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どのくらい経ったのか。目を開けると、磨りガラスの先の景色は白んでいた。時計を見上げると、とっくに朝を迎えていた。こんな状況で信じられないが、眠ってしまったようだった。
急に身体が飛び上がり、拘束されていることを思い出した。昨晩の記憶が脳を駆け抜け、息が上がった。アロマキャンドルの火は消えていた。まだ高さに余裕はある。容量が終われば勝手に消えるのだろうか。そんなに使ったことがないし、消えるまで灯していたこともないのでわからなかった。
鼻をつく臭いが部屋のものなのか、それとも部屋に居続けた自分に染み込んだ臭いのなのかもわからなかった。視線を巡らせ、留まったのはガス警報器だった。見張られていたからできなかったが、縛られているのは椅子なので、少しずつ移動はできる。床に無残な傷が増えていくことなんて気にならなかった。
引っ掛かったままの警報器のプラグに接近し、意を決して脛で押し込んだ。身構えたが、警報は鳴らなかった。時間が酷くゆっくり流れるように思えた。無理矢理目線を引き剥がし、キッチンの収納棚をどうにかこじ開けた。しまってあった予備の、なるべく小さな包丁を後ろ手で取り上げ、長いこと四苦八苦した末に手首のタオルを切った。包丁を投げ捨て、転げる勢いで足の拘束も解いた。たまたま警報器が故障しているだけかもしれない。胸を押さえながらガスのゴム管を覗き込んだ。手で触れ、確認した。傷はどこにもなかった。ひとりでに涙が溢れた。暫く声を出さずに泣き続けた。
生きている。熱いシャワーをくぐりながら、私は何度でも噛みしめた。考えてみればおかしかったのだ。いくら恨みがあったとは言え、人をひとり殺すなんて並のエネルギーでは不可能だ。肉体的にも精神的にも相当の負担が掛かるし、自分の人生を棒に振ることになる。苦しめられた相手を殺して自分の居場所までもを殺すというのは、あまりにも理に適っていない。中学生のときから大人の中心に立ってマイクを取るほどに賢いM君が、そんな強引な手段に出るはずがなかった。まして引退まで考えていた彼が、世間に名前を晒す要因を作るなどありえなかった。
しかし、二重人格とは驚いた。いや、あれは私への仕返しの一部だったのかもしれない。デビューする前から、彼はなにをやっても80点を下回らない子供だった。つまり、本気で挑めばいつでも90点を上回る子供だったのだ。現にM君は、やりたかった声優業にチャレンジし、ベテランが舌を巻いたというではないか。聞かされた二重人格の概要が、あまりにも都合がよかったのも怪しい。
出勤用のスーツを着てキッチンに戻った。橋アサミと麻橋真也。よくできた話ではあった。だが殺人被害者とその子供でネタ作りなど、からかうにしても度を超している。なにより不謹慎だった。
電気ケトルのお湯が沸く間に、朝食を作ろうとフライパンを取った。今日はいつものコーヒーと、ハムエッグトーストでも作ろうか。なにげない食事がこんなにも楽しみなことは、家族を失って初めてだった。次にM君を呼びつけたとき、どうやってお仕置きするかを想像しながらコンロのレバーを動かした。その瞬間、フライパンが火に包まれた。驚いて手放し、床に落ちると、そこから示されたように火の柱が駆け抜けた。上にも下にも左右にも、くすんだ橙色の炎が燃え広がった。
理解ができず、立ち尽くしていた。異常な速さで侵食した火は、テーブルやソファーや絨毯や剥き出しの壁に、少し速度を緩めて移っていった。はっと息をついた頃には、もう私は火の手に囲まれていた。
呆然と突っ立つ私の頭には、抜け掛かったガス警報器のプラグの画像が蘇っていた。同時に無傷のガス管も輪郭を露わにした。私はそれに安堵した。M君は、最初からガス爆発を起こす気などなかったのだと。ガス警報器のプラグを完全に引き抜いておかなかったのは、自分が去った後、拘束されたまま惨めに動き回る私にすべて狂言だと気付かせるためだと解釈していた。
ガスは漏れていなかった。では、あの臭気はなんだったのか。瞬きするような速度で散った炎。火種を抜いた火そのもの。瞬時に導き出す要素。
ガソリン。その単語に行き着くと、もう立っていられなくなった。M君は私が眠っている間に、ここまで乗ってきた車からガソリンを拝借していたのだ。タオルなりなんなりに染み込ませて備品に塗り、一度拭き取り、更にコンロから四方に伸ばして道を作る。冷静さとは程遠かった私は、臭いの正体がガソリンだと気付けなかった。アロマキャンドルの妨害もあり、M君の嘘の種明かしを信じ切ってしまった。ガスの臭いだけかと問いかけたのは自分のくせに、答えを明かさず最後の疑問の解決などと進行を変えた不自然を、不自然だと思えなかった。
私が椅子で眠ってしまった後に、M君が戻ってきたことになる。なにかの拍子にアロマキャンドルの火が散ってしまったら、私に嘘の安心を与えることができないからだ。では、私が眠らなかったらどうするつもりだったのか。さりげなく戻ってきて、また役を演じる気だったのか。そうなったときのプランを用意してあったのかもしれない。別宅に残っているデータの類を、上手く処分する方法と合わせて。
指先ひとつ動かなかった。まさか彼がそのまま持ち去るはずもないので、鍵は本宅敷地のどこかに捨てられただろう。なにがどうなろうとも、今更私には関係のないことだった。
関係がないのに、情景が目の前に透けて現れた。幼稚園児の息子と、年若い妻と、その当時の私だった。二度と戻らないその幸せな家族像を、焼け落ちた屋根の板が押し潰した。
強引だなとは思ってたよ。
当初の予定では、ときどきアニメや漫画や映画で見かける
「あ、こいつは処刑でいいな」
ってつい思っちゃう奴→美坂さん。
というイメージだったんだけど、書いてみるとそこそこ気の毒だったかも…
自分はM君シリーズに関してはそこまで世界線や時系列を気にしてないので、もしかしたら
そのうち幸せな美坂さんとか描くかもしれません。