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 私とM君が初めて会ったのは、企画の一次合格者を募った二次審査の会場ではなかった。審査と呼んでも、責任者だった私と雑談のような面接をするだけの簡単なものだった。企画そのものが若い才能を発掘しようと躍起になっていたわけではなく、もちろん発掘できればそれに越したことはないのだが、若い子に将来語れる思い出を提供できたらというささやかなプロジェクトだったからだった。それだけの余裕が、当時放送していた番組と制作チームにあった。それが却ってブランド力を高めていたのだと思う。

 向き合って座ったとき、胸の奥が微かに波立った。愛嬌のあるくせっ毛と、控えめに突き出した右上の八重歯に馴染みがある気がした。やっと答えに辿り着いたのは、何日か後のことだった。

「うちの子、どうだった?」

 突然従妹から電話があり、浮き足だった口調でそう切り出された。うちの子もなにも、彼女は独身だった。

「そうじゃないわよ。うちの施設からひとり応募してるの。二次審査に行ってきたっていきなり言うからびっくりして」

 敢えてとぼけてみただけなのだが、従妹は口を尖らせていた。が、次の瞬間にはもう、電話口に立った当初の明るい声音に戻っていた。私の中でも、そういうことかと既に合点がいっていた。

 ADをしていた15年前、養護施設の職員をしている従妹に、幼稚園の運動会を見に来ないかと誘われたことがあった。今年は近場の保育園と日取りが被っており、施設の園長先生が終日残れないので、片付けの手伝いなどがあるので男手を確保しておきたいとのことだった。建前だとはすぐにわかった。各々のシートで父母なりそれ以上の親族なりで小さな主役を見守っているのに、一組だけ若い女性がふたりで座ったシートがあっては浮いてしまう。そこに帰る子ども自身はよくても、周りが色眼鏡を使う。

 幸いにも、私の息子の運動会は終わっていた。従妹の頼みを快諾して当日を迎え、午前中までは順調だった。異変があったのは、午後の年少生・年中生・年長生でそれぞれ親子対抗のリレーが始まったときだった。

 次は年中生の番、というときだった。ビデオカメラ越しに映っていたゲートの外側に、置き去られた大人と子供の姿を捉えた。ビデオカメラを下げて二度見した。ふたつの影は、置き去られたのではなくわざと居残ったように見えた。

 M君、と従妹が呟いた。M君と言うのは、職員のひとりが話のネタにと名前を漢字で書いて見せたときに発祥した愛称だと聞いていた。

 結局、ひとりでシートに残された。15分程経って、疲れた表情のふたりが戻って来た。M君だけは、従妹に手を引かれながら、なに食わぬ顔でストローでジュースを飲んでいた。リレーはとっくに始まっていた。

「普通に並んでたんだけど、急にやりたくないって言い出したみたい」

 従妹は眉根を下げた。M君はシートの上で開いたままになっていたチョコレートのナイロン袋から、赤い包装を取り出していた。

「ときどき強情になって、どうやったって聞かなくなるの。泣いたり大声出したりとかはないんだけど……普段はすごく聞き分けがいいんだけど」

「叱らないのか?」

 従妹は遠慮がちにM君の横顔を覗き見た。何故か私は、間違った感想だと自覚しながらも、言及したことを少し後悔し始めていた。

「チョコ、好きかい」

 口の周りについていた溶けたチョコレートをおしぼりで拭い取ってやりながら、そう訊ねた。M君は私を見上げ、ジュースを飲んでから関心をチョコレートに戻した。

「すき」

「もうひとついる?」

「いらない」

「じゃ、それ食べたらあっちで追いかけっこでもして遊ぼうか」

 M君の目と同時に、従妹ともうひとりの職員の目も向けられた。私が指差していたのは、グラウンド周辺とは打って変わった寂しい裏庭のほうだった。

「うさぎ組でいちばんはやく走れるよ」

「それはいい。私も速く走るぞ」

「男の人なのにわたしっていうの? へんなの」

 なにを言っているんだと私の腕を掴んでいた従妹が、M君の楽しそうな笑い声で力を緩めた。M君はチョコレートのナイロン袋からひとつ引っ張り出すと、満面の笑顔で差し出してきた。

