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恋する男の間違った恩返し

作者: 芹川 雛

 惚れやすいとは、罪なのでしょうか。

男は、自身が十一の頃から、己の心に問い続けてきた。自分以外の誰にこのような問いをすべきか、男には解らなかったからだ。

 消しゴム一つを拾われた。転んだときに手を差し伸べてくれた。教科書を忘れたときに机を寄せて見せてくれた。

 こんな優しい行為に、好意を抱けぬわけがない。男は、誰もが当たり前だと言う優しさを当たり前とは思えなかった。


 じゃばじゃば、男はハンカチを咥えながら手を洗っていた。校庭の脇に置かれた蛇口を使い、汗と泥で汚れた手を、腕を、洗い流していた。

「か、花壇の掃除、やっと終わった」

 夏の夕日が、じわじわと男の肌を焼く。他の生徒など、とうに帰ったというのに、男がこんな仕事を何故しているのか。答えは単純で、惚れた女に頼まれ、男が二つ返事で快諾したからだ。

「あの子は、俺が体育の後で疲れているときに“大丈夫”と声を掛けてくれたんだ。このくらいはしなければ・・・」

 汚れが落ち、さっぱりしたところで、蛇口を閉め、ハンカチを取ろうとしたときだった。手を滑らせ、するり、と排水溝のグレーチングを抜け、ぽちゃん、下に溜まった汚水の元へ落ちた。男は思わず、あっあっ、と情けない声を上げた。グレーチングは重く、非力な男の力では持ち上がらず、汚水まで手が届くわけもない。

 男は仕方ないと、泥だらけの服でぬぐおうとした。すると「そんなとこで拭ったら、また汚れちゃうよ」と、女性の声が聞こえた。振り返るとそこには、明らかに部活終わりの女生徒が居た。

 驚いた男は、誰だと聞こうとしたが、名乗ってもいないのに失礼だと留まり、「他に拭う物がないんだ」とうつむいた。

「ハンカチもないの?」

「ハンカチはこの下に行ってしまって」

 男は排水溝を指差した。女は、ありゃりゃ、と聞いて悪かったと言わんばかりの苦笑いを浮かべた。

 とほほ、小さく嘆く男に、女は大きなバスタオルを覆い被せた。

「服も泥だらけじゃあ、ハンカチ一枚じゃ足りないよね」

 男はきょとんとした。大きなタオルを彼女が持っていたことより、彼女がタオルを貸してくれたことに対してだ。

「・・・何故です?」

「あぁ、私は水泳部だから、バスタオルを持ってるんだよ」

「そこじゃなくて」

「じゃあ、どこに対しての疑問?」

 男はタオルをぎゅっと握りながら、尋ねた。

「何故、助けてくれたのか。それが聞きたい」

 女はくすっと鼻で笑った。

「困ってる人を助ける。当たり前のことだよ」

 男は、その言葉に弱かった。

 見返りを求めない優しさ。善行を当然だと、そう言い切る心の強さ。そんな強い女性を前に、男は今日またも顔を赤くした。

「そ、そう・・・ですか」

 ばしゃばしゃ、男は服を洗いながら、火照った身体を冷ました。濡れた服と、肌を、バスタオルで拭っていると、女は「じゃあ、私は帰るね。それは返さなくてもいいよ」と、足早に去って行った。流石にそれは、と言う頃には、女は校門を抜けていた。

「ありがとうを、言いそびれた・・・」と、男は再び蛇口を閉めながら、後悔するのだった。


 ぐぬぬ、男は家に帰るなり、回る洗濯機と張り合うような唸り声を上げた。恋文には何と書いたものか。恩返しも兼ねて、菓子箱ぐらいは届けるべきか。ありがとうは言葉で伝えるべきか、残る文字で伝えるべきか。彼女のバスタオルだけが回る洗濯機を眺めながら、男は男で、頭の中で彼女の言葉をぐるぐると回していた。

「なぁ、俺」

 男は自分に問いかけた。

「なんでお前は、そんな簡単に惚れちまうんだい」

 好きになることが悪いわけじゃない。そりゃあ、人を嫌うより、好くほうが善いことだし、世間からすれば好くことのほうが難しいことだから、凄いことができてるのかなとはときどき思う。

 けど、それは相手をちゃんと知ったうえで芽生える感情であるからこそ、善い行いであると価値がつくのではないかと、ただ一度の優しさで、善行で、抱くべき感情ではないのではないかと、男は自身を否定し続けた。

