3-4.とまらぬ紅
危機は脱したように思えたけれど、過ぎてみれば我ながら無謀なことをしたものだと呆れてしまう。巫女姫を叱りつけ、髪を振り乱して殿下に直談判しただなんて、両親にはとても言えそうにない。
「マリアネラ様、伺いましたわ。遂にあの方にお灸を据えられたのですってね」
わたくしが巫女姫を叱責したという話は、学園内で瞬く間に拡がったらしい。喜色を露にした信奉者たちに取り囲まれ、わたくしは寒気と高揚感に戸惑いながら曖昧に微笑んだ。
「これでようやく学園にも秩序が戻りますわ。このところ皆、浮き足だっておりましたもの」
「えぇ。これまでがおかしかったのです。いくら隣国の姫君と仰られても、真に王家の血筋でいらっしゃるのは王弟であらせられた祖父君まででしょう」
「そうですわ。マリアネラ様の方が遥かに清い血筋でいらっしゃるのに」
「ご両親どちらを辿っても間違いなく王家の血筋に連なる、いずれは国母となられる御方と、庶子の庶子だなんて得体の知れないお人ですものねぇ」
「国賓への礼儀とマリアネラ様の寛大なお心のお陰で大きな顔をしていられたのに、そのマリアネラ様のご不興を買うなんて。あの方いったい何をなさったのです?」
扇子の陰で声を潜め、それでも興奮ぎみに事のあらましを訊きたがる同年代の少女たち。彼女たちもまた『淑女であれ』と育てられたわたくしの同類だ。
だから、淑女らしさからかけ離れた振る舞いをする巫女姫が理解できなくて疎ましいのだ。巫女姫を貶められる材料があれば、多少の違和感にも目を瞑るのだろう。例えば、王族である巫女姫を正論とはいえ叱責し泣かせまでした貴族の娘であるわたくしに、なんのお咎めもないことなど、むしろ彼女たちからすれば当然で喜ばしいことなのかもしれない。
「……皆様、大袈裟ですわ。わたくしはただ、巫女姫が無理難題を仰るので『できかねます』とお断りしただけですのよ」
「まぁ、それは……」
「子供の絵空事ですわ。そうですわね……『お城のような途方もない氷菓子が食べたい』ですとか」
少し表現を変えたけれど『街の屋台で売っている氷菓子』なんて、巫女姫には食べられない。『途方もない』願いであることに違いはない。
少女たちは一拍おいて扇子の陰でクスクスと笑い出す。それぞれに、巫女姫が何か『途方もない』ことを願ったのだと理解して。
「本当にお子様でいらっしゃるのですねぇ」
「それは呆れて叱られても仕方ありませんわ」
「ねぇでも皆様、わたくしも叱るだなんて教師の真似事みたいで恥ずかしく思っていますの。ですからあまり広めないでくださる?」
あまり細かい内容は、知られない方がいい。
巫女姫が身分制度を否定するような発言をしたことも、殿下がわたくしを庇ってくださったことも、非公式の謝罪も、お忍びの計画も、わたくしがそれを覆したことも、何もかも。知られて利になることなど、一つもないのだから。
わたくしにこれ以上話す気がないことを理解した少女たちは、無闇には流布しないと口々に請け負った。小鳥が囀ずるかのごとく楽しげに。
「それと、お人柄の粗暴さに閉口なさるのはわかりますけれど、お血筋をあげつらうのは誉められることじゃなくてよ。皆様の周りにだって、いらっしゃるでしょう」
「あ……お耳汚しでしたわね」
笑みを強めれば信奉者たちは顔色を悪くする。わたくしの不興を買ったとでも思ったのだろう。そして素早い連携で次に流行るドレスの話をし始めた。
これでたぶん『巫女姫が叱責された』という話はほどほどのところで収まるだろう。
出自は、本人にはどうしようもないことだ。区別の理由にはなるけれど、蔑む理由にしてはならない。
そう教えられはするけれど、高潔であり続けるのは難しい。貴族として正統な血を繋ぎ続けることと、国として貴賤を問わず優秀な人材を育み続けること。どちらも正しいことだから、時折対立してしまう。
わたくしは彼女たちの中で最も高潔であらねばならないし、今回はちょうどよく話題を逸らす材料になったから諌めただけなのだけれど。
◇◆◇
巫女姫と会ったのは、午後最初の講義がある大講堂だった。
