3-3.こわれたいろは
心臓の音が煩い。きちんといつもの笑顔を作れているだろうか。
「……それで? 改まってどうしたんだい?」
殿下をお連れしたのは、嫌と言うほど見覚えのある小さな庭。校舎と古い温室の陰にあって、誰からも忘れられてしまったのか、名もない野の花が無秩序にぱらぱらと咲いているだけの、栄えある王立学園内だとは信じがたい閑散とした場所だ。
わたくしが、最初に死んだ場所でもある。
わたくしは荒れた芝生をゆっくりと踏み締め、最期の場所に立った。
わたくしは、ここからおかしくなってしまった。だから、やり直すならここからだと思うのだ。
深呼吸をして、殿下のいらっしゃる方へ振り返る。ほんの少しの彩りがわたくしを励ましてくれる。あれは二月のことで、庭の色はもっと褪せていた。世界が枯れ果ててしまっていた。
今はまだ、違う。
「……これから申し上げることで、殿下のご不興を買うやもしれません」
翡翠の瞳に見つめられるだけで、胸が苦しくなる。大好きで、大好きだからこそ。真っ直ぐには向き合えない。
「君らしくないね」
「“わたくしらしい”とは、何を以てそうなるのでしょうか? わたくしは……いつも殿下の御前で己を偽っておりますのに」
「……それが本当なら、悲しいことだ」
殿下は凪いだ笑顔を少しも変えられずに仰った。会話作法の教本に載っていそうなお返事だ。殿下とわたくしは、そういった言葉しか交わしてこなかった。正しい仮面夫婦であることが国家安寧のためだと、信じて疑わなかったわたくしたちだから。
「本当のことですわ、殿下。わたくしは、言いたいことをすべて飲み込んで、それが正しいと思っておりましたの」
「本来であれば、私に対して言いたいことが山ほどある、と……」
「はい、殿下」
「そう……どうぞ、言ってごらん」
殿下は翡翠の瞳を柔らかく細められ、そう仰った。『申せ』ではなく、『言ってごらん』と。それはつまり、王太子殿下としてではなく、一個人として、わたくしの話を聴いてくださるということだ。
なんだかもう、これだけで十分な気がしてくる。
頑なだったのはわたくしだけで、殿下には両親と同じように、いつでもわたくしと向き合ってくださるおつもりがあったのではと思ってしまう。
それで納得してしまえば楽なのに、どうしてか。小さな声で心が叫ぶ。
けれど、それなら何故、巫女姫にお心を寄せてしまわれたの……
わたくしの努力が足りなかったのだろうか。父に頼り、母に甘え、殿下をお慕いする心を告げる、そんなわたくしだったら、死なずに済んだのだろうか。
「……マリアネラ?」
黙ったままのわたくしを促すように、殿下が名前を呼んでくださる。
僅かに首を傾けられ、翡翠色は穏やかに凪いだまま。眩くて、愛しくて、もどかしくて、大好きで、やっぱり苦しい。
「……殿下。わたくしは、フェリシアーノ家の娘でございます」
父に頼り、母に甘え、殿下をお慕いする心を漏らすような小娘ならば、それはもう、わたくしではない別者だ。
「この身のすべてを王家と国家の御為に尽くせと育てられた、ただの娘です」
「それが嫌になった?」
「いいえ。いいえ、殿下。それはあり得ませんわ」
どんなに辛くても、この身に与えられた役割を厭わしく思ったことはない。だってわたくしは、どうしようもなく殿下が“好き”だから。
わたくしが言葉を強めたからか、殿下は否定も肯定も口になさらない。
「わたくしはマリアネラ・エヴァ・フェリシアーノ。王家と国家に忠誠を誓った一族の娘ですの。ですからわたくしは、これからも言うべきことしか申しませんし、泣きたい時でも微笑ってみせますわ」
「君は……それでいいと思っているの?」
「はい、殿下」
わかってしまった。
苦しくても悲しくても、何度繰り返すとしても、わたくしはわたくしとしてしか生きられない。
けれどそれこそが、わたくしの誇りだから。
「ただ……少しだけ、不安なのです。わたくしは己の力を過信しておりました。つい先日ようやく己の弱さを思い知ったような未熟者だと、殿下には、知っていていただきたくて……」
体の前で上品に重ねている両手。けれど下になっている左手は痛いくらいに握り締めている。その左手に、まだ力を込めた。
「わたくしの内にある愚かな娘の部分が、自分の選択を嘆いている時があるのだと、どうか……」