「暗がりの道で、ようやく灯った火を吹き消すようなものだ。好意を捨てろとは言わん。しかし火が強すぎて、溶けた蝋で火傷するかもしれない。それが怖いんだ」

 男は一人、泣いていた。ぴいぴい、終わりを知らせる洗濯機の前で、うずくまって、しくしくとひゃっくりを交えながら。

 床に就く前、男は地味な便箋に文字を書き連ねた。ほんの一時いっときの優しさから思いを、絞り出すのではなく、溢れ出る気持ちを便箋というバケツに注ぐように。文字で埋まった便箋は、住所と切手のない茶封筒の中に閉じ込めた。

「火傷を怖れていては、一生暗闇だ。痛みながら先へ進むか、暗がりに怯えて立ち止まるか。どちらかしかない」

 慌てて買いに行った菓子箱、乾燥を済ませた彼女のバスタオル、質素な封筒に閉じ込めた恋文、それらを学生鞄とは別の大きなトートバッグに入れ、机に寝かせるように置いた。

「おやすみ。俺の想い」

 そうバッグに告げると、男はぱちんと明かりを消した。


 男はいつも通り教室へと入った。一つ違うとすれば、トートバッグを持っていることぐらいだろう。

他の生徒たちは、男を見るなり近くの友達とひそひそ話を始めた。

 内容など、簡単に聞き取れた。

「あいつ、また女への貢ぎ物を持ってきたみたいだぞ」

「また誰かに惚れたんだろう。一途って言葉を知らないのかね」

「ああやって、すぐに人を好きになるから、本命の子ができないんだろうに」

 男は黙って、席に着いた。密かに目を潤ませながら、表情に出すことをぐっとこらえた。

 否定はしない。全て間違いではないのだ。好きになった人への、恩返しという名の贈り物、他人からすれば貢ぎ物と思って当然だ。“自分が一途である”という証明もできない。なんせ、優しくしてくれた女性を、それだけで好きになってしまうのだ。特定の女性のことが好きと言えないようでは、一途もくそもない。だから、本命というのがどういうものかも、はっきりとは知らないのだ。

 故に否定はしなかった。否定する必要がなかった。それが他人から見た自分なのだと解るからだ。

 ざわつきと冷たい視線の中、男は教科書とノート、筆箱を机に並べ、授業開始のチャイムを黙って待った。


 日の傾いた放課後、男は学生鞄とトートバッグを携え、水泳部の使う更衣室がある体育館裏へと走った。

 この気持ちを一秒でも早く伝えたい。好きとありがとうを、この手紙と言葉で伝えたい。その一心で、端から無い体力を振り絞って駆けた。

 男は、体育館裏へ差し掛かる角で、立ち止まった。更衣室の前で、知っている女性の声と知らない男の声があったからだ。

「どうして、別れるなんて言うの?」

 女性の声は、涙ぐんだ声で聞いた。

「・・・ごめん。俺じゃあ、お前を満たせないだろうから」

 男の声は、悔しさが滲み出たような、唇を噛み締め、絞り出したような声で告げた。

 声の男は、野球帽を深々と被り、角に隠れる男など気にも留めず、走り去って行った。

 スイムバッグを落とし、しくしくと弱々しく泣き崩れる彼女の元へ、男は駆け寄った。無意識だった。放っては置けなかった。だって彼女は、頬を濡らしていた。

「あの・・・これを使ってください」

 男は、トートバッグからバスタオルを取り出し、彼女へ差し出した、女生徒はそのタオルを受け取ると、驚いた表情を少し見せては、「ありがとう、昨日の人。まさかこんな形で返されるなんてね・・・」

