3.斉藤先生
ベビーブームがあり、子どもが増えた時代があった。まさに産めよ増えよと、高度経済成長期であり、豊かな未来を目指して人々は明るい顔をしていた。
その中で、子どもたちの教育に熱心に携わった人たちがいた。
大勢の子どもを軍隊式に躾け、美しい常識があり、勤勉な日本人を育てた教師たち。
しかし、バブルが弾け、教育も変わった。ゆとりが叫ばれ、個性を伸ばせと、本来厳しくしつけられて然るべき生活態度はなあなあになり、逆に認めてゆきたい能力は格差をなくせとばかりに横並びで走らされる子どもたち。
こうして出来上がったのが、小1プロブレムや小4ギャングと言った言葉とモンスターペアレントたち。
教師たちは体罰も認められずに、どうして彼らと接すればいいのだろうか。
「おい、斉藤のババア!ついにやめさせられたんだって!」
躾けのなっていない子どもを物差しで叩いたため、小学校の一番古株である斉藤先生は退職に追い込まれた。
彼女のおかげで、立派に育った子どもたちがいた時代はもう過ぎ去ってしまったのだ。愛するほど、子どもたちにきちんと育って欲しいと頑張れば頑張るほど、彼女は嫌われた。
「斉藤先生、今の子たちにはそんなやり方じゃダメなんですよ」
同じ教師仲間にも、何度となく言われた。
そうは言っても、今、今この時に躾けないで、いつ教えると言うのだろう。その信念を持って、彼女はその厳しさを貫き通した。
そうして、彼女は定年を目の前にして、学校を追われたのだった。
斉藤先生はすっかり変わってしまった。
ブツブツ文句を言いながら、街を歩く姿が見られた。まだ60歳ほどなのに、ほとんど老婆にすら見えた。小さいながらもシャンと背中を伸ばして歩いていた威厳のある姿はもう見られない。
「まったく」
と何度もつぶやくので、“まったくオバサン”と指を指されることもあった。
「まったく、あんなところに座り込んで、お行儀が悪い」
「挨拶もできないなんて、まったく」
「ごみの捨て方がまったくなってない」
斉藤先生はブツブツと呟いて歩いていた。
しかし、誰が気づいただろうか。彼女が呟くその言葉の中に、ひとつも間違いがないことを。それでも、彼女は誰にも認められなかった。
泣きながら団地の入口を走ってきた女の子が、その小さな姿の斉藤先生に気づかずに、ドンとぶつかった。
「あ、あ、ごめんなさい」
女の子はかなりの勢いで走ってきたのに、斉藤先生は転ばなかった。小さな体で踏ん張って立ち、逆に転んだのは女の子の方だった。
「まったく、前も見ないで走ってきて」
「すみませんでした。あの、すみません、気を付けます」
女の子は斉藤先生の呟いた小さな言葉を、独り言とは思わず、自分に向けられた言葉だと分かった。それで、何度も謝った。
「あなた、随分茶色いですね。日焼けをしたの?」
斉藤先生は女の子に聞いた。
「あの、日焼けじゃなくて、こういう色なんです。生まれつき」
「そう、健康そうで、いいことですね」
斉藤先生は真面目な顔をして女の子を見ると、小さく頷いて、そして歩いて行った。もうブツブツと呟いてはいなかった。
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羊飼いは羊を連れて、良い草の生える“門”へと向かって旅をしていた。連れている羊は、年寄りの羊が一匹だけだった。
以前は300匹以上の羊を連れていたのだが、ほとんどの羊はどこかへ引き取られて行き、また他の羊も帰るべき場所を見つけて帰って行った。
羊飼いの手元にいるのは、この年寄りの羊だけだった。もう長い間荒野を歩き、年寄りの羊はひどく疲れていた。
「さあ、ほら、門が見えてきたよ」
羊飼いは額に手をかざし、行く先を目を細めて眺めた。
カサカサと枯れた茶色い土地にはところどころに固い木が生えているほかは何も見えない。その向こうに、土の色とも空の色ともつかない何かがあるのが分かる。
まだ遠いはずなのに、かなりの存在感があり、そして光りが差しているのか、角度によって門がキラリと光るのが見えた。
年寄りの羊はその門を遠くに見つけると、その足を止めた。
数歩先に歩いていた羊飼いは、年寄りの羊を振り返った。
「どうしたんだい?行きたくないのかい?」
羊はただその門を見つめているだけで、首を振ることも鳴くこともしなかった。
羊飼いは年寄りの羊に歩み寄り、しゃがみ込んで羊の顔を覗いた。その羊の目は、年寄りのしょぼくれた目ではなく、今だ力が漲る意志の強い目をしていた。