信奉者たちと大講堂に入っていくと、先に席に着いていた巫女姫が「マリアネラ様ぁ!」といつものように満面の笑みで手を振ってきた。当然他の学生たちもわたくしたちへ意識を向ける。叱責されて仲が険悪になったと思われるよりはいいかもしれないけれど、やはりはしたない振る舞いに頭が痛くなった。
名指しされれば挨拶をしないわけにもいかず、巫女姫の席へ向かう。
「ごきげんよう、巫女姫様。大声を出さないでくださいましと、いつも申し上げておりますのに」
「えへへ、以後気を付けまーす」
ニコニコと、いつも通りの巫女姫。昨日の、そして三日前の涙は見間違いだったのかと思ってしまうほどに、その笑顔は無邪気なままだ。巫女姫の隣にはいつも通り侯爵子息が座っていて、彼もここ数日のことはおくびにも出さず礼儀正しく挨拶をしてきた。
「それでね、マリアネラ様。この前のお話なんですけど、私やっぱり視察に行きた──」
「巫女姫様、そういったお話は今ここではできませんわ」
わたくしは潜めた早口で巫女姫の言葉を遮った。こんな、全員が聞き耳を立てているような場所で何を言うつもりなのか。
「えー、どうして?」
「ここにいる者は基本的にまだ政に携わる立場ではありません。国賓の行事内容が学園から漏れるなんてことになったら大問題ですのよ」
「え、私もう皆に『絶対街に行く』って言っちゃいました……」
「……“皆”?」
訊かなくてもわかるし、訊きたくもないけれど、唇はちゃんと動いて言葉を発していた。
「ニコルとかジャンとかヒューイとか。あとケイトが美味しいお店教えてくれるって!」
これは無邪気なのか、悪意なのか、それとも単に頭が足りないのだろうか。気が遠くなりそうで、でもしっかりしなければ取り返しがつかなくなってしまう。
「巫女姫様、これ以上は──」
「だからねっ、マリアネラ様から王太子様に頼んでほしいんです! 王太子様はマリアネラ様のお願いなら何でも聴いてくださいますもん!」
音が、一瞬なくなる。
目の前の巫女姫は、いつか刃を刺し出してきた時のような冷たい目はしていない。ニコニコと、いつも通りに笑っている。それなのに、何かを断たれたような気がした。
「……そんなことも、あり得るかもしれませんわね。殿下とマリアネラ様は本当に仲睦まじくていらっしゃいますもの」
信奉者の一人が、朗らかにそう言ってくれた。わたくしは投げ込まれた藁にすがり付くような思いで必死に言葉を探す。
「……皆様の目にそんな風に映っているのでしたら光栄ですわ。けれど殿下は人ではなく奏上の内容で是非をお決めになる御方ですのよ。もしわたくしが、そうね、城一つで買えるような宝石を欲しがったとしたら、きっとすぐさま婚約破棄と蟄居を命じてくださいますわ」
「まぁ、そんなことお願いなさいますの?」
「そうですわねぇ。屋敷一軒ぶんくらいなら、いつかお願いしてみようかしら」
「そうなったら妃殿下でなく“浪費殿下”とお呼びしなくちゃいけませんわね」
「殿下が謹慎を命じてくださるから心配なくてよ」
大丈夫。このくらいならまだ冗談で誤魔化してしまえる。一瞬の間も、突拍子のないことで呆気にとられただけだと言って押しきれる。
動揺を悟られないよう、冗談を楽しんでいる様を装って巫女姫に笑い掛ける。それから残念そうに見えるよう少しだけ眉を下げた。
「わたくしも殿下も、貴女様のお望みを叶えて差し上げられませんの。もう他言なさっているからここでお教えしますけれど、視察でしたらまずは自国の駐在大使にご希望をお伝えなさいませ」
「はぁい……」
早鐘を打っていた心臓も少しずつ落ち着いていく。
大丈夫。
わたくしを助けてくれる人は、ここにもいた。
信奉者、否、友人たちと近くの席に着き、始まった講義に耳を傾けながら、わたくしは胸に灯る温かさを噛み締め微笑んだ。
「聞いたよ。私に宝石を強請るんだって?」
その日のうちに殿下が、わたくしが友人たちと学内のカフェで談笑しているところへいらっしゃって、そう楽しげな調子で仰ってくださったので、冗談の色は益々濃くなったように思える。
