1.アツシ
アツシは小6にしては背が高く、すでに声変りもしていて、一緒につるむ中学生や高校生といても違和感がなかった。
「どこへ行くの、アっちゃん、こんな時間に外に行っちゃダメよ!」
「うるせー、クソババア!」
アツシは優しい母親を怒鳴りつけると、大きな音をさせて扉を閉めて家を飛び出して行った。向かった先は、いつものコンビニの前。仲間と呼んでくれる中高生たちがたむろしている、そこだ。
いつもそこに集まって、大騒ぎをする。
アツシはそれがカッコいいと思っていた。何にも縛られないで自由に過ごす。警官に補導されそうになったって、走って逃げる。絶対に捕まらない。それがものすごくスリルがあって気に入っていた。
あんな、甘ったるい優しいだけの母親に、やれ学校に行けだの、勉強をしろだの、ご飯の時間だと指図されず、自分で自分のことを決めたかった。
アツシは、それだけのことで、家を出た。
だんだんと家に戻らなくなって、夏が来て、秋になり、いつしか寒くなってきた。さすがに、冬は家に戻らないと、寒くて過ごせない。
それでも“仲間”は、アツシを泊めてくれたり、食べる物もかっぱらってくれたりして、勝手気ままに、しかし、やっと、生きていた。
ある日の朝のことだった。
その日はたまたま、ある高校生の家に泊まっていた。アツシと、高校生とそのお母さんが家で眠っている、まだ冬の夜明け前の時間だった。
いきなり警察官がやってきたのだ。
警察官は泊めてくれた高校生を連れて行った。アツシのことは、無関係の弟とでも思ったのだろう。いつも一緒にいたアツシには目もくれず、高校生だけが連れて行かれた。高校生のお母さんは真っ青になって震えて、息子が連れて行かれるのを見ていた。
そして、アツシがここにいないかのように、おろおろと泣いていた。
アツシは、その家を出た。
いつものコンビニの前に行っても、誰もいなかった。
朝日が昇って、昼になって、夕暮れが来て、いつもみんなが集まる時間になっても、誰も来なかった。
何かあったのだろうか。
人のたくさんいる、明るい方へ行くと、その日のニュースがビルの大画面に映し出されていた。
それを見て、アツシは知った。
仲間の中高生たちは犯罪を行い連れて行かれた。グループで悪どいことをして捕まったのだ。
アツシの周りには誰もいなくなった。
仲間が帰ってくるまで、どうやって生きればいいのだろう。
自分のことは自分で決める、そう思っていたのに、アツシは何も決められなかった。どこへ行くのかも、どうやって生きるかも。
寒い冬の空の下で、アツシは1人になり、公園にいるしかなかった。風のよけられる遊具の中で、身を丸めて眠ろうとした。
ガチガチと震えて、とても眠れるものではなかった。
アツシはその公園で、数日過ごした。
寒く、固く、ひもじい日々だった。昼間には陽が出るから、震えるほどではなかったが、何も食べていないせいかひどく手足が冷たい。
ベンチに座って、陽を浴びながら、ただ座っているしかできなかった。
アツシが目を瞑っていると、隣に誰かが座ったのが分かった。
小さなお婆さんだった。お婆さんはブツブツと独り言を言いながら、毛糸の肩掛けを首に巻き直し、それから、紙袋をガサガサとさせた。
なにか、懐かしい匂いがした。
アツシが横を見ると、お婆さんが紙袋から焼き芋を取り出して、小さくちぎり、ちょびちょびと食べていた。
不味そうな顔をして、文句を言っている。
「熱い!まったく、こんなもの・・・まったく」
ホカホカと湯気を上げているその焼き芋をアツシは物欲しそうに見つめ、ゴクンとつばを飲んだ。あんなに不味そうに食べているソレは、アツシにはごちそうに見えるほどだった。
「べちゃべちゃして、不味いったら!」
お婆さんは、手に残っていた焼き芋を、ポイと投げた。
思わず拾いに行こうかと思うくらい、アツシはその投げられた芋を荒い息をしてジッと見つめた。お婆さんがいなくなったら、拾おう。少しくらい砂が付いたって食べられなくない。それにきっと、まだあったかいだろう。
ところが、お婆さんが芋を投げることを知っていたのだろうか、どこからともなく当然のように猫がやってきて、それを銜えて持っていった。
「お礼もなしかい」
お婆さんはまだ文句を言っている。
それから、急にアツシに気づいたように、振り向き、目が合った。アツシは驚いて、その小さなお婆さんの不機嫌そうな口元を見つめた。お婆さんは少しの間アツシのことを見て、何か文句を言おうとしたようだった。
「こんなもん、食えるか。お前、食え」
お婆さんは、その紙袋をアツシに渡して、立ち上がった。そして、そのまま向こうへ歩き出した。
「あ、ありがとう」
猫に文句を言ったお婆さんが怖くて、アツシは小さく礼を言った。