「あなたは、本当に頑固だ。そのせいでどれだけ苦労をしたか、知っているよ。
だけど、考えてごらん。あなたは帰りたいと思っているだろうが、時代は過ぎた。あの古き良き時代はもうないのだよ」
羊飼いにそう言われると、年寄りの羊はゆっくりと後ろを振り返った。
希望を抱いて教師になったあの日を。
強い指導力で子どもたちを導いたあの日を。
先生と慕われた、遠いあの日を。
その思い出があったから、斉藤先生は時代が変わっても、子どもは変わらないと信じて教育を行った。
勿論、子どもたちは変わらなかった。だけど、周囲の環境は大きく変わり、それに伴って、子どもの質も変わった。
間違っていると分かっていても、飲み込まなければならないこともあった。
正しい道を歩いているつもりが、他人から責められる苦しみを負った。
時代は、もう戻らないのだ。
年老いた羊は歩き出した。
ゆっくりと、その老いた足で荒野の枯れた地を踏みしめて、いつもどおり背筋を伸ばして“門”へと真っ直ぐに進んで行った。
その後ろから羊飼いがゆっくりとついていった。
門までの道のりは、苦しくはなかった。遠くに見えた景色も、ゆっくりと足を動かしていても確実に近づき、ゴロゴロとした石を踏むこともなく、起伏もなく、羊はしっかりと歩き続けた。
近づいてみると“門”は大きく美しく、閉まっていてもその向こうは光りで満ちているのがわかった。
年老いた羊がたどり着くと、そこに門番が立っていた。
「おお、今年最後の通行だ。ご苦労さん」
門番が笑顔で言うと、年老いた羊は礼儀正しく挨拶をした。
「遅くなりまして失礼しました。どうぞ、手続きをお願いします」
年老いた羊がゆっくりと落ち着いた声で言うと、門番がハッと驚いた顔をした。
「斉藤先生ではないですか!ああ、覚えていますか。俺はあなたの生徒でした」
羊は門番を見つめ、それから笑顔で言った。
「覚えていますよ。やんちゃ小僧の八太郎君ですね」
「そうです!ああ、感激だ。先生のおかげで、俺はこうして立派な門番になれたんです。感謝してもし足りないほどだ!」
門番が興奮したように話し続けるのを、羊は冷静に遮った。
「門番さん、手続きをお願いしますよ」
「あ、はい」門番は先生の言葉を聞くとピシっと気を付けをした。「では、ここから先に持っていくものを登録するので、それを教えてください」
「はい、これです」
羊は、持っていた袋を開けて見せた。
「小さな羊の思い出?これだけですか?だって、あなたにはたくさんの生徒を教えた熱意と技術と信頼と自信と、それに・・・」
「これだけあればそれで良いのです」
「は、はい」
羊が静かにそう言うので、門番はもうそれ以上は何も言わなかった。
そして、目の前にある美しい彫刻の施された大きな門を開いた。
「ではどうぞ。幸せになってくださいね」
「ありがとう。八太郎君もね」
年老いた羊は門をくぐった。
芳しい風が吹いてきて、斉藤先生を誘った。門の向こうには美しい小道が続き、どこも青々とした草が生え、小さな花がそこここに咲いていた。
歩きながら、共に門をくぐった羊飼いが斉藤先生に言った。
「斉藤先生、あなたのような良い忠実な人を待っていました。この先には、迷子の子羊が待っています。行って、あなたの愛と厳しさで育ててあげてください」
風に乗って子どもたちの笑い声が聞こえてくる。斉藤先生は懐かしいものを感じるように、大きく息を吸った。そして悲しそうな顔をして首を振った。
「私のような者が、子どもを教えて良いのでしょうか。私は悪い教師です。時代に乗ることができなかった、どうしようもない、悪い教師なのです」
「いいえ、あなたは立派な教師だ。あなたは何が正しいのかを知っている。だから子どもたちを正しく導いてやってほしいのです。
ここには“時代”はありません。子どもは子ども。真っ白な未来です。あなたの力が必要なのです」
そう言われて、斉藤先生はグッと引き締まった顔をした。顔中に力を入れて、何かをこらえていたが、そのうち、その目には涙が溜まり、ホトリと一粒が落ちた。
斉藤先生がたどり着いたのは“門”の向こう。真っ白な未来。
信頼も自信も置いてきた彼女は真っ白な未来に出会い、羊の歳は終わった。
羊飼いも、その役目を果たし終えることができた。
新しい歳には、また門番が門を大きく開ける。
今年の通行はこれにて終わったのだった。