「はい、殿下。けれどもう改心いたしましたわ」
「それを聴いて安心したよ。君に蟄居謹慎を命じたくはないからね」
「まぁ、殿下。もしもの時にはお心を鬼にして命じてくださらねば困ります」
「そんな予定が?」
「ございませんけれど」
「よかった」
殿下のお優しさに、寄り掛かってはいけない。わかってはいても、殿下に凪いだ笑みを向けられると冷静でいられなくなっていた。
「このところお二人は本当に仲睦まじくていらっしゃいますわねぇ」
「分を弁えずに妬いてしまいそうですわ」
幸せがふわふわとそこらじゅうに漂っている気がして、怖くて、だけど掴んだまま離せずにいたのだ。
◇◆◇
巫女姫の王都視察はすんなり認められ、十月の半ばに裕福な市民向けの百貨店と初等学舎を訪問することが決まったそうだ。『開かれた王室』『隣国との良好な関係』をアピールするため殿下もご一緒なさるとのことで、わたくしにも正式に随伴の命が下った。
ただ、わたくしにはその二週間後に迫った孤児院慰問の打ち合わせもあるため、午前の百貨店へは殿下と巫女姫で向かい、午後の初等学舎でわたくしも合流することとなった。
視察当日。
王城の一室で子供たちへ贈る品を確認したり、移動や訪問用のドレスが仕立て上がってきたものにも不備がないか試着したりと、午前中は目が回るような忙しさだった。
慰問用のドレスというのは派手になってはいけないし、かと言って王家の威厳を損なうような貧相なものにはできない、加減の難しい代物なのだ。またそうやってできあがる民草に受けのいいドレスが更に簡略化されて市井で流行ったりするのだから、経済活性化のためにもただ無難なものでなく人を惹き付ける魅力的なものに仕上げなくてはならない。
「この少し大きめなレースの付け襟が次のトレンドです!」とデザイナーが熱く語るので、余分に持ってきていたサンプルのうち一つを買い取り午後のドレスに合わせることにした。
そうしていつもより少し控えめなドレスで馬車に乗り込み城下へ向かう。殿下と巫女姫は、巫女姫たっての希望でカフェで休憩中らしい。それを聞いた瞬間思い出したのは、巫女姫の言葉だ。
『美味しいお店教えてくれるって』
嫌な予感がして、少し急いでもらった。
いくら馬車が最上級品で王都の道が舗装されていても、速度を出せばそのぶん揺れる。少し気持ち悪くなりながらカフェに到着すると、その異様な雰囲気に益々頭痛がした。
普段は民が和やかに昼下がりを過ごしているのだろう可愛らしい店内に、揃いの制服を着て立ち並ぶ近衛たち。カウンターの前には店員らしい娘たちが青い顔をして立っている。そして中央のテーブル席には、殿下と巫女姫が向かい合って座っていた。
「……お待たせいたしました」
開けてもらった扉の先にいた人々から一斉に視線が飛んでくる。驚きと呆れと頭痛で、笑顔は少し強張ってしまっただろう。
「あれぇ? マリアネラ様はドレスなんですね」
「お二人とも……その、お召し物は……」
殿下は普通、視察であれば紫黒や藍墨茶のスリーピースをお召しになるはず。ご休息中だからハットやマントを取っていらっしゃるのはわかるけれど、ジャケットも脱いでしまわれてシャツの袖を肘まで捲って……そんなの裸と変わらなくて見ていられない。
巫女姫が着ているのは生成りの地に襟と袖口と裾の部分が臙脂に切り替わった膝丈の、まさにワンピース。断じて王族の姫君が身に付けるものではない。
「これね、百貨店で買ったんですよー。かわいいでしょ?」
この人は、何を言っているのだろう……
一度目も二度目も、確かに自由奔放だったけれど、ここまで貴族の価値観を蔑ろにする人物ではなかったはずだ。
意味がわからなくて、目眩がする。込み上げるものを必死で堪え扇子を開こうとするけれど、手が震えてうまくいかない。
王城から付いてきてくれた侍女が寸でのところでレストルームへ誘導してくれて、殿下の御前で粗相をすることだけは免れた。忙しくてほとんど何も食べていなかったのが不幸中の幸いだろうか。
「どうぞ、お気を確かに」