 悲しい顔を隠すように、貸すタオルを顔に押し当てると、女生徒はこもった声で尋ねた。

「・・・何しに来たの?これを返す為に?」

 男は少し言いづらそうに、えっと、と言葉を考えたが、思いつかず正直に答えた。

「バスタオルを返す為と、恩返しの菓子箱と、あと・・・恋文を渡すつもりでした」

 トートバッグの中の菓子箱と茶封筒を見せながら、男は申し訳ないと頭を下げた。

 女生徒は、暫く口をつぐんだ後、男の手を掴んではこう言った。

「今は教室、誰もいないから、そこで話すよ」

 男は少しどきりとしたが、黙って手を引かれるがまま、空き教室へと向かった。

 言っていた通り、彼女の教室には誰も居なかった。あるのはグラウンドから聞こえる野球部の声と、みんみんというセミの鳴き声だけだった。

「野球部、頑張ってるね。ケイちゃんも、あの中で、きっと・・・」

 女生徒は窓ガラスに手を当てながら、呟いた。

「ケイちゃんって、もしかしてさっきの?」

 男は女性の背中へ、聞いた。

「・・・高校に入る前からの、長い付き合いでね。幼馴染に近いかな。一年の頃に告白して、今まで楽しくて、幸せだったのに・・・なんでだろうね」

 女生徒は、割り切った風を装い、誰かを小馬鹿にするように笑った。

 きっと、笑ったのは自分に対してだろうと、男はすぐ解った。彼女自身を満たしていた何かが、たった一言によって、流れて行ってしまった。バスタブの栓を抜いてしまったときのように。そんな空っぽな自分への、態度なのだろう。

 男は当然考えた。今の彼女を抱いたものなら、甘い言葉で慰めたものなら、彼女は自分へ振り向いてくれるだろうと。味噌汁やダシの入った器には、もう誰も溶け込めないが、空っぽの器なら、自分にも入れるかもしれないと、何度も頭を過った。

「また、恋人に戻りたいですか?」

 しかし、男にはできなかった。自分が器に入って、彼女の心は少し満たされることだろう。しかし、彼女の器を並々一杯まで満たせるのは、あの男ただ一人だ。

「恋文を渡すつもりの人の台詞じゃあないよ。なんで、そんなこと聞くの?」

 女生徒は振り返ることなく尋ねた。

「惚れた人を助けたいと思うのは、当然です

 ぴしゃり、女生徒によって窓が閉められた。止む喧騒、静かになった教室に、男の声だけが響いた。女生徒はぴくり、と肩を震わせると、涙をこらえるような小さな声で告げた。

「・・・戻りたいよ」

 男は、トートバッグから菓子箱を取り出しては、こう言った。

「俺が全力で、戻します。だから、よりを戻したら、二人で食べてくださいね」

 辛い気持ちでいっぱいだった。自分へ巡ってきた可能性を殺し、他の幸せを生かそうとしているのだ。当然の痛みだった。

 それでも男は、彼女へ、甘い想いのない菓子箱を渡すのだった。


 短いようで、とても長い一日だった。男は寝巻きで、自分の部屋の、自分の椅子に座った。恋文を机の上へ投げ、思い出したくもない女生徒との会話を思い出す。よりを戻すために必要だからと聞いた、彼女とケイという男の過去の惚気話。女が尽くし、男が甘えるという関係だったと知り、浮かぶ構図。全てに嫌気が差した。今すぐにでもこの机をひっくり返してしまいそうな苛立ちがあった。

「俺の、馬鹿・・・。俺の、阿保・・・」

 しかし男は決して行動には起こさなかった。ぽたり、ぽたり、大粒の涙を滲ませながら、恋文の文字を、消しゴムで擦っては消してを繰り返した。じり、じり、涙の跡を消しゴムが撫でれば、歪に破れ、やがて小さな穴になり、もはや誰かに渡せるような手紙ではなくなった。

「なぁ、俺」

 がらがらの声で、男は呟いた。

「どうしてお前は、自分が苦しむ道を知りながら、その道を行くんだ・・・」

 たった一度の善行、たった一言の“当たり前”。その見返りには、菓子箱と、自分の心を磨り潰してまでの奉仕。割に合わないと、損をしているんだぞと、男は自分へ問い掛けた。

 男は破れた恋文を引き出しへしまうと、ノートを一ページ、びりり、と破き取り、机に置いた。

「ありがとう、と言えなかったんだ」

 さらさら、書き直しの利かないボールペンで、切れたノートの一ページに文字を綴る。それは恋文と呼ぶには、あまりにも感情の言葉が多く、好きや愛しているの言葉が無いものだった。

