9.きみの背中を見せないで。
3日1日。高校の卒業式は、全国的にこの日が多いらしい。
3年間、陸上ひと筋で駆けてきたとはいっても、それ以外の思い出もある。友達だって少しはいる。振り返ろうと思えば中身はあるけれど。とうてい、気分じゃなかった。
体育館への入場も、感動的な送辞と答辞も、「旅立ちの日に」も。教室に戻ったあと、担任の先生の言葉も。寄せ書きの時間だって。
全部全部、どこか他人事みたいに過ぎていった。少しも泣かなくて、冷たいなーとか言われたけど。
ごめんなさい。思うところはちゃんとあるんだよ。今は上の空にしかなれないだけで。
☆
ふたつの校舎の間にある、小さな和風の中庭。そこで待ち合わせね。終礼の前、彼女は言った。
きっと誰も見ない。いつもひそやかで静かな場所。ロータリーとか正門前じゃなくて、ここにしたのは正しいと思う。
もうすぐ春なのに、どんより曇って、寒い日だった。冷たい風で、胸の卒業リボンが震える。卒業式より緊張しているかも。
背筋をピンとして、彼女が来るのを待つ。
たくさんの松の木が、わたしと一緒にたたずんでいた。
「おまたせしました~!」
「大丈夫、そんなに待ってない」
5分も経たないうちに。名前と同じ色のマフラーをはためかせ、さくらさんはやってきた。
かばんを背負って、アルバムとかの入った紙袋を提げていても、おかまいなしの軽い足取り。
この2か月近く、言いたいことはたくさんあった。ずっと溜め込んでいた。
やっと、わたしの不安に答えをくれる。
心配いらない、きっとこれからもライバルだ。強く信じて、彼女が話すのを待った。
「ちゃんとお話ししてきた? お母さんは? 陸部のみんなは? 藤沢先生は? あと、どれくらい時間取れそうかな」
怒涛の勢いで心配してくる。
気が抜けそうだった。相変わらず世話焼きだなあ。
「言われなくてもひと通り話してきた。お母さんはママ友の人たちとお昼食べに行くらしいから、気にしなくていい」
「りょーかい! じゃあ、ゆっくり話せるね」
とろんとした目が軽く吊り上がる。きっと、まじめな話をするよ、のサイン。
「彩ちゃんに隠してたことがあります。きっと、びっくりさせちゃいます」
びっくり。どういう方向のびっくりなんだ。
いくつか想像はしてきた。大学を挟んでからプロを目指す。プロにはならずに、市民ランナーとして続ける。スカウトを断って進学するんだとしたら、選択肢はどちらかひとつ。きっとそう。
信じるしかなかった。
ほかにひとつ、最悪の想像がある。それだけは見たくないくらいの。
頭から追い出そうとすればするほど、こびりついて離れない、想像が。
そうじゃないと信じさせてほしい。んなわけないよと、笑ってほしい。
祈るように彼女を見た。
白い息といっしょに、言葉が、届く。
「わたしね――」
「高校で、陸上選手やめるんだ」
静かな声。小さな中庭に響いた。
そうなんだ。一瞬、言いかける。あまりにもはっきり聞こえたから、納得しそうになって。
時間差で耳を疑った。
どういうこと。やめて、どうするの。他にしたいことでもあるの。わたしがきみに並ぼうとする限り、ずっと友達でいてくれると思ってた。
そんなのありえない。全然わからない。きみのことも、今なにを言えばいいのかも。沸騰しそうな頭。目の奥で上がってきそうなもの。どうにかこらえて、口を開いて、
「なんで」
言えたのは、それだけだった。
わたしの全部をのみ込むように、彼女は一度、大きくうなずいた。余裕でいられるの、どうして。
「あたしね、先生になる。中学校かな。子どもたちが成長するお手伝いをするの。それでね、陸上部の監督か顧問にもなりたい。これからは先生として、陸上に、長距離に関わろうかなって」
「そうなんだ。すごくいい夢」
嘘じゃない。嘘じゃない、けど。
「きっかけはね、春の合宿」
「……もしかして、地域の子たちと交流したとき?」
「そうそう。人に教えたり、それぞれの得意なことをいっしょに探して伸ばしていくの、好きだなって気づいたの。一方的に伝えるんじゃなくて、お互いに影響しあえるような関係を築くのが目標です」
迷いなく言いきる彼女は、いつも以上に大きく見えた。
たしかな目標がある。次へ走り出している。
わたしはこのまま、置いていかれるんだろうか。
「さくらさんならきっとなれる」
声は、ぐちゃぐちゃに震えていた。自分でも驚くくらいに。崩れる寸前のそれも、どうか、許してほしい。
だってきみなら――アスリートとして活躍するほうが、きっと簡単なんだよ?
