4.きみを追い続けた4年間。
いつだってスランプは突然だ。わかっている。
だとしても、よりによって今だなんて! ただでさえ、彼女とは差がありすぎるのに。
おかしいと思ったのは、インターハイ地区予選の翌日だった。大会明けで練習は軽めだったけど、それでもわかるくらいタイムが伸びない。息が続かない。いつもと同じペースで1500mを走ろうとしても、残り1周くらいで急にがくんとくる。
たしかに地区大会も思ったほどの記録じゃなかったけど。問題なく県大会へは進めるわけで。直接の原因ではない気がして。
じゃあなんだろう、って考えると、思い浮かぶのはやっぱり、さくらさんの顔。今のままじゃ近づけないという気持ちは、日に日に強くなっている。どうしようもない手詰まり感。
家のベッドにごろり転がって考える。いつもなら寝てる時間だけど、眠くはない。
生活リズムなんて、今日はもう、どうでもよかった。スランプを脱して、あの人に近づく方法。それを見つけるまで眠れそうにない。
……やっぱり、なにかを極めるしかないのかな。
さくらさんになくて、わたしにありそうなもの。それを見つけて、徹底的にやるしか。
そんなもの、どこにあるんだ。ふかふかの枕に後頭部を埋めながら、探して、探し続けて。
身体能力ではたぶん勝てない。フォームはきっと、あの人にとっては理想だろうし。わたしも、自分のフォームに不満はない。今から付け焼刃でいじったところで。生活習慣。彼女もちゃんとしている。練習の負荷。お互い、これ以上は上げられない。そもそも監督が許さない。
一つひとつ論理で消し続けて、最後に残ったのは――頭を使うこと、なんだと思う。さくらさんは感覚派だ。本人も言っていた。
それはもちろん、考えずにやっているのとイコールじゃない。反省と対策を積み重ね、その過程を記録したり。いろんな人の意見を聞いて試してみて、合いそうと思ったものだけ取り入れたり。そういう学習を、彼女は自然にやっている。ずっとそばで見てきたから、わかってはいるけれど。
それでも、わたしのほうが技術や理論的な部分を組み込んでやっている。レースで戦略的に立ち回ろうとしている。
見つけた。これを、もっと徹底しよう。
たとえ唯一の武器だとしても、磨きに磨いたら、きっと。
鬼になるって前に決意した。本当にできてはいなかった。でも、これからは違う。
わたしは、理論と頭脳の鬼になる。
明日はちょっと遠出しよう。この辺で一番大きな本屋に行けば、まだ出会ってないスポーツ関連の技術書があるかもしれない。きっとある。楽しみになって、同時に眠気がきた。やっと眠れそう。
――本当にそれでいいの?
頭の中で声がした。さくらさんと監督の混じったような。背筋がぞくっとする。だけど、こんなの幻聴だ。
――なにも言わないで! わたしは、これがいい。
☆
記録会に合同練習に、この季節はとにかく陸上が忙しい。なによりインターハイの予選だ。5月の頭から1ヶ月ちょっとで地区大会、県大会、近畿大会と駆け抜けていくわけだから。
練習でもいろいろ新しいことを試している。食事の摂り方とか、筋トレやストレッチのメニューとか。フォームもそう。だから練習の密度は、今までとは段違いに濃い。
授業だって最終学年、どんどん難しくなる。相変わらず定期テストもある。
全部夢中でこなしていたら、あっという間に月日が過ぎていって――近畿大会まで終わってしまった。すっかり梅雨どきになっても。私はまだ、さくらさんを追い抜けていない。
今年の予選でもとっくに4回,5回とぶつかっている。地区大会の予選から、近畿大会の決勝まで、いろんなところで。
800mと1500m、それに3000m。守備範囲の種目は全部出た。ありったけの機会を使っても、届かなかった。
1500なんか、自己ベスト4秒縮めたのになあ。
私に残されたチャンスは、その1500だけ。800と3000は近畿で散った。さくらさんは1500と3000で全国だ、こんなところでも負けている。
「負けている」じゃなくて「まだ勝てる」って思うほうがいい。やられっぱなしは、やっぱり悔しい。
この気持ちは走りでぶつけたいから、最近はことさらに距離を置き気味だ。前みたいに爆発して彼女を傷つけること、あっちゃいけない。だったら離れていればいい。