「やっぱりもうひとついる」

 微妙に不揃いな段を作って、小さな歯が並んでいた。

 M君は、本当にすばしっこく走り回った。

 あのときあの幼稚園に通っていたのはM君だけで、その一度きりの機会以降、従妹の職場と関わりを持つことはなかった。従妹が示す子は、M君ただひとりだった。

 番組の企画にM君の書類を送ったのは従妹だった。どうせ通らないだろうと遊び半分で勝手に投稿し、それきり忘れていたということだった。ところがM君が従妹より先に一次審査合格の通知を見つけ、これはなんだと詰め寄ればいいものを、二次審査に行ってしまったのだとそれこそドラマのような展開を私は耳元で聞かされた。

「まあその、勝手なことして反省はしてるのよ。でも、こういう言い方ってよくないけど」

「彼に会いたい人が世界のどこにもいないから?」

 M君が家族とまったく接点を持たないことは、従妹から聞いた。事情によるが、施設に預けられたからと言って、親に愛されない子供とは限らないのだそうだ。定期的に顔を見に来る親もいるし、それを楽しみにしている子供もいる。直接干渉せずとも、施設に寄付金を振り込んだり備品の援助を行う親もいるらしい。

 よくないと思いながらも、M君の我儘を許してしまう職員の気持ちを察した。M君だけが保育園ではなく幼稚園に通っていたことも、なにか意味があるようにさえ感じた。

 そういうツテがあったから、M君を二次審査で通し、最終的にテレビ出演まで至らせたわけではなかった。声質に魅力を感じたのも、最初の収録が終わって暫くしてからだった。90点にはならないが、80点を割ることもない。なにをやっても上位であり、だから逆に目立たない。そうした埋もれた存在の彼は、既に番組企画は当初と違う思惑に染まりつつあったが、初期のコンセプトに最も合致していた。

 チョコレートと聞いて思い出すのは初対面のエピソードしかないのだが、あの出来事が彼の両親とどう関係するのか。しかもそこに写真とシャンデリアも繋がらなければならない。途方もないパズルを押し付けられたようで、つい嘆息した。

「お疲れですね」

 映像編集をしていた島谷が、マウスに右手を置いたまま振り返った。元来毒のない性格のこの男は、最近結婚して更に純度を増している。誰もが私が作業場に入って来たら空気を変えるというのに、島谷だけは常に自然体だった。

「元気出していきましょうよ。もうすぐクリスマスだし、これにかこつけて、奥さんと息子さんを連れ戻してパーティーとかどうですか?」

 しかも、こういうことを本当に嫌味なく口にする。島谷は周りの気圧が急に下がったことを気にした様子もなく、私は苦笑するしかなかった。この男のこういうところは嫌いではなかった。

「そういえば知ってます? MAミキサーの多部たべさん、入籍するそうですよ。来年からは加賀かがさんって呼ばないと。慣れるまでちょっと変な感じしますよねえ」

「君の奥さんも、今そう言われてるんだろうな」

「へへ。もうすぐ産休に入るんですよ。そこらへん、ちゃんとしてる会社でよかったです」

 幸せオーラを振りまく島谷は、伸びをしてモニターに向き直った。黒縁の眼鏡を指で押し上げ、声のトーンを安定させた。

「でも、本当に今がしんどいときですよね。年末年始の特番が多くて制作現場も余裕ないし、出演してるタレントさんたちも、裏ではめちゃめちゃ疲れた溜息ついてるみたいです。さっきの美坂さんみたいに」

「そんなに疲れてたか?」

「M君とか俺も嫁も好きで見てるんですけど」

 急に名前が登場し、心臓が大きく跳ねた。その名前になんの意図もないことは、すぐに明らかになった。

「見ない日がないですもんね。この前用があってスタジオのほうに行ったんですけど、たまたまいたんでラッキーと思ったら、カットの度にめっちゃ眠そうに目擦ってました。共演者さんに顔洗って来いって背中叩かれてましたよ。あ、叩くって言っても愛ある感じで」

 悟られないように胸を撫で下ろし、思い返した。問題開示から一週間、2回会っているが、いつも通りだった。私の別宅で過ごし、早朝、私の運転を拒んで電車で帰宅する。泣き言は一言も聞かなかったし、至って元気だった。

「今度会ったら労ってあげてくださいよー。M君も、美坂さんのことは特別に思ってると思いますよ。美坂さんがいなかったら芸能界に入ってなかったかもしれないし」

「まあ、会うことがあれば」

 再度振り返り、島谷は微笑んだ。この男の子供は綺麗な歯並びだろうなと、ちらりと思った。

 

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