3.その熱視線は本来きみの。
学年が上がってもう1ヶ月も経つのに、さくらさんとの差は縮まらない。
「小牧先輩、ラスト1周です!」
タイムトライアルの計測をする声。同じタイミングで同じ距離を走るのに、さくらさんは今、50m以上前にいる。
相変わらず、常識外れのフォームだ。
シューズをしっかり地面につけて、ふわりと跳んで、両足が完全に宙で浮いているのが見える。ハーフアップが空中で流れていく。推進力なんて、大半上へ逃げてしまってるはずなんだけど。歩幅の長さで補っているんだろうか。
もしかしたら、体幹なのかもしれない。あれだけ跳ねるみたいに走っておいて、全然身体が左右にぶれないんだ。大きな背中が真上に跳んで、すーっと遠ざかって、小さくなっていく。そんな風に私からは見える。月面スキップ、って勝手に呼んでる。
メンタルとフォームの安定感は、たぶん彼女の強い武器。
自信のあるスプリントに賭けて、どれだけ縮まるか。自己ベストとの戦いでもあるから、最後まであきらめはしない。あと150m、ギアを上げた。ぽーん、ぽーんとゆったりした走りを、ひたひた走りで追いかける。
トラックから少し離れたところで目を光らせる、スカウトの人たちが視界に入る。だけど、気にしない。いつものことだし、自分ができることをするだけ。少しでも彼女に近づくだけ。
それに、あの人たちのお目当ては――と、思ったけど。意外なくらい、私にも視線が注がれている。表情までは見えないし、見てる場合じゃない。それでも、走りが乱れるには充分だった。
かかとを思ったより手前につきすぎて、つんのめりそうになる。ふわり。いやな浮遊感。
なんとか体勢は立て直したけど、まずいな、1秒はロスした。
――その視線は彼女が得るもので。うれしいけど、なんでわたしに。
謙遜じゃなくよぎる気持ちは、風に流されて消えてしまえ。少しでも速く、前に、脚を踏み出す。
向かい風が冷たい。インターハイに向けて練習メニューもきつくなってきて、首が上がりそうになる。少しでも気を抜くとリズムが乱れそう。それでも脚を、限界まで速く動かした。体格のちびっこい私には、脚の回転力を生かすピッチ走法しか選択肢がない。
たったったったっ。砂を跳ね飛ばして、ほてる身体を駆動させる。コーナーでもできるだけスピードを落とさない。それが得意なのはピッチ走法の強みだ。
――文字通り全力を出しても、さくらさんの背中が大きくならない。彼女はずっと同じペースで走っているのに、私の精一杯でようやく瞬間的に上回れるかな、くらい。
少しだけ距離が縮まった、と思ったところがゴールだった。
「小牧先輩、4分37秒29!」
1500mの自己ベストより7秒も遅い。ただでさえ全国行けるか微妙な持ち時計なのに。
自分の走り、一度ちゃんと分析し直さなきゃなあ。
へとへとの身体で運動場の入り口まで戻って、階段に腰かけた。休憩時間だ。ほてった身体にスポーツドリンクが染み渡る。
「疲れたねぇ~……もうすぐインターハイ地区予選だから当然だけど、にしても急に練習量増えた気がするよ」
タオルで汗を拭っていると、さくらさんが隣へ座ってきた。言葉とは裏腹にけろっとしているような。
合宿のあと、彼女は今まで以上に話しかけてくるようになった。あの夜のことは別に気にしてないし、変に気まずくなるよりはいいんだけど。つかず離れずの距離でいる、って目標は守りたい。
……まあ、返事はする。
「さくらさんたち、期待されてるから。最後の夏で監督も気合い入ってるんじゃない」
「もうっ、去年の全国出た人がなーに言ってるのさ。ぐりぐり」
「ちょっと、ねえ! 痛いから!」
「ごめんごめん。けどね、牧ちゃんはすっごく速いんだよ? おっきな大会でも上位狙えるくらい。そこは自信持っていいと思う」
胸にこぶしを当てて、彼女はいつも通りほがらかに笑う。そこに含みはないはずなのに。顔がこわばるのを、抑えられなかったかもしれない。
だって、それは――
「隣にきみがいるのに、自信持てるわけがないじゃない!」