「ありがとうと言えなかったなら、ありがとうと言われるだけの行いで返さなくては、今までの想い全てを嘘にしてしまう」

 ありがとうなら、もう言ってもらえた筈だろう。タオルを返したとき、確かにありがとうと。男の中で、自分が喚く。尽くす理由などないと、泣きじゃくった。

 しかし、男はこう言った。

「当たり前のことをして、感謝されたなら、それは彼女がしてくれたことへの正しい解答でしかない。俺は、彼女が喜んでくれるなら、間違っていてもこの道を歩きたい」

 自分を傷つけず、誰かに感謝されることが正しい道であり最適解。しかし、自分を犠牲にしてまで感謝を求めるのは間違いであり愚行。それを知りながら男は、後者を選んだのだ。一度の優しさに対する、恩返しのためだけに。

 文の最後に句点を付け、男のペンは止まった。完成したのは、いうなれば一つの感謝状だった。紙は小さく、ちんけだが、内容は男の想いが詰まった色濃いものとなった。

 夜も更けた頃、男はあの茶封筒にこのノートを畳んでしまい、学生鞄の中へと入れた。

「頑張れ、明日の想い」

 男は鞄にそう告げると、ぱちんと電気を消した。


 眠たい顔、重たい体、寝不足の男への同情もなく、無慈悲にアラームが鳴り響く。停止ボタンへ手を伸ばし、叩くように押すと、ラックから時計が落下し、男の額にぶつかった。

「ふぐっ」

 目覚めの悪い顔を起こし、時計を拾えば、針は登校時間を数十分は過ぎていた。

 これはまずい、と眠かった顔は一気に青ざめ、男は荷支度は済ませたが、身支度を忘れ、顔も洗わず、寝ぐせまみれの頭で、家を飛び出した。

 いつもの通学路、普段なら同じ学生服の生徒たちがぞろぞろと居るのだが、今この時間には誰もいない。男は一人、寂しい道を早歩きで進んだ。

 すると一人、電柱の陰に立ち尽くす、同じ学生服の男子が居た。道すがら覗けば、そこに居たのは、彼女の元恋人のケイだった。

 覗き見る男に対し、ケイは、なんだ、と男を睨んだ。ケイの手には一枚のカラフルな封筒が握られており、気が付いた男は無視できずに答えた。

「あんたの恋人の、友達なんですけど・・・」

 おずおずと答える男から、ケイは何故か目線を落とした。

「ユイの友達?あぁ、そうか。それで、何の用だ」

 ケイはさっきまでの威圧的な雰囲気を、少し穏やかにし、尋ねた。

 男はケイと目を合わせて、聞いた。

「何故、ユイさんと別れたんですか?」

 途端に、ケイは目を見開いた。動揺で暫く口を開かなかったが、少しして、語りだした。

「ユイは、いつも俺に尽くしてくれた。貧乏なうちのことを考えて、弁当を作って来てくれたり、水泳部をサボってまで、俺の、野球部の応援に来てくれたり、他にも数えきれないほど、尽くされてきた・・・」

 男は、ケイの肩を掴んで、力強く尋ねた。

「幸せな、日常だったんじゃないですか。充実した日々を、二人で送れていたんじゃないですか。それなのに、なんで彼女を切り捨てたんですか」

 ケイは男の手を振り払って叫んだ。

「俺は、ユイになにもしてやれないんだよ。金も無ければ、学力も無くて、器用さも無ければ、人徳も無い。貰うばかりで、与えてやれない。そんな男と一緒に居て、好きになった女に損をしてほしくないんだよ」

 ケイは、涙を一筋だけ流した。

 男は、ケイという一人の男に、心から同情した。好きになった人のために、自分が犠牲になればいい。その気持ちは、男も変わらなかった。

 だからこそ、男は聞いた。

「じゃあ、その手紙は何ですか?」

 反射的にケイは封筒を太ももに隠したが、表面には確かに“ユイへ”と書かれていたのだ。

「まだ、戻りたい気持ちがあるんじゃないですか?」

 くしゃり、握られた封筒にしわが入った。ケイは男を軽く突き飛ばすと、こう言った。

「これ以上、ユイに贅沢を言えるか」

 学校へと走り去るケイを、追っていこうとは思えなかった。何故ならその苦しみも、男には理解できたからだ。


 放課後、男は遅刻した罰として、空き教室で反省文を書いていた。ううん、ううん、と唸りながら、何十も重なった原稿用紙の束を捌いていた。

 偶然にもその教室は、ユイの教室であり、ユイが入ってくることを期待したが、反省文を書き終わっても誰一人として入ってくることはなく、男は小さなため息を吐き、教室を出ようとした。

