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5.きみの背中はもう見えない。

 スタートラインに立つときは、いつだって身体がピンとなる。予選を組別3位、全体8位のタイムで通過して、私は決勝の舞台にいた。

 ストレッチをする人が多いけど、わたしは事前にしっかり終えてきた。この時間、他にやりたいことがあるから。


 ゆっくりと目を閉じた。

 何も考えない、という意識すら、今のわたしには必要ない。ただただ、風の音や声援に身を任せる。すべてをBGMにして、それがすーっと引いていって。やがて頭が空っぽになる。瞑想だ。

 わたしは、とうめいなやみのなか。


 しばらく漂ってから目を開ける。何人かの選手を挟んで内側に、わたしと同じ黄色のユニフォームを着た、さくらさん。ほんのり笑いながら伸びをする彼女を、さりげなく見つめた。

 彼女に勝つこと。勝って、ライバルになること。そのために立ててきた作戦。空にした頭に、それだけを詰め込む。


「小牧 彩夢さん 虎屋」


 アナウンスがされた。右手をピンと挙げてから、正面――テレビの向こうの人に向けて、1回。真横の観客席に向けて、1回。丁寧におじぎをする。

 よろしくお願いします。頑張ります。私が走るのは、みんなのためじゃないけれど。それでもしっかり礼をした。

 そういえば、陸部の人たちも見に来てくれてるんだったな。


 外に意識向けるのはおしまいにして、目の前だけに集中する。


位置について(オンユアマーク)


 合図で身体を傾け、片足を引く。スタンディングスタートの姿勢。横1列に並んだ15人がスタートを待つ。


 ぱぁん、と。

 静まりかえった競技場にピストルが鳴る。反射みたいに身体が動いて、スパイクで地面を蹴り飛ばした。

 ――始まりだ。


 最初にしたのは、ポジションを取りに行くこと。集団内の先頭か2番手、3番手あたり。意図的にその位置で走ろうとする人は、ふつう少ない。先頭は向かい風とか空気抵抗を一番受けてしまうし、うしろの人にペースメーカーみたいな使われ方をする。前の人たちが作るリズムに合わせれば、たいていは安心して後半まで走れるから。

 そんなリスクを負ってまで前に行きたいのは、集団のペースをある程度コントロールしたかったから。

 さくらさんみたいなトップ選手に最初から最後までついて行けるほど、わたしにはスピードがない。いったん離されてしまうとつらい。でも、ラストスパートには少し自信がある。だれかと競り合えば、根性で最後までがんばれる。

 じゃあどうすればいいか? 自分が安定して走れるくらいまで全体のペースを落として、スプリント勝負に持ち込めばいい。基本的にはそういう作戦。


 外側から切れ込むように軽くギアを入れて、狙い通り、集団の先頭を手に入れた。わたしより前に3人いるけど、その人たちは仕方ない。留学生さんとか、去年の日本人最高位の子とか。持ってるスピードが違いすぎる人は、集団なんて気にせず行っちゃうから。

 ここからだんだんスピードを緩めたい。気づかれにくいように少しずつ。最終的に落としすぎるのも、レースを壊しそうでよくない。若干ゆったりめかも、とみんなが思いそうなペースで充分。

 ……その前に、さくらさんはどこだろう。できればいてほしいポジションがあるんだけど――と思って振り返ると、本当にそこにいた。団子になった集団の一番トラック側、真ん中あたり。いつもより腕の降りが小さくて、ふわふわ伸びやかな走りでもない。きっと窮屈だろう。さくらさんは今、完全に閉じ込められている。

 スタートラインに並ぶとき彼女が内側にいて、これはもしかしたらと思っていた。

 彼女が駆け引きに左右されず、いつでも自分のペースで走りきる実力者なのは、当然みんなが知っている。露骨ではないにしても、彼女の位置を意識したり、マークして走る人はきっといる。