意識なんてしないで、自信持って突き進むには、あまりにも大きすぎる背中。初めて彼女の走りを見たときからずっと、そんな存在だった。
一瞬目を見開いたさくらさん。振り向く同じ部の人たち。
子どもみたいなことをしたなと、いまさら後悔した。
「……ごめんなさい。今のは当てつけだった」
「だいじょうぶだからね」
あんな言葉かけられたのに。私の肩をそっとたたきながらのささやきは、彼女自身というより私を指してのように聞こえた。
合宿の夜を思い出したし、彼女もきっとそう。だからこそ、事を荒立てないようにしてくれてるんだろうな。あのときとは違って、ここには大勢人がいる。
情けないな。彼女の優しさでむしろ身もだえしそう。せっかく冷めてきた身体が熱くなって、火でも噴きそうだ。
それでも、全部隠す努力をする。
「ありがとう」
軽く頭を下げて笑いかけた。
くちびるはやっぱり、震えたけど。迷惑かけないって心に決めたのになあ。
本心はわからないけど、さくらさんはなんでもなさそうに話を始めた。
「やっぱりね、牧ちゃんはすごいよ。あたしはそう思ってる。いろんな人を観察して、いろんな本とか読んで研究してるでしょ? あたしも多少はやってるけど、とりあえず走ってみてから考えるほうだし」
「……うん。世界広げようとはしてる」
がむしゃらに練習量を積むだけじゃうまくいかない……どころか身体に毒なのは、心底思い知ったから。
「世界を広げるだけ広げて、その中から何が合ってそうか試して選び取る。繰り返すうちに、自分なりのやり方に近づく。そういうところ見られてたならうれしい」
「だって牧ちゃん好きだもん! いっぱい違うとこあるけど、大事なライバルで友達だよ」
「ひ、人前でそんな」
「陸部ならみーんな知ってるからいいの! それに恥ずかしいことじゃないし。ねっ?」
「……」
いやじゃないけど、うまく言えない。わたしはライバルになれてないでも大事なのは嬉しあのそのええと。結局、黙ってうなずくことにした。
部の人たちまで妙に温かい目でうなずいていて、こっぱずかしい。そんな親みたいな気持ちで見られてたんだろうか。
……というか、今思い出したけど。
「スカウトさんいる前でやめてよ。その、わたしも悪かったから……うん」
頬が熱い。感情で動いて、周り見てなくて、というのを最初にやらかしたのは自分だ。
スカウトさんたちは階段の離れた場所にいるけど、聞こえる距離だ。そっちを見ることなんてできそうになかった。年相応だと思われただろうか。雰囲気が悪いと感じた人もいたかもしれない。
部活の印象に泥を塗りたくはない、けど。やってしまったのは事実で。
「気にしてカチコチになるのもよくないから、いつも通りGO! インターハイ! しようね~」
「うん。最終目標はそこだから、がんばろうね」
天高く人差し指を掲げるさくらさんに、やわらかい光が差していた。
私にも光が当たるように、今の何倍も努力をしなきゃいけない。
「駅伝忘れんなー! 長距離組はそっちが本番まであるぞ!」
「マラソンもね!」
「……うわ。本当だ」
同学年の短距離メンバーからヤジが飛んで、はじめて気づいた。
そっか、ロードレースもあったな……。特に駅伝のことは考えたくなかったけど。
思い出したくもない、去年の高校駅伝の県予選のこと。インターハイ全国出場って結果を一応残したあとなのに、チーム内で抜けて区間順位悪くて足引っ張りすぎた、あのときのこと。
インターハイ関連が終わったら、考えなきゃいけないな。
――でも、今は。
「休憩終わるぞ! 切り替えろ!」
トラックの向こう側で、監督が声を張り上げている。
最後にもうひと口、スポーツドリンクを飲み込んで。ひんやりした、すっと身体に溶けていく甘さとお別れして。
「はい!」
誰よりも早く、トラックへ駆け出した。
☆
「小牧、今日の後半はいい走りだったぞ。のびのびしていて、な」
練習が終わって運動場を出ようとしたとき、横から話しかけられた。そのまま並んで歩き出す。
藤澤先生。世界史の先生で、陸上部の監督で、長距離担当。相変わらず、威厳のある声だ。顔も、黙っていれば威圧感あるんだけど。『練習と大会では監督、それ以外は先生と呼べ』を守りさえすれば、優しくて楽しい、頼りになる監督だ。
