5/6
「はいじゃあ、立て続けになりますが、ここから真の解答編に移ります」
「解答編って? もうわかったからさっさと解け!」
上機嫌なM君に焦りを覚えた。心臓が今にも皮膚を破って飛び出しそうだった。どうやって固定しているのか、手も足も全然動かなかった。椅子と床が虚しく擦れるだけだ。
暴れる私の両肩を、M君が叩きつけた。そのまま耳元に口が近づいた。
「じゃあ教えてよ。縛られてる理由は? この臭いの正体は?」
吐息が横髪を揺らした。硬直する私としっかり目を合わせてから、M君は満足そうに退がった。間の抜けたスリッパの音がした。
「エレベーターでさ、間違ってふたりになっちゃったよね」
12月に入る前、局内のエレベーターでM君とふたりきりになった。俯いたまま乗ってきたM君は、私を見て明らかに動揺した。その動けない一瞬間で、もうエレベーターは扉を閉めていた。
彼にとっては気まずい時間だと思っていた。M君は私から一歩離れ、なるべくすぐに外に出られるところで、背中を向けて立っていた。一言も発しなかった。
そこで私が声をかけた。正規の発表はまだだったが、M君に芸能界引退の意思があることは噂で知っていた。M君はすぐには答えなかったが、小さな声で「期間が終わったら」と振り返らずに言った。期間と言うのは、彼が企業と結んでいるイメージキャラクターの契約期間、各社との事務的なやり取りのことだとすぐにわかった。その後にまた小さな声で、「完全に決めたわけじゃないですけど」と続いた。彼にずっと興味のある声優の話が来ていることも、私の耳には届いていた。
お願いだからもう話しかけないでくれ、と彼の背中が言っていた。だから私はまた話しかけた。引退ではなく休業はどうか。M君くらいの人気者なら、多少時間が経った後でも復帰できる見込みがあった。それにそうしてもらったほうが、あらゆる面で経済的にスマートだった。
M君は首を横に振った。休業するくらいなら引退したいと言い切った。理由を訊ねると、M君はなにも言わなかった。
自分が降りる予定だった階を素通りし、M君を追った。M君は振り返らず、足を速めた。私も速めた。人のいるほうへ向かうM君を、先回りして腕を引っ張った。トイレには誰もいなかった。5年ぶりに見るM君の赤らんだ顔は、かつてと同じように見えた。違っていたのは彼が成長したことと、最初から私のスマートフォンを睨んでいたことだった。
「あんなの露呈しちゃったら、イメージダウンどころじゃないもんね。こっちは被害者なのに、その上で途方もない違約金支払命令だけが残る。さすがに払えないから相手してあげたけど、ほんとに嫌だったんだよ」
データを餌に、M君を別宅に連れ込んだ。嫌がりながらも、望んだ通りに応じる姿が愉快だった。撮影されていることに気づいた様子はなかった。始発が走る頃に私が目を覚ますと、もうM君の荷物は別宅のどこにも残っていなかった。
「仕返しか」
少しだけ濃さが淡くなった磨りガラスから、M君は目線を移動させた。小動物のような丸い瞳が、一層喉を圧迫した。
「本当に悪いことをした。許してくれ。別宅に残っているものと合わせて、データはすべて処分する。約束する。コピーの類は一切ない。もちろんどこにも流出してない。命を賭けてもいい」
M君は小首を傾げ、頬を掻いた。誠意が足りないのか。今の私の言葉に、嘘なんてひとつもなかった。次の一言を発する前に、M君が踏み出した。
両手を添えたキスは深かった。何度か角度が変わり、ようやく顔と手が遠ざかった。
「今は嫌じゃないんだよね」
口元を手で拭い取り、M君は言った。なんでもない顔をしていた。
「なんでかわかる?」
「付き合ってるつもりだって言ってたけど」
「はい外れ。付き合ってるとか思ったこと一度もないから。付き合ってなくてもあんなことそんなこと普通にできちゃうってことくらい、オジサンよくわかってるでしょー?」
痛いことを言われ、口籠った。今までにM君以外に目をつけた子が何人もいたことも、すべて見透かされているような気がした。
「じゃあどうして? 家を知るため? 手段として?」
「あー、違う違う。合ってるけど違う。そっちの意味じゃなくて、あんなに嫌だったくせに、なんで急にノリノリになったのかってこと」
「それは」
言葉が続かず、視線が彷徨った。M君は退屈そうに床を蹴っていた。M君と交わしてきた会話の中に、必死にヒントを探った。
思いつくことがないわけではなかった。でも本当にそうなのか自信がなかった。自信がなくても、差し出してみるしかなかった。
「切り替えが早いのが……長所なんだろ」
「どういう切り替えなの?」
「これはこれでスカッとするって」