 わたしが全体のペースを落としたかったのは、これもあった。彼女にのびのび走らせないように、団子状態にして閉じ込められたらいいなって。そのまま進んで、ラストスパートで先に仕掛けて出し抜けたら、最高だ。

 ストライドの大きい彼女を窮屈にして、リズムを乱させたい気持ちもあった。

 さくらさんに問い詰められても文句は言えない。覚悟ならできている。彼女の顔までは見る余裕なかったけど、どんな表情、してるんだろう。彼女はここから、どうしてくるだろう。

 コントロールといっても、そんな大したことはできない。うまくいけば、全体を少しだけ思い通りに引っ張れるかも、程度だ。時計見て気づかれる可能性は高いし。それでも、少しだけペースを落としていこう。 


 ぱたぱた、ばたばたばた。 

 背後からの靴跡を聞きながら走っていると、自分でも思った以上に落ち着いているな、と思った。今のところ、自分の思い通りに運べているからかもしれない。トラックを1周して、今は600mくらい。いい感じにペースを落とせている実感がある。ひとり、わたしの内側から並びかけてきた人がいるけど、それくらいなら問題ない。


 走りに関係ないくらいのそよ風が、涼しさを届けてくれる。観客席のがやがやと、その中を突き破る甲高い声援が、よく聞こえる。

 順調にきている――はず、だった。


 唐突に、すーっと現れる人影。

 ひとり、ふたりとギアを上げて、私の外から抜いていった。歓声が少し大きくなる。


 うわぁ、さすがにそうなるか。ペースを落としすぎたんだ!

 集団が崩れて、どんどん縦長になる。置いてかれる人が出てきて、私は今真ん中あたり。

 どうしよう、どうしよう、ダメだった場合を考えてなかったわたしが悪い。思わず周りを見てしまう。

 ――そのとき、広い背中が視界に入った。集団がばらけて、マイペースで走れるように……なってしまったさくらさん。わたしの前に出てきたんだ。

 そうだ、わたしもマイペースで行けばいいんだ。自分が安定して走れる、最速のペースを刻み続ける。ラスト近くまではそれでいいんだ。

 乗り越えたい相手に落ち着かされているの、どうなんだろうとモ思うけど。今はただ、自分の走りをすることにした。



 ☆ 



 がらんがらん! 先頭が最後の1周――残り400mに差しかかったことを伝える、鐘の音。先頭に2人、その数十mくらいかな、うしろに3番手。そこからはぱらぱらと人がいて、私はたぶん、9番手くらい。


「ラストー!」


 声援が大きくなる。わたしももうすぐ、残り1周。前半ペースを落としたおかげもあって、余力が残っている実感があった。さくらさんはまだ、背中がはっきり見える位置にいる。

 あの月面スキップをどうやって捕らえるか、それだけを考えていた。そよ風で多少はましだけど、絵に描いたような真夏日だ。暑さと全力疾走でゆだりそうな頭をどうにか回す。


 ここは、最初から考えていた作戦でいいはず。彼女にならきっと通用する――悔しいけど。本当に悔しいけど。

 あと100mくらい待とう。勝負はそこからだ。定石より少し早く仕掛けて、焦ったと思ってもらえれば。


 覚悟を決めて走り続ける。

 瞑想のときみたいに、周りの音が消えていくような心地がした。頭の中が澄んでいく。風になったみたいだ。なんだかとても、身体が軽い。1歩2歩。柔らかく脚を出して、回転させる。

 仕掛けるのはここじゃない。ここでもない――今だ!