「えぇ、そうね……ドレスは、無事かしら?」
返事がないということは、汚してしまったのか。
「酷い? ショールか何かで隠せるといいのだけれど……」
「持って参りますわ」
「それから飲めるお水を。あと店員のお嬢さん方にお詫びをお願いね。責任者は誰だったかしら? 始末書を」
「妃殿下、どうぞ今しばらくお休みくださいませ」
侍女など、王城で官職を持つ者は既にわたくしを『妃殿下』と呼ぶ。だからわたくしは、それに相応しい振る舞いをしなければ。
「わたくしに『ここで休め』と? まずはお二人に馬鹿な真似を止めていただいて、学舎に中止の連絡とお詫びを入れて、どうしてかここに居ない駐在大使に抗議を申し入れて、視察計画の不備を検討するよう申し立てます。休むのはその後で結構よ」
「ですが、お顔色が……」
促されて鏡を見れば、確かにいつもより青白いけれど、わたくしはちゃんと笑えていた。淑女らしく微笑めば、それだけで余裕があるように見えるものだ。
「平気よ。随分楽になったもの」
痩せ我慢と言うより、それよりもすべきことがあるから。真摯に二人を諭すと、今がその時だと思うから、わたくしは震える足で立ち上がった。
汚れた部分を濡らした布で拭ってショールで隠し、侍女に手を引かれながら店内に戻る。
殿下が珍しく悲痛とわかるお顔をなさっていて、わたくしにジャケットを掛けようとしてくださった。それだけで勇気付けられたから、笑顔でお断りした。
「目のやり場に困りますから、どうぞお召しになってくださいませ」
「あぁ……すまない、そうだね」
引かれた椅子に腰掛けて背筋を伸ばし、巫女姫に視線を向ける。巫女姫は、わたくしよりも青い顔をして呟いた。
「やっぱり、お願いを聴くじゃない……」
殿下がジャケットをお召しになるのは当然だ。
「……さて巫女姫様。ご自分のなさっていることをご理解いただけましたか?」
「えっと……」
謝らない。あれだけ簡単に謝罪を口にしていたくせに、この状況で『悪いことをした』とは思っていないらしい。
「このカフェはそもそも経路に入っていないそうですわね。貴女様の我儘でこの店が被った損害をどのように補填なさるおつもりですの?」
「でも! 『王太子様が立ち寄られた』って噂になれば、もっとお客さんが来ますよ!」
「『他の客を追い出した挙げ句、店の品は一切お召し上がりにならなかった』という触れ込みで? あり得ませんわ」
この店が悪いわけではない。けれど王太子殿下ともあろう御方が、毒見もされていない物を召し上がられるわけがないのだ。わたくしたちはそういう風にできている。
「そのお召し物も、世間一般の感覚ではお可愛らしいのでしょう。けれど、“巫女姫様”が身に付けるものではございません。以前、そういうことをわかっていただきたいと、お話しさせていただきましたわ」
水色の瞳から涙が溢れてくる。けれど今日は、侯爵子息はいない。たまには自分のしたことに一人で向き合ってほしい。
そう願っただけなのに。
「マリアネラ、あまり巫女姫殿ばかり責めないで差し上げてくれ。私も経験のないことに、年甲斐もなくはしゃいでしまった……悪いのは、私だ……」
そう仰った殿下は、とても悲しそうなお顔をなさっていた。ずっと凪いだ翡翠の奥を知りたいと思っていたのに、どうして……
「殿下……」
「悪いのは、私だ」
そのたった一言で、握り締めていた指の隙間から幸せが零れていく。けれど、殿下がそう仰るのなら。
「……はい、殿下。巫女姫様も、わかってくだされば、それでいいのです……」
胸が痛くて、息ができなくて、それでも微笑んだ。そうすると、決めていたから。
殿下とわたくしは、婚約して十三年。年が明ければ丸十四年だ。それだけの刻を掛けても完全には重なれないのに。この二人はたった半日を一緒に過ごしただけで、培った矜持を軽んじてしまえるほどにお互いだけに没頭するのだ。
もう、わたくしに微笑む以外何ができるというのだろう。
「……帰りましょう」
◇◆◇
