3or4.まわる
走る。走る。走る。
巫女姫は止まらない。人波をすり抜けるようにどんどん進む。いつもよりずっと身軽なので引き摺られながらもなんとか付いていけるけれど、そもそも走るなんてことがないので足はもつれ息もすぐ上がってしまう。
どこを走っているのかもわからなくなった頃、手を掴まれている感覚がふっとなくなった。そのまま倒れてしまって、固い地面が容赦なく掌を削る。
「っ痛……う……」
胸の痛みにはもう慣れたと思っていたけれど、擦り傷は初めてだ。ひりひりと熱くて、力が入らない。
足音が遠ざかっていく。遠く。遠く。
巫女姫は、わたくしが倒れたことに気付いていないのだろうか。それとも、わたくしを置いていくつもりなのか。
「……待っ、て」
息を落ち着けたいけれど、地面が埃っぽくて咳が止まらない。身体全部が心臓になったよう。吹き出る汗が気持ち悪い。
吐き出すものなどもう何もなくて、痛くて、苦しくて、怖くて、悲しくて……
『お嬢様、お嬢様! お気を確かにっ! あぁっ、すぐお医者様がいらっしゃいますから』
ハンナが泣いている。泣きたいのはこちらの方なのに。嗚呼でも、こんな所にハンナはいない。
どれくらいそうしていただろう。なんとか起き上がって辺りを見回すけれど、ここがどこなのかさっぱりわからない。あまり綺麗とは言えない路地で、人気もない。
殿下のマントもなくなっていて、心細くて申し訳なくて堪らない。
「どうしましょう……」
思わず溢した言葉は情けなく震えていた。
ともかく巫女姫を捜さなければと、無理矢理立ち上がる。広い通りに出れば、憲兵とも会えるかもしれない。いいえ、それよりも、殿下にお会いしたい。
ご無事だろうか。お怪我など、なさっていないだろうか。
秋の陽は釣瓶落とし。
そんな表現を教えてくださったのはお祖母様だ。
お昼に殿下たちと合流して、少しお話をして、たったそれだけのはずなのに、もう辺りは真っ赤に染まっている。黒い影が長く、長く伸びて。わたくしを絡め獲る。
時間がない。
早く。早く。早く。でないと……
『お嬢様。お祖母様は先年お亡くなりになりました。ですがハンナがここにおります。怖いことなどありませんわ。あぁどうか……』
ごめん。ごめんなさい、ハンナ。わたくしが欲しいのは、この腕じゃない。抱き締めてほしい。でもそれは、貴女じゃ駄目なの。
入り組んだ路地はどこも同じに見えて、どちらへ向かえば大通りに出られるのかもわからない。王城は街のどこからでも見えると聞くのに、見上げても建物の暗い影に切り取られた真っ赤な空が落ちてきそうで、地面も赤く照らされて、上下さえもわからなくなる。
そして……
突然現れた、汚い身形の男たち。人相を覚えて次こそ捕まえなければと思うのに、ニタリと笑うおぞましい口元は見えるけれど、顔全体は真っ赤で真っ黒で。
走る。走る。走る。
下卑た笑い声が追ってくる。無駄なあがきだと薄々感じながら、痛みを通り越して感覚のない足を必死で動かした。
けれど、男たちからすれば児戯のようなものだったのだろう。
「なぁ、ホントにこの嬢ちゃんか?」
「お貴族サマがこんな服着ねーだろ」
「黒髪黒目、間違いねー。オメェらよーく見てみろ。貧乏人にゃ真似できねーツヤッツヤの髪とプリップリ真っ白のお肌だぜ」
「ホコリ被っちまってるけどな」
地面に押さえ付けられて、痛くて、苦しくて。理解が追い付かない。
でも、その方がいいのかもしれない。わからないままの方が。
「……わたくしが、何者か……わかった上での狼藉なのね?」
それなのにどうして、わたくしはこんな恐ろしい状況を理解しようとしているのだろう。
「おっと賢いおジョーさんだ」
男が茶化すように言う。
「首謀、者を……答えなさ、いっ」
「身に覚えがないか、ありすぎてわかんねーか……アンタも親父さんも、相当妬まれてるらしいな」
痛い。怖い。
誰か、嗚呼でも、誰もいない……
そんなことから意識を逸らすかのように、思考が無理矢理回りだす。
単なる暴漢ではなく、わたくしを──マリアネラ・エヴァ・フェリシアーノを狙った犯行。であれば正気の沙汰と思えない王都内での襲撃にも一応の納得がいく。公務に侯爵家の護衛は随伴せず、近衛が守るべき優先順位は殿下、巫女姫、わたくしの順。嗚呼けれど、あの時間あの道を通るのは予定外のこと。内通者がいる。そもそもわたくしをこの路地に連れ込んだのは巫女姫だ。
彼女が、わたくしの死を願ったのだろうか……
そうだとしても、巫女姫一人では襲撃計画なんて立てられない。誰か、わたくしの死を望む何者かが、彼女を唆したのだろう。侯爵子息が白いドレスを勧めたように、『困らせてやれ』『怖かったと殿下に泣きつけるよ』と。
なんて、愚かな。
ただ一つだけ安堵する。初めからわたくしが狙いなら、殿下はご無事でいらっしゃるだろう。
「国王、陛下のお足元で、このような暴挙……万死に値します……覚悟は、あって?」
「ご心配ありがとよ。だが俺たちゃ捕まんねーんだ」
ニタニタと笑う口元が目に入るだけで、嫌悪感が全身を伝い震えてしまいそう。怖い。気持ちが悪い。助けがほしい。けれど、怯えた顔なんて絶対に見せたくない。わたくしは淑女だ。フェリシアーノの娘だ。政敵の差し金に屈するなんて、あり得ない。
捕まる心配をしないなんて、黒幕は余程高位の貴族だろうか。それとも男たちが甘言を信じているのか。
巫女姫と親しくしていたのはほとんどが平民か下位貴族の学生だ。わたくしを退けて得をするような大貴族との繋がりはない。下位貴族が橋渡しをしていたとして、その貴族にまで恩恵があるだろうか。
『マリィ。嗚呼、わたくしのマリィ! 母が側に居ますからね。気を確かに持つのです! 嗚呼……可哀想に……』
取り乱した母の声なんて聞いたことがなかった。お母様。それほど憐れんでくださるのなら、どうして助けてくださらなかったの?