――そう、思っていたのにな。
「牧ちゃんの歌たのしみだなー!」
近畿大会が終わって、陸上部でカラオケに来た。お疲れ様会兼、全国出場組(私とさくらさんと、走り高跳びの後輩男子)の壮行会なんだけど。
「今ぐらいはさくらちゃんと遊びなよ! 肩の力抜いてさ!」
「そうですよ先輩。たまには素直になってもいいと思います」
女の子たちのよくわからない配慮で、途中からさくらさんとふたりきりにされた。借りた3部屋のひとつが、わたしたち専用になったということ。自分たちの部屋の人口密度上げてまで……ばかなのかな。
たしかに、本当は仲良くしたい。それをみんなに見抜かれてるのは知ってる。
――だけど今は、インターハイのことだけ見ていたい。勝ちたくてしょうがない。
胸を張って隣に並べるまで、そっと距離を置くんだ。それがきっと、お互いのため。
意見したところで「やーい牧ちゃんの意地っぱり!」みたいにからかわれるのがオチだから、途中で抵抗をやめたけど。純粋に気遣ってくれているのもわかるし。
なにより、さくらさんがあまりに嬉しそうだから。
デンモクって言うんだっけ、曲を選ぶ機械に手を伸ばした。
「ちょっと待ってて」
「うんうん。いくらでも待つよ。あっそうだ、なにか食べ物頼もっ! お金はあたしが出します」
「え、えっ? 自分で払うよ……」
「遠慮しないの。これはあたしからのがんばったで賞だよ! 自己ベ更新も全国行ったのもすごいんだからね?」
「……わかった。ごちそうになります」
頭を下げる。真下を向くくらいまで。お礼は目に見えるように伝えなさいと、お母さんの教えだ。
今日くらいは素直になって……いいん、だろうけどなあ。
「ほんとに、最近みるみるタイム縮めててすごいなって思うよ。えらいね~!」
左手でメニューを渡してきながら、右手でわしゃっとなでるジェスチャー。テーブルを挟んでなかったら、たぶん本当になでてきたはず。
がんばったで賞といい、保育士さんか小学校の先生みたいな言い方だ。しかも様になっている。とびっきりの笑顔なんて、完璧も完璧。
だから私は、まっすぐ言葉を受け取れた。
「うん、私はすごくがんばってる。さくらさんに勝ちたいから……違う、絶対勝つから」
ここに鏡はないけれど。今のわたし、なんだか自然に笑えてる気がする。
ライバル(になりたい)意識なんて、前から隠すつもりなかったけど。ここまで言い切るのははじめてかもしれない。
急に言ったから、さくらさんも一瞬きょとん顔。レアな表情だ。それでも、いつものように、ただ笑ってうんうんうなずいていた。
思ってること全部言っていいよ。顔にそう書いてあるのがわかった。
この際ちゃんと伝えてしまえ。都合よくふたりきりなんだ、
……あとで、こっそりみんなにお礼かな。
「わたしとさくらさんは全然違う。体格も、走りも、考え方も、それからたぶん――持ってる素質の大きさも。さくらさんのほうが絶対大きい」
それでもね、でまだ続ける。言いたいことが滝みたいにあふれて、止まらない。
「それでも、わたしはあきらめたくない。4年前にはじめてさくらさんの走りを見てからずっと、惹かれてて、尊敬してて――追い抜きたいと思ってる。せめて、肩を並べられるくらいには。今のわたしじゃライバルにはなれない」
さくらさんの顔から笑みが引いていった。代わりに浮かんだのは、真剣な表情。くりっと大きい彼女の目に、少しずつ力がこもるのがわかった。
――言いたいことは次で最後だ。
「だからまだ、友達になれない。近づきすぎていたくない。わたしはわたしの、きみはきみのやり方で頑張って――その上でわたしは、きみを超える」
インターハイで待ってて。最高の舞台できみに勝つ。
そこまで言い終わって、大きく息をついた。
「そっか。本気、なんだね」
はっとしたような、覚悟を決めるような。彼女はそんな、見たこともない顔つきで。
ぐっと、空気が引き締まった気がした。
「――あたしもね、絶対負けないよ!」
「やった。そう来ないと」
ファイティングポーズ……というより、威嚇する猫みたい。いつもの明るくて女の子な感じに戻っている。ように見えて。
彼女の声には隠しきれない熱さがあった。間違いなく、純度100%の本音。