優秀な選手が優秀な指導者になれるとは限らない。だったら、なんて、言えないけれど。彼女の邪魔だけはしないけど。
納得しようとは、少しも思えなかった。
「いいよ、言いたいこと言って。悲しませるのはわかってた。だから監督とかクラスメイトまで巻き込んで、ぎりぎりまで秘密にしてたんだけど。隠さないほうが、よかったかな」
気遣われている。いっそ、憐れみに近いくらい。
優しいトーンだけど、彼女はまだ、いつもの笑顔。
そうやって表面だけでも笑えたら、迷惑かけずに済んだのに。
「変わらない。どっちでもいい。だって――」
言いたいこと言って、か。
許容範囲なんて知らない。今はちょっと、その言葉に甘えさせて。
全部、吐き出させて!
声より先に、涙が出た。
「ぜんっぜん、わからないもん!」
体が動く。彼女に近づく。いつのまにか、制服のえり首をつかんでいた。ワックスが効いていそうだから、あまり崩さないように。そうできるだけの理性は残っていたらしい。
息がかかりそうな距離。彼女は、振りほどこうとはしない。
「きみはね、本当にすごい長距離選手なの。自覚あるでしょ? じゃないとおかしい。コーチとか先生なんて、選手やりきってからでも遅くないよ! というか、普通そう。セカンドキャリア。――ねぇ、どうして才能棒に振るの!? もったいないよ! きみの走り方、アスリートとは思えないくらいふわふわだけど……んぐっ、すきだよ。楽しそうで。しかもすっごく速いし。ぐすっ、なんで、なんでっ……!」
涙が止まらない。視界がにじんでいく。胸にすがりつくみたいな姿勢になった。
全部、勝手な本音だけど。
「やっと、やっとなんだよ。走るの楽しいって、純粋に思えたの。自分だけじゃなくて部のみんなで陸上してるんだって気づけたのも、きみのおかげ」
溜め込んだ気持ちはいくつもあるけれど。
「だからね――」
ぐしゃぐしゃの顔で見上げて、言いたかったのは。
「ねぇ、置いていかないでよ。この4年間、きみを。きみだけを追いかけてたんだよ……!」
結局、それでしかなかった。
「うっ、んぐっ」
「うん、うん。そう、だったんだ」
「いやなの……! わたしまた、空っぽになっちゃう」
『陸上を、好きでいてね』
あれは、そういうことだったんだ。あたしがいなくても空っぽにならないでね、って。違う形でやりがいを見つけてねって。
2か月も前から、彼女は忠告をくれていた。なのにわたしは。きみだけを。
ぽんぽーん。背中をやさしくたたかれても。
泣きやめなくて、息はしづらいまま。
しばらくそうしていた。落ち着きはしないけど、ハンカチで顔を拭く。
視界は晴れた。なのにまた、うつむいてしまって。赤いマフラーに顔がうずまる。
そんなだったから。
「ねえ牧ちゃん――あたし、すっごくうれしい」
彼女の動きに、気づけなかった。
「……えっ」
「これは、ちゃんと、友愛のハグだからね」
最初、片腕だけ――たぶん左腕――が伸びてきて。わたしの背中を引き寄せて。
少しして、もう片腕の感触も。ゆっくりと、あくまで優しく、彼女はわたしを胸に抱いた。
体格の違いと、わたしの縮こまった姿勢で、頭上に彼女のあごが乗る。全身が体温で包まれた。熱くて、熱すぎなくて、あったかい。
緊張もすぐ溶かされてしまう。ぽつり、言葉が降ってきた。
「あたしもね、牧ちゃんのおかげで変われたんだよ」
どこがなんて、言わない。