「ああ、そういやそんなこと言ったね。俺って素直だから」
堪えきれなかったらしい。最後のほうは潜めた笑い声に掻き消され、ほぼ聞こえなかった。
やっぱり違っていた。次に献上できる答えはなかった。
「ねえ、美坂さん。本当に気付かない? どんな突拍子ないことでもいいよ。思いつくこと言ってみてよ」
「思いつかない」
「嘘言わないで。じゃあ、今のこの状況がドラマかなんかだったらどう? 美坂さんはソファーに座ってワインとか飲みながら、でっかい液晶で、ゆったりとこの構図を眺めてるの」
「本当に思いつかないんだ」
「『こいつ最初と印象違いすぎないか? 二重人格じゃないのか?』」
私の声音を真似して、妙な渋面を作って、M君を顎を片手で覆った。
「俺だったらそう思うけどね」
目の前で、時間どころか世界が止まった。ポーズを崩してM君が笑ったところで、錯覚だったと気付いた。
「告白……したのか?」
情けない掠れた声しか出なかった。構わず、私は喉に力を込めた。
「最初のときとは違う人格だから、抵抗がないということか」
「うっわー、ようやく正解できたね! よかったよかった、このままひとつも答えられなかったら、敏腕テレビプロデューサーとしての面目丸潰れだもんね。俺と真也君は、ちょっとだけ価値観が違うからさー」
もう言葉が出なかった。少し低くなったアロマキャンドルの炎が、ゆらゆらと揺れていた。
「でも仲良くやってるんだよ。記憶はちゃんと共有してるし、どっちが前に出てるときでも、いつでも交代できるし話もできる。意図的に意識を閉じとくことも、当然できる。だから、俺が美坂さんとぐちゃぐちゃやってたのは真也君は見てないから安心して。やってたことは知ってるけど」
「待ってくれ。ついていけない」
「待たない。だってもうクライマックスなんだよ。時間がないの」
M君が横目に流したのは、ふたつ並んだコンロだった。いや、その向こうのゴム管だった。全体像は見えない。続けてM君の目が追った先を見て、血の気が引いた。ガス警報器のプラグ接続がずれていた。
私の視線も、M君の視線も、アロマキャンドルの先端に移っていた。胸が猛烈に波打ち始めた。不快な臭気はガスだったのだ。そこに火を焚いている。
構造上、このリビングより奥側の密封はできない家だった。だがそれがなんの気休めになるというのか。このままだと、遅かれ早かれ爆発が起きる。
「自分も吹っ飛ぶぞ」
「悪役はみんなそう言うよねえ」
「ふざけてる場合じゃないだろ!」
「ふざけて人を家畜以下に貶める人間がなに言ってんの?」
椅子の脚で床を傷つける私の周りを、M君は呆れたように歩いた。
「大事なのはここからだよ。美坂さんは、まだ仕返しされてる理由がわかってない」
「わかったって。謝っただろ!? データも全部処分する! 過去の分も合わせて処分する、誓うから! 嘘を吐いてたら、それこそ殺していい!」
「ほーんとにどこまでも傲慢でバカで自己中だよねー。爆発ばっかり気にしてるけど、この場で滅多刺しにでもできるのに」
身体が勝手に動くのをやめた。静かになったダイニングキッチンに、M君の足音が響いた。
「最初……というか今年のことだけど、トイレに連れ込まれたときね。俺、真也君に代わってくれって再三お願いしたんだよ。その後のおうちで本気モードのときも。でも代わってくれなかった。真也君って女の子とすら経験ないから、ああ、俺はそうじゃないんだけどさ、とにかくダメだと思ったんだよ。感情は共有しないけど、伝わってはくるから」
「いつでも交代できるんだろ? 私が言うのも変だが、強引に押しのければよかったんじゃないのか」
「それは無理。俺は真也君に逆らえない。真也君がダメって言ったら、いくら真也君が泣いてようが喚いてようが見てるしかできないんだよ。極端に言うと、殺されてるときでも」
「意味がわからない」
「そうだろうね。そのへんのあれこれは関係ないからどうでもいいよ。真也君は殺されたってことをわかってくれればいい。俺はそれを内側から見てたことと合わせて」
直球の表現に視界が揺れた。それを嘲笑うように、M君は声をあげた。
「安心して、言葉のアヤだから。真也君はちゃんと生きてるよ。今も俺の中から美坂さんを見てる。なんなら今の気持ちを訊いてみようか。ちょっと待ってねー」
ターンすると、M君は黙った。すぐに振り返った。色に例えると純白としか言いようがない、素朴な笑顔だった。
「もう能書きはいいって。別に能書き垂れてるつもりはないんだけど、ここを早く出ろってお達しみたい。綺麗なお姉さんならともかく、汚いオジサンと心中なんて絶対御免だもんね」