それでこそわたしの目標だ。あと1月半、全力で立ち向かっていこう。でも、今は――
「じゃあ、おいしいもの食べて充電だね! あと早く歌も聴きたいな~?」
「……完全に忘れてた。ごめんなさい」
「いいのいいの。ゆっくり選んでてね!」
今は、左手に持ったままだったメニューを見る時間らしい。
そうだ。栄養バランス良くて、とびっきりおいしそうなもの食べよう。自信はないけど、歌も歌おう。あとでみんなも呼び戻そう。
今だけでも、この時間を楽しんでいたいと思えた。
☆
全国大会の始まる前日には現地に入っていた。今年は三重県だ。
まあ、トラック競技だからどこでもそんなに変わらないけど。来年の沖縄みたいな、極端なところじゃなければ。
明日からのメイン競技場が練習会場のひとつになってるから、たくさんの選手で埋まってた。それでも、思ってた以上に緊張しない。さくらさんに勝つことだけを考えていればいい。
とっても強くて、いつも安定してパフォーマンスできる彼女に勝てれば、当然他の人にだって。賑やかで、でもピンと張り詰めた空気の中、わたしは黙々とメニューをこなした。
去年の全国よりもリラックスできていたと思う。早めにベッドへ入って、ぐっすり寝て――インターハイ初日、1500m予選の日がやってきた。泣いても笑っても、ここからが本番だ。
もちろん朝は早い。会場のある運動公園の中を、さくらさんと監督と一緒にジョギングする。ウォーミングアップだ。
その途中、気づいたことがある。びっくりするくらい身体が軽いんだ。身体がゴムにでもなって、ついでに羽まで生えたみたい。すっと身体が前に出て、いつもよりストライドが伸びる。ジョグじゃなくて、全力で走りたいくらい。
しかも、走り続けても肩と腰が重たくならない。いくらでも駆けていけそうな気がした。
どれもこれも、調整がうまくいったんだ。
インターハイみたいな大きい大会にトップコンディションで臨めるように、本番の1ヶ月以上前から練習内容を調整する。いつ身体を休めて、いつ、身体のどの部分に、どんな種類の刺激を入れるか。監督やコーチの先生と相談しながらメニューを決めて、今までこなしてきた。食事もふだん以上に気を配った。
その成果が今、現れてきている。コンディションのピークは、あくまでも決勝のある明日。
決勝に行けたら、わたし、どれくらい軽やかになれるかな。
最高の舞台に、最高の状態できみと戦えそう。隣を走るさくらさんを、少しだけ横目で見る。
「なんだかうれしそうだね、牧ちゃん」
「……気のせいじゃないかな。わたしはいつも通りだけど」
「あたしの勘違いだったか~。ほっぺたゆるゆるだった気がしたけど。うん、気のせい気のせいっ」
絶対気のせいだと思ってない。
今だけはさくらさんに舐められていたいから、調子よさそうなの隠したかったけど。
「でもね、あたしもすっごくうれしいな! またふたりでインターハイ出れるの」
「うん。すごいこと。最初にさくらさんを知ったときは、今こうなってるなんて想像してなかった。いつかこの人を追い抜いてやるとはずっと思ってたけど」
「懐かしいねー。そういえば、牧ちゃんと出会ったのも大会前のアップ中だったよね」
わたしが出会いにいった、のほうが正確だけど。今でも鮮明に覚えている。
小学校のマラソン大会で毎年わりといい順位だったから、『向いてるんじゃない?』って周りに勧められて、なんとなく始めた陸上も、3年目になって。中学2年の夏、はじめて県大会に出たときのことだ。会場も大会の規模も全然違うけど、今と同じように、会場のある運動公園でアップをしていた。
練習からもう、今まで出た大会と場の空気が違う。ピンと張り詰めて、でも熱気があって。それに、軽い運動でもわかる動きのよさ。映像越しじゃわからない発見がたくさんあった。
県大会でこれなら、近畿、全国って世界が広がっていったら、どれほどなんだろう。わたしは呑まれていた。
――でも、周りに気を取られていたからこそ、さくらさんに出会えたんだ。
わたしの背後から抜いていくその背中。第一印象は、「なにあれ」だった。しょうがない。軽い前傾姿勢かまっすぐで、脚を低くしっかり前に出して、スピード感たっぷりに進んでいくのがお手本みたいな走りだけど――彼女の走りは、その真反対だったから。
