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 唐突な冷たさで、糊を剥ぐように両目が開いた。眠る直前と視界の色彩が変わっていた。ややあって、自分が今いるのはダイニングキッチンだと認識した。その中心にいるのは、つけ置き用に使っている器をシンクに戻したところのM君だった。

「おはよーございます! 希望の朝ですよ!」

 シャワー後に着ていたローブではなく、その前に着ていた服だった。M君ははにかみ、敬礼のポーズをしてみせた。

 私がまず探したのは時計だった。まだ早朝と言うにも早すぎるような時間だった。磨りガラスの窓の先も暗かった。

 前髪から滴る水滴を拭うことはできなかった。両手は椅子の背面で、両足はそれぞれ脚に、細いタオルできつく巻かれていた。

「はいじゃあ、待望の正解発表です。美坂さんが唯一わからなかったシャンデリアなんだけど、実はこれ」

 テーブルの端に置いていたアロマキャンドルを、M君は私の前に移動させた。セットになっていた残りのものだった。ライターを摺り、小さな火が灯ると、その周辺がぼんやりと縁取られた。

「シャンデリアって、フランス語の蝋燭立てが語源なんだって。もともとはラテン語だって説もあるみたいなんだけど、どっちにしろキャンドルってこと。あとのふたつは美坂さんがお話作ってくれたし、これで伏線回収ばっちりだよね!」

 上品な香りが舞っていた。それに混ざり、覚えのある匂いが浮いていることに気付いた。なにが起こっているのか、混乱している私の脳は、その正体に辿り着けなかった。

「作ってくれたって?」

 辛うじてそれだけ言えた。M君は指を立てると、私の眼の前でわざとらしく左右に振った。

「だから、チョコも写真もシャンデリアも、俺の親にはまったくもって関係ないんだよ。思いついた単語を言っただけ。あ、チョコは食べたいと思ってたけどね」

 あはははは、と豪快にM君は笑った。その声が外に聞こえないかと思ったが、聞こえないと思った。この家の敷地は広い。

「でもまさか、本当に調べてくるなんてね。スイーツ大好きな10代の写真家と、大物政治家が不倫? で、産まれたのが俺なんだ。興味ないけど。大爆笑。あっははははは!」

 どこから考えていいのかわからなかった。言葉が出てこない私の傍を、M君は何歩か歩いた。

「ねえ美坂さん、ニュース調べてたんでしょ? そんなどうでもいいのじゃなくて、もっとセンセーショナルな事件なかった?」

「十分センセーショナルだろ。当時の政治家たちの頭が、自分の子供より年下の女の子を愛人にしてたんだから」

「ああ、そっか。価値観はそれぞれだもんね。美坂さんにとっては、それが最も衝撃的なゴシップだったと」

「なにが言いたい? そんなことより解いてくれ」

 これだと思った時点で、その年代の時事を振り返る作業はやめていた。それを言うのはプライドが許さなかった。一見共通項のない単語を結んだのだと、絶対の自信があったのだ。

「まあでも、仕方ないか。俺もまったくの無関係だったら、そっちのどうでもいい不倫騒動のほうを覚えてるかもしれない。専門のジャーナリストかなんかでもなかったら」

「だから、なにが言いたいんだ」

「だって身内による殺人事件とか、悲しいことに珍しくもなんともないんだもんね」

 急に時間が停止した。息を止めた私の周りを、異臭の浮く辺り一帯を、M君はにこやかに歩き回った。

 やがて私の前に戻ってきて、顔をぐっと私に近づけた。冷えた目の、悪魔のような笑顔に見えた。

「20年前の7月に、妊婦が惨殺された事件があったんだよ。急に家に男が押し入ってきて、包丁でざくざくやられて」

 腹で氷が溶けだしたみたいだった。冷たい水が、ゆっくりと筋を伸ばして行き渡った。

「臨月だったのに、可哀想だよね。それなりにニュースになったけど、逃げた犯人の男がすぐに捕まったからあっさり解決。動機は……えーと、なんだったかな」

 悩んだ一瞬だけ、M君は視線を宙に浮かせた。その間、悪意の欠片もなかった。

「とにかくそういう感じで、事件は終わった。でも、報道の一端で、ちょっとだけ触れられてたんだよ。お腹にいた赤ちゃんは生きてたこと。通報したのは、まだ息のあった被害者自身だったこと。警察を待つ間に力尽きたことまでね。ここまで聞いたらわかるよね。性癖歪んだ盗撮マニアで根性曲がりの美坂さんでも」

 当時眺めていたニュースの概要が、薄く頭の中に蘇っていた。インターネットから大きな時事を書き留めていたときも、妊婦惨殺事件の項目は目についた。リストには入れなかった。M君が「両親の居所を知っている」と言ったからだった。でも本当は、彼が知っていたのは両親の居所ではなく、親が一般世間のどこにもいないことだった。

 だが違和感が残った。芸名とは違うM君の本当の苗字は、ニュースで見た被害者の苗字と違っていた。

「運よく俺は生き残ったんだけど、問題があった。被害者――というか俺のお母さんである橋アサミさんは、入籍していない上に若くして既に天涯孤独の身となっていたのです。お父さんは結局不明だけど、合鍵を使って家に入ったくらいだし、橋さんの男性関係は至ってシンプルだった様子なので恐らく加害者の男だろうと推測されますが」

 その男がはっきり言わないから、とM君は肩を竦めた。

「身寄りがないから施設に入ることになるけど、ちょっととは言えメディアで発表されちゃったからね。不幸中の幸いとして記事にしたいのはわかるんだけど、それは子供に影を差すって判断した大人がいたんだよ。間々ある苗字だとしても、時期が被ってたら暇人に出生を特定されかねないから」

 この臭気、なんだっただろうか。思い出せそうな気がするのに、アロマキャンドルが邪魔をする。

「だからと言って、母親の形跡を完全に消しちゃうのは憚られる。なんせお母さんは、お腹の子供をもう名前で呼んでて、ひとりきりで強く逞しく育てていくことを決心してたからね。母親になることを勉強してたらしいノートが見つかってて、そこで何度か語りかけてたんだって。『真也、早く顔を見せてね』って」

 久しぶりに聞いた、愛称とも違う本名だった。黙ったままの私に、M君は無垢に笑いかけた。

「というわけで、お母さんの面影を残しておくことにしたんだよ。アサミから麻の漢字を当てて、もとの苗字の橋をくっつけたの。めでたく麻橋真也の誕生ってわけ!」

 おめでとう、と声を高くし、M君はわざとらしい拍手してみせた。私は唖然として、そんなM君を見つめていた。

「これ全部、昔、根負けした園長先生に聞いたんだ。なかなか大変だったけど、やっぱ俺にも両親のことを知る権利くらいはあるからね。このことは職員さんも知らないから、みんなには絶対内緒にしておきなさいって言われた。別に内緒になんかしなくていいと思うけど、園長先生のこと好きだったからそうしてた。今となってはよくわかるよ。そんなの、一瞬のキャラ付けにしかなんないもんね」

「は? キャラ?」

「あ、ちなみにだけど、捕まってるお父さんと思しき男性はとっくに自殺済みらしいよ。さすがにこれは確認しようがないけど、っていうか面倒だからしてないんだけど、まー別にどっちでもいいかなって。お父さんとか興味ないし」

「……」

 目を見開くしかできなかった。次第に浮き彫りになってきた。M君は殺人鬼の子供なのだと。私はその殺人鬼の子供に、両手両足を拘束されている。



まあちょっと強引な展開にはなるなと思ってた。

別にいいかと思って。小説だもん。

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