「ありがとうございます。お前の走りは硬いって、いつも言ってますもんね」
「別にぎこちないとか、筋肉が硬いとか、そういう話じゃないんだけどさぁ……なんというか、気持ち的な……」
「……丸森さんにも似たようなこと言われました」
隣を見れば、おどけたような、困ったような顔があるんだろう。すり減った石の階段に目が向いてしまう。さくらさんの言葉がまだ、心の奥で引っかかっている。
「あいつ、やっぱりいい目しとるよな。コーチになってほしいくらいだよ」
「監督の言葉とは思えないですけど。送り出してあげてくださいよ、あの子の将来」
もちろん軽口だ。通じる人なのは、わかっている。
「いつかに決まってるだろ、いつか。まずはあいつも、お前も、もちろん陸部全体としても、今後しっかり経験を積めるように育てていかないとな」
それは俺たちの役目だ、と右手でガッツポーズを作る先生。こういうところがみんなに好かれる理由なんだろうな。
元気で上機嫌そうな所に、要望をぶつけてみる。
「あの、先生」
「なんだ?『IH予選も近いですし、私の練習メニュー、もう少し増やしてもいいと思います』とかなら却下するが」
「……なんでもないです」
図星だった。もう何もかも分かられてるのかもしれない。
ペース走の距離、あと1kmか2kmくらい伸ばしても平気だと思ったんだけど。今の私はたぶん、速いペースの持久力が足りていないと思うから。目標タイムを設定して、できるだけ一定の速さで走るペース走は、もっと増やしたい。身体をいたわれる範囲で負荷を強くしたい。
彼女のペースに、ついて行きたいんだ。
「あのなあ、小牧」
先生は、それもわかってると言いたげに苦笑した。
「今足りないのはどこか、なにをどう伸ばすか、身体に無理のないようにだとか、本番にトップコンディションで持っていけるような調整だとか、そういうのを考えて個別にメニュー組んでるわけだよ。コーチやマネージャーとも協力してな。少しくらいは俺たちを信頼してくれ」
「……ごめんなさい」
命令で、お願いで、優しく諭す言葉だった。もっと強く叱られてもおかしくないのに。
先生たちの努力には今までも触れてきた。それでいてわがままをぶつけた私が悪い。自分のことしか考えてない。身体を気にかけるという意味では、自分のことすら考えられてないのかもしれないけど。
「気にするなって」
頭を下げようとしたら、やんわり止められた。
「楽しくやれるのが一番! いつも言ってるだろう。だが、一生懸命なのもいいことだ。ほら、飴ちゃんあげよう」
先生は、頭の天然パーマから……と見せかけて、斜めがけのランニングポーチを開け、飴をひと粒取り出した。ごつごつした手で差し出される。
ミルクティー味らしい。包装には「ストレスの低減をサポート」と書いてあった。意図を感じる。
「ありがとうございます、大阪のおっちゃん」
「お前もその呼び方するんか……当方まだ30代だぞ」
「39は実質40代です。飴ちゃん、今なめてもいいですか」
「もちろん。というかふだんそんなこと聞かんだろうが」
さっと包装を破いて、口に入れる。印象よりは濃くなくて、甘いミルク味がじんわり染みてくる。紅茶のすーっと軽やかな香りも。
舌で転がしながら歩いていると、心と肩が軽くなってきたような気がする。
うまいこと操られているな、とは思うけど、まあいいか。それが監督の、先生の役目だろうし。感謝は当然ある。
「いい顔してるぞ。そんな感じでいこうな! じゃ、また明日!」
「お世話になりました!」
先生が校舎のほうへ去っていく。先生の方がよっぽどというくらい、いい顔だったから。スカウトさんのことは聞けなかった。
あまり気にしてもいられないけど。彼女とインターハイのことを、まっすぐに見つめていなきゃ。練習を続けるだけじゃきっと足りない。他に必要なものがある。なにかが。
正体がまだ、わからない。
……まあ、たまには甘いものでも食べる時間、ありかな。