ぐるぐる、ぐるぐる、思考が回る。
急に胸を掴まれて、それが弾け飛んだ。
「やっ……何を!?」
「やわらけぇー」
驚愕、羞恥、そして怒り。一瞬血の気が引いて、それから噴出したように強い力で男の体を押し退けた。
「わっ! チッ、このアマァッ!!」
助けはない。だから、自分で逃げなくては。
怖くても、痛くても、苦しくても、走るしかない。人目のある場所を探して、走る。走る。それなのに、どうして誰もいないの……
迷路の出口を探し彷徨わせた視線の先。真っ赤な世界の切れ目に、見慣れた金と白銀を見た。
生成りと臙脂のワンピース。黒鳶のトラウザーズにシャツ一枚で、袖を肘まで捲って。
そんな背中を見た気がして、動けなくなった。
『マリィ、ねぇ、殿下がお越しくださるわ。だからお願い……どうかちゃんと目を覚まして、いつものように可愛らしく笑ってちょうだい……』
涙に濡れた囁き声。細い指が震えながら頬を撫でている気がする。
嗚呼、殿下……お会いしたい。けれど今あの凪いだ麗しい笑顔を前にしたら、わたくしはきっと貴方を詰ってしまうでしょう。
どうして、どうして──
「ったく、手間かけさせやがって」
「おとなしくしてりゃあ優しくシてやったのにな」
汚れて節くれだった繊細さの欠片もない指が、緻密なレース襟をぶちりと千切り捨てた。
信じられない。信じたくない。けれどわたくしが、殿下の後ろ姿を見間違うはずがない。ご無事でいらっしゃるのは喜ばしいことだけれど、だったらどうして、あんな風に巫女姫と仲睦まじく手を取り合って歩いていらしたの?
狙いはわたくしでも、国賓を伴った公務の最中に王太子殿下が襲われたのだ。現場が収まったのなら急ぎ兵を動かして、事態の全容を解明しなければならないのに。渦中にいらっしゃる御方がどうして、平民の格好をして街中を歩いているの? 殿下はそんな愚かな御方ではなかった。
信じたい。信じたくない。あれはきっと、殿下を騙る偽者だ。だってそう、トラウザーズは黒鳶だった。今日殿下がお召しだったのは、嗚呼、何色だったかしら? わたくしがお願いして着ていただいたジャケットの色は……
「……なに笑ってんだ? 気ぃ狂っちまったか?」
男に指摘されて気付く。わたくしは、きちんと微笑んでいるらしい。こんなにも、悲しいのに。
真っ赤で真っ黒な男の顔。夕陽に照らされては、本当の色なんてわからない。
「……いいえ。ただきっと、お前たちが得る報酬よりも今ボロボロにしてくれたレース襟の方が高額だろうと思ったのよ」
「このっ!」
頬を打たれる。男が汚ならしい言葉を吐いているけれど、痛みでそれどころではない。
痛くて、悲しくて、苦しくて、息ができない。
空は真っ赤で、けれど端の方から少しずつ闇が広がり始めていた。
どうしてだろう。わたくしは何を間違ってしまったのだろう。
ここは美しき王の都で、直接は知らずとも確かにわたくしを育んできた街の一画で、殿下と共に護っていくべき場所だった。治安も決して悪くない。憲兵も、今日は近衛だっていて、いつも以上に目を光らせていたはずなのに。そんな街の片隅で、どうしてわたくしが辱しめを受けなければならないの? どうして誰も、捜して助け出してくれないの?