「たぶん牧ちゃんのこと舐めてたし、いつでも笑顔で穏やかにしてることが一番だと思ってたの。でもね、牧ちゃんに負けたとき、すっごく悔しかった。余裕なふりしてないで、好きなことは全力でがんばろうって、いやなときはいや、悔しいときは悔しいって言えばいい。そう思えたんだよ」
衝撃はあまりない。ライバルと思われてない気はした。
でも、ここまで素直に明かしてくれるのは、たしかに、変わったんだと思う。
彼女は今、どんな顔なんだろう。
「そうなんだ」
「うん。だから、あたしはこれからもがんばれる。まっすぐに進める。牧ちゃんもそうだといいな」
そうっと腕がほどかれていく。また、寒くなる。
彼女は腕をうしろで組んで、小首かしげて、また笑った。にぱっ、と幻聴がきこえた。
吹っ切れたみたいな晴れやかさが、なんだかとても儚く見えた。
「そろそろ、お別れだね」
「待ってよ。一生の別れみたいに言わないで。通話アプリで連絡取れるのに」
友達になるずっと前から、一応『友だち』にはなっていた。一度もそれで連絡とってなかったけど、今はそれが頼みの綱だ。
「それも消すつもりなんだ。ごめんね。新しいところに行くには、踏ん切りつけなきゃって思って」
頼みの綱、だったのに。
でも、彼女の覚悟は痛いほど伝わって。口から出たのは、反論じゃなかった。
「ねえ、さみしいよ」
「わたしもだよ。でも、さみしくなって、高校までの友達に甘えすぎたらいけないから。新しい場所に行くのはみんなおんなじだよ。負担はかけたくないし、あたしもできるところまでは自分の力で進みたいんだ」
「……わかった。応援する。納得はまだ、できないけど」
「だいじょーぶ。離れていても、友達は友達だよっ。それに、陸上にかかわるのは一緒でしょ? やり方が違うだけで。続けてたら、またどこかで出会えるよ」
「まあ、たしかに。それが大舞台だといい」
不可能ではない気がした。だから、どうにか笑ってられた。
「だね! ……じゃあ、またね。ばいばい!」
子どもみたいな言い方で、まぶたをぎゅっと閉じて。さくらさんは会心の笑顔。少なくとも当分、下手すれば一生、見られなくなる笑顔。
くるりと回転して、落ちていた紙袋を拾うと、彼女は軽やかな足取りで出ていく。どんどん、遠くなっていく。
背中が小さくなっていく。お別れなんだって、実感する。
――なんで、なんでなんで。
止まった涙がまたあふれた。一瞬で視界がぐずぐずだ。
なんで、最後まで笑ってたの。彼女も友達と思ってくれていた。わたしから影響を受けてもいた。それは理解した。純粋にうれしい。
でも。だとしたら。
わたしは、こんなにかなしいのに!
立ってるのもしんどい。座り込むのはいや。彼女がまだ、視界にいるから。
声を出そうとした。のどに詰まって出なかった。だけどほんとは、叫びたいことがあったんだ。
――なんで置いてくの。一緒に陸上続けたいよ!
――去ってく背中なんて、見せないでよ!
ただのわがままだ。言ってもなにも変わらない、お互い悲しむだけの、わがまま。
だけど、そう思うのが止められない。止められなかったけど。結局、さくらさんが中庭から渡り廊下に出て、その向こうへ消える瞬間まで、目を背けることはできなかった。
私以外いなくなったこの場所で、何分経ったか、わかんないくらい泣いたから。ハンカチがふたつ、ぐしゃぐしゃになった。
通話アプリに「さくら」の名前はもう、なかった。