アツシの声が聞こえたのか、聞こえないのか、お婆さんはゆっくりとした足取りのまま、立ち止まらずに行ってしまった。
手元には、紙袋。ホカホカと温かかった。中には大きな焼き芋が入っていた。アツシはそれを取り出し、ガブリと噛みついた。
久しぶりの食べ物は、熱かった。
「は、は、はふ、は、はふ」
鯉のように口をパクパクさせた。
決して濃くはない素朴な甘みが口の中に広がる。
「うまい」
熱さで・・・アツシは思わず涙が出た。
あんまりにも美味しくて、夢中で食べた。
そしてまたその日も、誰も来ないコンビニの前で待ち、それから公園の遊具に戻って、自分のバカなみじめさを抱いて眠った。
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1人の羊飼いが旅をしていた。良い草の生える“門”の向こうへ、羊を連れて行くためだ。
彼は3匹の羊を連れていた。
羊は、羊飼いがいなければ、途端に獣に襲われて食べられてしまったり、迷子になってしまうものだ。
彼が連れている羊も同じように、それはそれは弱々しく、時には羊飼いを見失って、トコトコと違うところへ行こうとした。
時には、羊同士でメエと鳴いては仲間を呼ぶこともあったが、羊飼いがいなければ、やはり羊は迷い出てしまうのだった。
羊が迷子になると、羊飼いはすぐに探しに行き、そして見つけると、抱き上げて連れて帰った。
「おやまあ、こんなところにいたのか」
羊飼いは、迷子になっていた羊を肩に担ぎ、優しく声をかけた。
他の2匹の羊も、心配そうに迷子になっていた羊を見上げている。
迷子になっていた羊は、羊飼いに抱き上げられても、まだ震えていた。臆病な羊は、迷ってしまったことで、しばらく自分の足で歩くことができなかった。
「よしよし、もう大丈夫だよ。さあ、先へ進もう」
羊飼いは3匹揃った羊を見渡すと、杖をついて歩きだした。迷子だった羊はまだ担がれたままだった。
そのうちに、やっと迷子の羊が落ち着いてくると、羊飼いは羊を下ろしてやった。
トコトコと歩く臆病な羊を、他の2匹が守るように歩いた。
3匹はとても仲が良かった。普段は我関せずという顔をしているのに、時々羊たちは、こうして顔を寄せて、お互いを思いやるような時があるものだと、羊飼いは微笑ましく思っていた。
羊飼いは“門”を目指して、荒れ地を歩いていた。昼間は暑く、夜は寒い。少しの草しか生えず、木もあまりない。そんな荒地だ。
夜になれば獣も現れるかもしれない。
羊飼いは、夜になると火を焚いて、羊たちをそばに寝かせた。そして、自らは火と羊の番をしていて、ほんの少しうつらうつらするだけで、横になって眠ることはなかった。
真夜中になると、あの迷子だった羊が、ぶるぶると震えているのに気が付いた。
「よしよし、どうしたんだね?怖いことを思い出したのかい?」
羊飼いは羊を優しく撫でて寝かせようとした。
ところが、羊は立ち上がり、今日まで歩いた荒野を振り返って、遠くを眺めているようだった。
羊飼いも、そちらを向いた。
風に乗って声が聞こえてきた。小さな小さな声だ。
それでもその声は、はっきりと呼んでいた。声は時々大きくなったり、小さくなったりして、風が吹き消してしまう時もあった。それでも、はっきりと聞こえた。
『アツシ―!』
『アっちゃーん!』
『どこなのー、帰っておいで―!』
迷子の羊はその声を聞くと、哀しい声で鳴き、その横たわる三日月から涙をこぼした。
「お前はまだあの門へ行くときじゃない。アツシ、お母さんのところへお帰り」
羊飼いは、迷子の羊に優しく語りかけた。
羊は頷き、羊飼いに頭をこすり付けると、礼をして、振り返った。それから、震えるその足で、呼び声の方へと走って行った。
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アツシは、痩せて泣きながら自分を呼び続ける母を見つけた。必死になって自分を呼び、寒空の下、手を強張らせながら、道を走り、公園の植え込みや遊具を一つ一つ探し回る母親の姿だ。
母はこうして、アツシを探していたのだろうか。その名を呼び続けながら、走り回って探していたのだろうか。
「アツシ―!」
アツシは、母の姿を見つけると、急いで遊具から這い出して走って行った。
「母ちゃん!」
母親は汚れきってみすぼらしいアツシを見つけると、駆け寄って、その頬を叩いた。そして、すぐにアツシを抱きしめた。
母の身体も冷たかった。
だけど、アツシはもう寒くはなかった。
アツシは戻った。あの“門”へ行かずに、母の元へ無事戻った。甘ったるくとも、指図されようとも。探しに来てくれた母のところへ帰ったのだ。
それは、アツシが初めて自分のことは自分で決めたことだった。
アツシはもう、寒くはなかった。