母は言った。お慕いするこの気持ちを殿下にお伝えしてはならない、と。他人に弱味を悟らせてはならない、と。
だからこれが、わたくしから殿下にお伝えできる精一杯。『言動と本心は必ずしも一致していない』という、貴族であればごく当たり前のことを敢えて口にすることの深意。それを殿下に許していただけるのなら、わたくしはこの先何があったって微笑んでいられると思うのだ。
けれど、嗚呼……
心臓が、煩い。殿下のお顔が近くて、凪いだ翡翠色の奥まで覗けそうで、でもそんな不敬なことはできなくて。
「マリアネラ。私も君と同じように本心を隠して生きているけれどね、これだけは誓って私の本心だ」
殿下のお声が、頭のすぐ上から降ってくる。握り締めていたはずの左手が、大きな両手で包まれていて、下げてしまった目線をそこから動かせない。ふわふわと、考えが纏まらなくなって、けれどふと、二度目にも似たような場面があったことを思い出した。
「君が婚約者でよかった」
耳元に落とされた、大好きなお声。全身に喜びが駆け巡って、どうにかなってしまいそう。
ゆっくり息をして、ちゃんとした笑顔を作る。今しがた『何があっても笑う』と決意したばかりなのだから。うち震える心を抑えて、淑女らしい優雅な微笑みで殿下にお応えした。
「勿体ないお言葉ですわ」
両親はわたくしを愛してくれていて、使用人たちはわたくしを一人の人間として重んじてくれている。そして殿下は、まだわたくしを婚約者として認めてくださっている。
これ以上、何を望むと言うのだろう。
きっと今のわたくしならば、巫女姫とも向き合える。殿下と巫女姫が恋に落ちたとしても『邪魔してやる』だなんて、醜くて恐ろしい感情にはきちんと蓋をして、真摯に二人を諭すことができるだろう。
そして全部、終わりにしよう。
◇◆◇
巫女姫の三度目の学園生活は、過去二回よりも更に笑顔に溢れていた。
「マリアネラ様! 一緒にレポートやりましょう!」
仔犬のように駆け寄ってくる巫女姫に向けて「やれやれ」と首を振れば、ぴたりと足を止め縮こまる。本当に、叱られた仔犬そのままだ。
「巫女姫様、そのように大声を出されるなんてはしたないと、先日ご忠告申し上げましたわよね? それに、もう走ったりなさらないと、これも先日お約束いただいたはずですわ」
「ふぇぇ、ごめんなさい」
「巫女姫様ともあろう御方が、簡単に頭を下げてはいけません」
「マリアネラ様は難しいことばっかり言うー」
棘の少ない簡単な言葉を選んで諭すわたくしを、巫女姫は前回ほどには恐れない。けれど叱られればここぞとばかりに侯爵子息や殿下に擦り寄った。
ただ、わたくしが敵意を剥き出しにしていないからか、子息の対応は前回よりずっと思慮深く穏やかだ。
「まぁまぁ、マリアネラ様は巫女姫様のためを思って厳しく言っておられるのですよ」
「それはわかるけど、悪いことをしたら謝らなきゃでしょう? でもそれもダメって言われたら、どうしたらいいかわかんないもん」
「一言『以後気を付ける』と仰って、それを守ってくださればよろしいのです」
「うぅ……気を付けます」
巫女姫の本質は、とても素直だ。それは美点であり、けれど貴族にとっては時に煩わしい。
感情のままに振る舞う巫女姫を、ほとんどの貴族は奇異の目で遠巻きに見つめ、けれどわたくしの忠告通り「子供だから」と笑って精々話の種にする程度だ。それでも目に余るような言動があれば、わたくしが先頭に立って諌めた。辛抱強く、幼児に言い聞かせるように。
『巫女姫は奔放だけれど、マリアネラの言うことは渋々ながら聴く』という認識が成り立つまでに、そう長くはかからなかった。
「最近、王太子様に会えないですねー」
侯爵子息に髪を触らせながら、巫女姫はそんなことを言う。彼の顔が強張るのを楽しそうに見ながら。
「殿下は公務がおありですから、他の方よりお忙しいのです」
「寂しいですよねぇ」
やきもちを妬かせたいのだろうか。わたくしに対し『自分には近くに恋人がいる』と。子息に対し『他の人を気にしている』と。
「駄々をこねても公務は減りませんもの。わたくしのできる範囲でお手伝いをさせていただくまでですわ」
「ふーん……」
最近の巫女姫は本当に子供じみた振る舞いをする。このままではいけないと思いながら、こんな巫女姫に殿下が惹かれるはずがないと、安心しているわたくしがいた。
そうやって、危うさから目を逸らしていた。
