいのはきっと、みんな同じ。でも、ゴール地点で集まったとき、誰も悔し泣きしていなかった。代わりに笑顔と、うれし涙があった。輪になっていると、みんなの顔がよく見える。
汗と涙でぐちゃぐちゃなのに――誰もかもが、きれいに見えた。
「よくやった。お前たちは、本当に頑張ったんだよ」
少しずつ、噛みしめるように。ふだん早口気味な監督が、ゆっくりゆっくり、そう言った。
「もうちょっとだった。その『ちょっと』が届かなかったけど……でも、がんばったよね」
「これでダメならしょうがないですよ。監督のカーナビで見てましたけど、すごかったですもん。ね! 先輩方!」
「わーありがとう! あたしもアンカーがんばったの。また来年だね~」
「月学と北工から優勝もぎ取れチャレンジ、ふたたびかー……まあ、ちょっとだけ希望見えてきたかも」
「うん。卒業しても応援してるから」
走者も補欠も、マネージャーも、監督も。全員を順番に見ながら、そう伝えた。
みんなでがんばってきたんだなあ。いまさらだけど、改めて気づく。
燃えつきた身体に、涼しい秋風が心地よかった。