手元には毒も懐剣もない。殿下とご一緒するのに、そんなものを帯びるわけがなかったから。自分の意思で死ぬことすらできない。
嫌だ。痛い。苦しい。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
心が、痛くて堪らない。
誰か、誰か、助けて。嗚呼、違う。助けて……
『……でんか』
◇◆◇
ぼやけた白い視界。真っ赤な闇ががくがくと揺れるのをぼんやり眺めていた気がするのに。
横たわる場所は固く冷たい地面ではなく、天蓋で囲まれた柔らかく暖かな寝具の上。シーツは寝汗で少し湿っているけれど、血や脂や埃の臭いはしない。思い出しただけで込み上げたものを、誰かが咄嗟に水桶で受け止めてくれてそのまましばらく背中を擦ってくれた。
「……落ち着いたか?」
低い声は厳めしくて、けれどわたくしを案じてくれているのだとわかる。
「……は……」
返事をしたくても胃酸で焼けた喉が痛くて声が出なかった。代わりに頷くことで応える。消耗した体ではそれすらも億劫だった。
差し出された水で口を濯ぎ、次いで出された白湯を少しだけ飲む。申し訳なさそうにその支度をしてくれたのはハンナだ。父が背中を擦ってくれている間も、後ろでアワアワと言っていた気がする。父が枕元にいたなら、ハンナは部屋の隅で控えていたのだろう。
「……今日は何月何日?」
「五月二十二日だ」
僅かばかりに落ち着いた喉から絞り出すようにして訊ねれば、父から簡潔な答えが返ってきた。その言葉で、やはりまた戻ってきたのだと確信する。
この身体は、穢されていない。けれどつまり、わたくしはあのままあの場所で、救われることなく死んだのだ。
誰も助けてはくれなかったのだ。
悲しみと怒りが胸を焼き尽くしていくようで、ひりひり、ちりちりと、痛くて堪らない。
ふと、自分の手首が視界に入った。ずっと押さえ付けられていた箇所だ。磨き抜かれた白い肌には傷も鬱血も見当たらない。それなのに、ニタリと笑う口元が脳裏をちらついて目眩がする。
わたくしはただ、殿下のお隣に居たかっただけなのに。巫女姫に、巫女姫らしくしてほしかっただけなのに。その願いは、あんな罰を受けるほどに罪深いものだったろうか……
「王太子殿下から、お見舞いを頂戴している。早めに礼状を作りなさい」
そう静かに言った父はたぶん、わたくしが早く通常の生活に戻れるように、と思ったのだろう。けれどそこから導きだされる事実が今は苦しくて、わたくしは違う答えを望んで訊ねた。
「殿下は、おいでに?」
「お前の病の原因がわからなかったのだ。こちらにお越しいただくわけにはいくまい」
「そうですわね……」
わかっている。殿下は王位継承の大切な御身。原因不明の病人のもとになど、いらっしゃるわけがない。二度目も三度目も、こちらに直接いらっしゃったことなんてないのだ。
それでも、ほんの僅かにでも、期待した。母の優しい嘘を信じたかった。
夢枕でもいい。殿下に、あの苦しみの中から引き上げてほしかった。赤に染まった裏路地では叶わなかった願いだから。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。
わたくしの“好き”は、穏やかでポカポカと温かい感情だったはずなのに。いつからか激しい炎に変わってしまった。己も周りも焼き尽くして、後には何も残らない。
「マリアネラ」
呼ばれるままに顔を上げると、眉間に皺を寄せた父と目が合う。険しい表情は憐れみか呆れか。けれど父の口から出たのは感情的な言葉ではなかった。
「週末には歓迎式典だ。それまでに体調を万全に戻しなさい」
先の予定を示し、わたくしに回復を促す。実に父らしい選択だけれど、もはやわたくしには死刑宣告にも等しい言葉だった。
嗚呼、また巫女姫がやってくる。わたくしから殿下を奪い、命までもを奪っていく、あれは“神の妻”などでなく“死神”だ。あの娘さえいなければ──
返事をできないでいるわたくしに、父は少し首を傾げながらもハンナに後を任せ、最後にわたくしの頭を軽く撫でてくれた。まるで小さな子供になったようで、前回の歓迎式典の帰り道のように、今なら何もかも許される気がして。
離れていく父に向かって咄嗟に手を伸ばし、服の裾をギュッと掴んだ。無理矢理引き留められた父は大層怖い顔をして振り返る。
「……なんだ?」
「お父様……」
自分でも自分のしたことに驚いてしまって、けれどそれが恐ろしい願いを孕んでいることには気付いていて、どうしたらいいのかわからない。
「どうした?」
父は眉間の皺を更に深くしながら、けれどわたくしに向き直ってもう一度訊いてくれた。
この願いを口にしたら、もう戻れない。けれど、もう他にどうしたらいいのかわからないのだ。もう、苦しいのも悲しいのも、嫌。
巫女姫さえいなければ、何も問題は起きない。殿下とわたくしも、ずっと穏やかな仮面夫婦でいられる。彼女の我儘に振り回されて、国が揺れるようなこともない。すべての元凶は、巫女姫だから。
だから……
「……巫女姫を、殺して」
父が狼狽えるところを、初めて見た。見開かれた目は深い海の色。そこに映るわたくしは、とても醜く笑っていた。