狂っていると思った。暴風に海面が幾重にも飛び散るように、私の全身も静寂を失っていた。もう一度ガス管を見て、臭気を吸って、指の一関節分にも満たないサイズの炎を見た。収縮する息遣いが、より嗅覚を押し広げた。
「風邪引いてたのは冬だからじゃないよ。美坂さんが真也君を襲ったときに、帰って冷たいシャワー被ってたから」
「わかった。勘違いしてた。脅して無理強いしたのを怒ってるんじゃないんだな。傷つけて本当に悪かった」
「眠かったのは疲れてたんじゃなくて、薬飲んでたから。派手に弾けた後は、絶対俺より早く寝てもらわないといけなかったからね。耐性つけようと思って」
ロゼワインをすぐに連想した。私がシャワーを浴びている間に、M君は、ボトルそのものに持参していた睡眠薬を混ぜた。どのタイミングでグラスに注いでもいいように、自分もその薬を飲む計画で。
「意外にしつこくて一芝居打つ破目になったのだけは計算外だったけど、全体的には順調だったよ。いちいち帰ってトイレに籠って、出せる分は出してたしね。そこまでしなくていいって言ってくれたけど、せめてもの消毒代わりに。俺じゃなくて真也君の身体だもんね。真也君がやってたようにやんないと」
「窓を開けてくれ」
「真也君が嫌だったのは、無理矢理裸にされたことなんかじゃないんだよ。無理矢理裸にされて、それで身体が熱くなったのが嫌だったの。俺にもよーくわかったよ。でも見てるしかできなかった。真也君が返事してくれないから。それから、ずぅーっと俺が前にいる」
「二重人格なのは誰にも言わない」
「だから俺が提案したの。おんなじに、熱いのを嫌だと思わせようってね。あからさまに放火するわけにはいかないから、ガス爆発を起こしてやろうかと」
「M君、お願いだ」
「でも、ちょっと待って。今の話はおかしいよね。俺は美坂さんを焼き殺すべく爆発を起こそうとしてるわけだけど、落ち着いて考えると、爆発したからってその中にいた人が確実に死ぬわけじゃない。幸運が重なって奇跡の生還、ってテレビでもあるでしょ?」
最早思考回路を無視して流れ出ていた懇願の声が、ひたと止まった。そうだ。規模にもよるが、巻き込まれたからと言って死亡するとは限らない。ときどき見かける爆発事故の報道では、工場単位でもなければ、怪我人で済んでいるものもある。
生き残れるのかもしれない。細い希望が胸の奥を照らした。
「それじゃあ困るんだよね。後遺症でも残って喋れないならいいけど、変に元気でいられると俺がやったって言い回られる」
「絶対言わない」
「ところで美坂さん、これって本当にガスの臭いだけなのかな?」
M君は語尾を跳ね上げ、テーブルに手をついた。
「まだなにか仕掛けてるのか」
「だって火種を大きくしないと。確実に火事になるような」
「もういい加減にしてくれ。確かに私は悪いことをしてきた。でも人殺しよりはましだ!」
「だから、価値観は人それぞれ。そうやって自分の尺度でしかものを考えないから、こうして痛い目見てるんじゃないの? ガキ舐めんなって忠告したよね」
なにを言われても、もうどうでもよかった。とにかく逃げたかった。逃げられなかった。
「じゃ、最後に残ってる疑問を解決しよう。どうしてわざわざ面倒な手順を踏んでまで、この本宅を突き止めて計画実行したのか」
M君はテーブルから離れた。いよいよ撤退しようとしているようで、私の焦燥は増すばかりだった。
「美坂さんが嫌いだから。真也君じゃなくて俺が。俺が許せないの。俺の大事な真也君をぶち殺しておいて、なんで普通に生きてんの? あんたが存在した痕跡をちょっとでも多く焼き尽くして消し去ってやりたいから、家族と住んでたこの本宅じゃなきゃダメだったんだよ。息子さんがちょくちょくお金をせびりにくるんだってね。俺と同い年の、少年法が適用されない息子さんが」
下品に改造した高級車を路肩に停め、挨拶もなく小遣いを要求する息子が目に浮かんだ。いっそ親子の縁を切ってもいいとさえ思っていた。それもあって、私はこの家に帰っていなかった。
あのバカな息子が利用される。M君の考えていることが頭に流れ込んでくる。
「あとこれはついで。真也君と俺は交代で仕事してきたけど、声優をやってみたかったのは、俺じゃなくて真也君だから」
じゃあね、とM君は身を翻した。持ってきた荷物はもう玄関先にでも置いてあったのか、手ぶらでリビングの扉から消えた。
ガス爆発は、ガスの成分と空気が一定量混ざったところに火の気があって発生する。一度解放され、再度密閉されたことで、猶予を引き延ばされた。その恐ろしく長い時間までもを、M君は最初から頭に入れていたのかもしれない。
無常な施錠音が、遠くで鳴った。
次でおわり。