 すると、どん、と誰かにぶつかってしまった。ぱらぱら、原稿用紙が床に撒き散らされ、その上に一枚のカラフルな封筒が滑り込んだ。

 男がその封筒を見るなり、ぶつかった相手を確かめると、そこにはケイの姿があった。

「何故、ここに来たんです?」

「生徒が空き教室に入ったらいけないのか?」

 ケイは目尻にしわを寄せながら、その可愛らしい封筒を拾った。

「野球部を休んでまで、何故ここに来たのかが知りたいんです」

 今朝と違い、男は気負けすることなくケイを見つめた。

「割り切る為に来た。ユイと中途半端に繋がってるこの関係を、ちゃんと切る為に」

 一つため息を吐いた後、ケイは答えた。彼は本気だった。目も、口からも、彼の覚悟が感じられた。

 そして男を押し退けては、びりびり、とその手紙を細切れに破いたのだ。

「半端な俺も、せめてユイの為にだけは、真っ直ぐな答えを出すって決めたんだ」

 男は、扉の陰を一度覗けば、がらがら、と扉を閉めた。

「その答え、ケイさんは正解だと思いますか?間違いだと思いますか?」

 ケイはその問いに、一切迷うことなく答えた。

「正解だ。これ以外、選択肢が無かったんだ」

 男は、そうですか、と一言呟くと、ケイの眼前に歩み寄り、ぱしん、と彼の頬を叩いた。目を見開き、痛む頬を抑えるケイに男は叫んだ。

「間違いなんですよ。誰かが傷つく選択をした時点で、俺も、ケイさんも、間違ってるんです」

 ケイは赤くなった頬から、男の胸倉をつかむために手を使った。

「誰が傷ついた。ユイは厄介者から解放されたんだ。傷ついてる奴なんていない」

 男は胸倉を掴ませたまま、自分と照らし合わせて、ケイに言った。

「仮にそうでも、ケイさん。あんた自身が傷ついてるじゃないですか」

 思わず手を離すケイの、その手を掴んで、男は続けた。

「互いが幸せになれる方法がありながら、ケイさんは自己犠牲を選んだ。そんな選択で満足できるのは、自分一人だけです。正しい道は、前者だったんですよ」

 ケイは掴まれた手からも、するり、と力が抜け、やがて膝から崩れ落ちた。自分の選択の愚かさ、馬鹿馬鹿しさ、その全てを知った彼は、ぼろぼろと、あの時の彼女と同じような大粒の雫を、目から零した。

「俺は、取り返しのつかないことを、してしまった」

 がらがら、ゆっくりと教室の扉が開く。そこには一人の女生徒が居た。優しくて、恋人想いな、ユイという女生徒が。

「ケイちゃん・・・」

 ユイはケイのもとへ駆け寄ると、涙を流すケイへ、バスタオルを差し出した。

「そんなにいっぱい泣いてたら、ハンカチじゃあ足りないでしょ」

 渡されたタオルをそっと顔に当てると、こもった声で、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返した。

「ごめん、ごめん、ごめんよ・・・」

 ユイはそんなケイの頭を撫でながら、こう言った。

「優しさを貰ったら、“ごめん”じゃなくて、“ありがとう”だよ」

 しゃっくりが混ざった声で、ケイは一言をちゃんと口にした。

「あり・・・がとう・・・」


 日が沈んで行き、下校時刻が迫る中、泣き止んだケイを起こし、男は言った。

「手紙はもう無い。想いを伝えるなら、言葉以外はないですよ」

 立ち上がったケイは、腫れた目を擦りながら、大きく口を開いた。

「まだ、ユイのことが好きだ。だから、もう一度付き合ってくれ」

 ユイは差し伸べられた手をぎゅっと握り、「はい、喜んで」と、目を潤ませながら、微笑んだ。

 男は一枚、手紙を置くと、開きっぱなしの扉から、黙って出て行こうとした。

 その時、後ろから二人の大きな声がした。


「ありがとう」


 男は薄っすら微笑むと、「恩返しですから」と呟き、教室を去った。


 男は、自分の部屋、自分の机で、原稿用紙の束に、文字を書き連ねていた。

「自分のことを、少しだけ好きになれたよ。俺」

 それは、今回のことだけを綴った日記のようで、最後の行には赤いペンでこう書かれていた。


“間違った道が、俺を、二人を救いました。”

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