 残り300mと少し。先頭はもうラストスパートみたいだけど。わたしには、あの人しか見えない。

 限界までストライドを伸ばして、そのまま伸ばした脚をうしろに蹴り出す。蹴り出しのスピードが速いほど、脚を前に引き戻すスピードも上がる。脚の回転が速くなる。腕の振りも今まで以上に大きくする。リズムに乗せて、右、左。前後じゃなくて、斜め方向を意識する。そうすれば、腕の可動域が広がるから。

 わたしと同じくらい小柄な人と。もうひとり、相当な短髪の人を抜いた。もう少しだ。今までさんざん見てきて、見せつけられたきみの背中。それが着実に近づいている。彼女はまだいつものマイペース。とはいっても、常識的にはかなり速いけど。

 それ以上を出せば、抜き去れる。

 たったっ。彼女の影に身体が入って、たったったっ。手を伸ばせば届きそうな距離まできて。さくらさんの外へ進路を切り替える。

 もう一段強く、より速く、遠くまで踏み込んだなら。

 すっすっ、はっはっの呼吸を、いつもより少しだけ深く。


 ――うん、大丈夫。

 わたしは、彼女に襲いかかる。


 さくらさんに並びかけて、勢いのままに抜き去った。彼女に届いたところで満足してちゃいけない。まだ半周以上残っている。

 ――だとしても、今のさくらさんの表情を見てしまいたい。そんな感情がふと、湧き上がって。

 少しだけ、背後を振り返った。


 そうして見えた姿に、いつもの笑顔はない。真剣な表情もない。

 目を見開いて、視線が揺れて。彼女はただただ、驚いていた。どうしてそんな、と、顔全体で語っていた。唖然ってこういうときに使う言葉なんだな。

 振り返るのをやめて、正面に向き直る。そっか。やっぱりきみは、わたしのことを。

 でもいいんだ。私の全速と、4年間の集大成を。この半周で、きみに刻み込んでみせるから!


 ここからは、ひとつもペースを落とせない。

 全速力の9割以上で駆け抜ける。のどが締めつけられるみたいに苦しいけど、それがどうしたっていうんだ。残り半周、もうかわしたところで――強烈な気配。

 彼女だ。そう思った瞬間、もう一度あの背中が現れた。

 手足を全力で振って突き進むような。上下動の少ない、力強いフォーム。足裏全体でトラックを捕らえるような接地。あのさくらさんが、伸びやかさのかけらもない走りをしている。余裕のない頭でも、それだけはわかった。

 彼女も今、きっと必死なんだ。そうさせている理由はわたしだと、思ってしまっていいのなら。なおさら元気が沸いてきた。

 これで最後の最後。今度こそ限界まで引き上けなきゃ。――うん、行こう。

 今まで積み重ねてきた月日。きみに負け続けて、あこがれて、少しでも勝ってみたくて。ライバルになってやるんだと、ずーっと思ってきた。たくさんの、本当にたくさんの気持ちを込めて。わたしはもう一度、抜きにかかる。


 ――これ以上、きみの背中を見せないで!


 たん、とトラックを蹴る音が、鮮明に聞こえた。


 風といっしょに、彼女の姿が流れ去っていく。背中が見えなくなる。あとはもう、わたしの身体を信じるだけ。


 カーブの遠心力にも負けない。ラストスパートに入る、他の選手にも負けない。――もちろん、背後のさくらさんにも!

 まだまだ彼女の気配は強い。少しでも気を抜いたら終わってしまう。必死で逃げて――いよいよ、最後の直線だ。


 あと少し、もう少し! まだ大丈夫。苦しくない。いつものフォームで最後まで。

 ゴールラインと時計が見えた。でも、油断しちゃいけない。わたしがあきらめないのと同じで、彼女もきっと、あきらめてない。必死で追いすがってきてるはず。

 脚がもつれそうだけど。耐えるんだ、わたし!

 あと数十mもない。でも、彼女の気配が、強くなって。視界の端に見えてしまった。

 もう一歩、もう一歩でいいから。わたしの力を出し切るんだ!