とにかく、周りから浮いていた。あんなふわふわして推進力なさそうで、スキップみたいな走り。衝撃だった。
もっと衝撃だったのは、その走りが自然体なのがわかったからだ。動きがぎくしゃくしていない。陸上を始めたばかりって感じではない。周りの人と同じようにすごみがある。たぶん、あれが彼女のスタイル。
でも、なにがどうなってあの走りに行き着いたんだ。気になって気になって。自分でも意識しないうちに、身体が彼女を追いかけていた。
「あの、なんでそういう走り方なんですか!」
話しかけるタイミングも、言い方も、どう考えたって非常識。なにも考えてないバカだ。
なのに彼女は――さくらさんは、少し驚いた顔をしただけで、脚を緩めるそぶりさえなかった。
「あたしにはこれが走りやすいんだ。きみもトラック走の子かな? お互いがんばろうね!」
彼女は爽やかな笑顔でそう応えて、道の向こうへふわふわ駆けていった。面白くてすごそうな人だって思うだけで終わったけど。
一番の衝撃は、その日、彼女と1500mの予選でぶつかったことだった。競技前、選手の招集場所で点呼するときにはじめて顔と名前を知って。目が合ったから会釈して。でも、それだけじゃいつか忘れていたかもしれない。
彼女の――さくらさんの存在が刻み込まれたのは、レースに入ってからだった。自分は集団の真ん中あたりをなんとかついて行ったけど、ふと振り返ったら、さくらさんは集団から少し置かれていた。苦しいのかな、だとしたらちょっと期待外れかも。生意気にも、そう思いかけて。全然、苦しそうじゃなかった。すごく楽しそうに、悠々と。マイペースって言葉が浮かんだ。
ああ、前が飛ばしすぎてただけなんだ。そう気づいたのは1分後。苦しくなって下がる選手を、彼女がふわりと抜き去っていったとき。私はそれをうしろで見ていた。彼女のマイペースについていけなかったから。
彼女はそのまま、予選を2位で通過した。
それがわたしと彼女の出会い。あまりにも衝撃で、あこがれて、彼女の進学予定を調べた。有力選手なら、インターネットのどこかに情報が載っていることも多いらしい。ふだんはほぼ連絡にしか使わないスマホで調べたら、あった。県内の公立、虎屋高校。体育科もスポーツ推薦もあるけど、よくて県の中堅止まり。ここなんだとは思ったけど――都合よく、わたしの学区内だ。
3年になって、わたしは虎高の練習会に参加した。
あとで聞いたら、本来なら落ちてたかもしれないとか。熱意をビシビシ感じたから、滑り込みで通したらしいけど。
だとしても、あの人と一緒に陸上ができる。それが決まったときは本当に嬉しくて――その気持ちを抱き続けて、今がある。もともと周りに流されて始めたことだ。陸上をやめずにいられるのは、彼女と出会ったからこそだと思う。
「いろんなことがあったなあ。さくらさんはどうだった? 楽しかった?」
尋ねるわたしは、どうだろう。すぐには応えられない気がする。
練習に打ち込みすぎて重度の肉離れをやったり、部の合宿でロング走してるときにゲリラ豪雨に遭って大変なことになったり、監督からのお菓子一週間分を賭けてタイムトライアルしたり。たしかに楽しいこともあったけど。基本的にはしんどいことの方が多かった、かもしれない。そもそも、陸上が好きかもわからない。
記録会でも大会でも、一向にさくらさんとの差が縮まらなくて、やけくそでまた練習の鬼になりかけたりもした。家に帰ってから、部屋でこっそり泣いたこともあった。それでもやめなかったのは、わたしには陸上しかないから。この選択でよかったのか、今日か明日にでも決まる。
そんな私とは反対に、さくらさんはいつも通り晴れやかだ。
「楽しかったよ! ……って、まだ引退じゃないけどねー。あっでも、トラック走は一区切りか」
「そう。だから、最高の結果を残そうと思う」
それは、改めての宣戦布告で。
「あたしも最後まで最高に楽しく走りきりたいし。かかってこい、牧ちゃん!」
「うん。望むところ」
軽く笑いかけてみる。さくらさんの笑顔と同じくらい、爽やかな風が吹いていた。
「青春してもらってかまわないんだが、スピードは緩めるなよ……」
「す、すみません!」
……そういえば、監督もいたんだった。