帰りの馬車は二台。片方に殿下がお乗りになり、もう片方にわたくしと巫女姫が乗り込んだ。殿下と巫女姫を一緒に乗せる気はなかったし、巫女姫から押し切られ着替えたワンピース姿を殿下に見られるのにも耐えられなかったからだ。
帰城を決めた後、巫女姫は涙を止めどなく流しながらようやく謝り、わたくしに他にも買ったらしいワンピースを押し付けてきた。
「馬車で帰る間だけ、せめて濡れたり汚れたりしてないものを着ててください」と。それに殿下も賛同なさって、侍女も「あまりにも痛ましくていらっしゃいます」と言うから仕方なく受け取った膝上丈のワンピースは、薄紅一色の地で裾にぐるりと白い花が刺繍されていた。薄い生地が心許なくて、足が出ているのが恥ずかしくて、殿下が貸してくださったマントを体に巻き付けた。
わたくしの体調を慮って、馬車の列はゆっくりと進む。蹄と車輪が石畳とぶつかる音が静かに伝わる車内で、巫女姫がぽつりと言った。
「私が着たら膝下丈だったんですけどね」
「身長が違いますもの」
「ですよね……」
ゆったりと座れるはずなのに、足が見えないよう膝を抱えマントにくるまっている自分が酷くちっぽけに思えた。侍女の気遣わしげな視線も、今は鬱陶しい。
「……その襟、かわいいですね」
「次のトレンドだそうですわ」
「すごぉい」
「大きな声を出さないでくださる?」
「あ、ごめんなさい……」
コルセットで凹凸を強調しデコルテを惜しげなく見せるドレスなら恥ずかしくないのに、押し込めた胸の辺りの生地が張り裂けそうになっているのが居たたまれなくて、せめて視線を散らそうと無事だったレース襟を付けてもらったのだ。
急に馬が嘶いて、車体が乱雑に停まった。
「何!?」
怒声と金属のぶつかる音がする。
何者かの襲撃。
そう判断したものの、王都の真ん中で王家の紋章の入った馬車を襲うなんて、正気の沙汰と思えない。どうして今日は、こうも理解の範疇を越えることが次々と起こるのか。そこまで考えて、血の気が引いた。
「殿下っ!」
「何してるの!?」
扉に手を掛けようとしたわたくしを巫女姫と侍女が強い力で引き止めた。
「離してくださいまし! 殿下をお守りしなければなりませんの!」
「落ち着いて! 貴女じゃ足手まといになるだけですよ!」
「でも殿下が!」
「大丈夫! 王太子様はお強いんでしょう!?」
「そう、ですけれど……」
万が一、かけがえのないあの御方を喪ってしまったら、この国が、わたくしの心が、壊れてしまう。
怖くて、怖くて、堪らない。馬車は……怖い……
「妃殿下、お気を確かに。御身も大切でございます。近衛たちを信じてくださいませ」
震える体と心を叱咤して、なんとか頷く。するとまた急に馬が嘶いて、馬車が猛スピードで走り出した。
「こ、れは!?」
恐怖と共に、絶望がのし掛かってくる。思考がどんどん鈍っていく。
怖い……こわい……
鈍い音がして車体が傾き、ガタガタと何かにぶつかりながらやがて止まった。
巫女姫が扉を開け、わたくしと侍女も外に出る。
「たぶん、馬と車を繋いでるところを切られちゃってたんでしょうね。とにかくあの場から遠ざけるつもりで誰かが鞭を当てて、でも途中で完全に馬が外れちゃったんじゃないかな」
「どうして、そんなことがおわかりに……?」
「だって現状、そういう風にしか考えられないじゃないですか。マリアネラ様、しっかりしてください」
巫女姫が頬を膨らませて言う。わたくしが見直したレポートが再提出と評価された時のような調子で。そんないつもと変わらない感覚に、少しだけ安心する。
通りの市民たちが「何事か!?」と集まってきた。
「憲兵に連絡を」
「いいえ、お城はもう見えてるし、私たちが向かった方が安全です。そしたら途中で会えるだろうし、ここに留まって誰か追い掛けてきたら危ないもん」
笑うか泣くかの印象しかない巫女姫が妙に頼もしくて、思わず従ったわたくしが愚かだった。
「市民の皆さんも、ここは危ないから憲兵さんに任せて建物内に避難してくださいね!」
車体が止まった時に怪我をしたと言う侍女を残し、あんなに大嫌いだったはずの巫女姫と手を繋いで、石畳を駆け出した。