 ありったけで踏み込んだそのとき、


 ――ふわり。


 背中に、羽が生えた。もちろん錯覚だけど、それくらい軽く感じて。身体がビュンと突き進んで。なんだか笑いそうになった。


 陸上が楽しいって、こういうことなのかな。


 一歩ごとにゴールラインが近づいてくる。

 それを越えたとき、きみの背中は、見えなかった。


 ……勝った。勝ったんだ、わたしは。

 視界がぼやっとして、気がつけば地面に倒れ込んでいた。暑いはずのトラックが、なんともない。

 身体はたぶん大丈夫。出し切って疲れただけ……だと、思うけど。わかんない。まだふらっふらする。

 あっ、だけど、後続の邪魔になったらいけないな。はいはいするみたいに、手をついてトラックから出たところで。


「まーきちゃーーーんっ!!」

「ふぎゃっ」

「おめでとう、おめでとうねぇ……!」


 重い。急に衝撃がきた。背後から覆いかぶさられたんだと思う、たぶん。

 文句を言いたいけど、その代わりに――


「こちらこそありがとう。きみの力があったから、ここまでがんばれたんだよ」


 顔が見られないぶんだけ、ゆっくりはっきりと伝えた。


「よかった……! わたし、とってもうれしいよ。悔しいけど、悔しくない。出し切ったから。それにね――」


 荒い息のあとに。


「途中で牧ちゃんの顔見たよ。すっごく、楽しそうだった。それがね、ほんっとうにうれしくて。おっきくなったなあって……!」


 言いながらようやく離してくれた彼女は、泣きながらぱあっと笑っていた。どこかすがすがしく見える。泣き顔まできれいなんだなあ。


 ハンカチさえ手元にないから、しばらく彼女の涙を見ていたけど。心臓のばくばくが少しだけましになってきて。

 ――そうだ、今言わなきゃいけないことがある。


「さくらさん、」

「なーに?」

「……やっと、きみに勝てた。きみのライバルになれた」


 だめだ。わたしも、泣いちゃう。目頭がきゅーっと熱くなる。


「うん。牧ちゃんは、あたしの友達で、ライバル」

「認められた――あれ、友達って言っても大丈夫かな……」


 勝てた瞬間に友達を名乗り出すの、失礼なんじゃ。そう言ったら、やわらかく諭された。


「あのね、友達かどうかは、自分で判断していいんじゃないかな。私は牧ちゃんのこと友達だと思ってるし、逆も同じだよ。牧ちゃんがあたしを友達だと思えるときがきたら、それが真実になるの」


「そっか、それでいいんだ。……でも、さくらさんのことを友達だって言う資格、わたしにはまだない気がする。今頭が回ってないだけかもしれないけど、胸を張って言えるようになったら、呼ぶから」


 ……ごめんなさい。それまで待ってて。ぐちゃぐちゃな思考で言い終えた。


「気にしない気にしない。待ってるからね」

「……ありがと」


 そのまま、ふたり黙りそうになって。


「入賞者はインタビューがあります。質へ向かうように!」

「あっ、すみません!」


 たくさんの感情を抱えたまま、スタッフさんに誘導されてフィールドを出よう、としたところで。

 ――そうだ、見てなかったけど。ぎりぎりで思い出して、背後を振り返る。

 大きな電光掲示板。『5 コマキ アヤメ』と、『6 マルモリ サクラ』がかすかに見えた。


「牧ちゃんせんぱーい!!!」


 そんな声が観客席から聞こえた気がして。最後に、小さく手を振った。



 ☆



 インタビューでなにを言ったか、ほとんど記憶がない。とにかくわーっとなったまま、落ち着いて話せなかった気がするけど。

 ひとつだけ、はっきり覚えている。


「高校最終学年、この大舞台にして初めての全国入賞。今、どんなお気持ちですか」

「あのっ。一緒に入賞したさくらさん……丸森さくらさんは、同じ高校の同級生なんですけど。大会だけじゃなくて、練習ですら勝てたことがなくて。あの人に勝って隣に立つことがずっと目標でした。それがインターハイという大きな大会でできて、入賞までして……本当に嬉しいです。これまでも、これからも、さくらさんのことを尊敬しています!」


 あとで両親とか知り合いに相当いじられたけど、後悔はしていない。……恥ずかしいかどうかは、別の話。

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