「街に行ってみたいの!」
空き教室で巫女姫の課題を手伝っていたある日、唐突にそんな話が出た。いつの間にか時間があえば当たり前に四人で過ごすようになっていて、殿下と侯爵子息もそれぞれ手を止め首を傾げる。
「何かご入り用でしたら、手配いたしますわ」
「そうじゃなくて。実際に街を歩いてお買い物とかしてみたいんです! あとね、氷菓子っていうのを食べたいなぁって」
水色の瞳をキラキラと輝かせ、巫女姫は笑う。それがどれだけ途方もない願いなのか、ちっともわかっていない。
「そんな危ないこと、できませんわ。氷菓子でしたら、お部屋付きの侍女にお申し付けくだされば、御膳にお出しできると思いますけれど……殿下、いかがでしょうか?」
「あぁ。その程度なら厨房も酌んでくれるだろう」
「そうじゃなくて! “屋台の”氷菓子が食べたいの。とってもおいしいんですって!」
「まぁ、どなたがそんなことを?」
それが平民や街に降りるような下位貴族の学生たちから仕入れた情報だというのは、訊くまでもないことなのだけれど。
明るく素直な巫女姫は、特に礼儀や貞淑さを重んじる高位貴族を中心に疎まれているけれど、他の貴族にはない親しみやすさで平民の学生たちからは好意的に見られている。
彼らと親交を持つことで巫女姫の世界が拡がるのなら、それは善いことだとわたくしは思う。そうすることで、殿下との接触が減るのだから。
ただ、何をやってもいいわけではない。国賓の王族が一般市民に紛れて街を歩き回るだなんて、無謀過ぎる。けれどいくら説明しても、巫女姫は納得しない。
「せめて“視察”の体裁を取りませんと」
「それってどのくらいかかるの?」
「議会での承認の後、日程、人員調整、隣国に了承を仰いだりの諸々……一ヶ月もあれば」
「そんなんじゃ夏が終わっちゃう!」
どうしてこうも我儘になれるのか。
つい扇子を開いてその陰で溜め息を吐くと、巫女姫が立ち上がって金切り声を上げた。
「マリアネラ様はそうやって、いっつも私をバカにしてる!」
「巫女姫様、お言葉が過ぎます」
「子息様は黙ってて!」
それはあまりにも突然で、けれどいつ訪れてもおかしくはない崩壊だった。
涙に濡れた水色の瞳。怒りと屈辱で震える姿に、胸が苦しくなる。
わたくしは、また間違えてしまった。
「私のこと、陰で『子供だ』って笑ってるの、知ってるんだから! 貴女と比べたら、確かに私はバカでダメな子だけど! でもそんな風に否定されたら傷付くよ!」
だったら、他にどうすれば貴女は素直にわたくしの話を聴いてくれたの?
「巫女姫殿。その言葉、そのままお返ししよう」
「王太子様!?」
「殿下……」
わたくしと巫女姫の間に割って入られた殿下のお背中は、とても大きくて。
「貴女の振る舞いが子供じみているのは事実でしょう。マリアネラは淑女の規範に則って貴女を諭してきただけだ。視察を提案したのも、貴女の希望を叶えるために我々ができる最大限の譲歩だからだ。それを貴女は否定した。王族からの否定が彼女の人格と権威をどれだけ傷付けるか、考えは及びませんでしたか?」
「私……私はっ……」
殿下に守っていただくなんて。この上ない喜びで、けれどあまりに畏れ多く申し訳なくて。本来はわたくしが、殿下をお支えしなければならないのに。
守ってくださる背中の陰から出て、殿下のお隣に並び立つ。
巫女姫は細い肩を侯爵子息に支えられてなんとか立っているような有り様で、とても痛々しくて。大嫌いなはずなのに罪悪感が込み上げた。
巫女姫が涙の残る目でわたくしを睨んでくる。
まだ夏なのに、こんなところで終わってしまうのだろうか。やっと、独りではないことを知ったばかりなのに。
「巫女姫さ──」
「貴女たちって、すっごくおかしい!!」
可愛らしい声を高く震わせて、巫女姫が叫ぶ。
「平等を謳ってるくせに、実際は学歴と身分に縛られてばっかり! 私を街に行かせないのも『相応しくないから』って。そこに生きている人たちを何だと思ってるの!? たくさんたくさん線を引いて、自分と違う人のことは知ろうともしてないじゃない!!」
論点がずれてしまっている。けれど、衝撃的な言及だった。
貴族と平民は、相容れない。貴族の中にさえ、絶対的な階級がある。
そんな当たり前のことを、身分制度の頂点に立つ存在が真っ向から否定するなんて。この人は何を言っているんだろう。
「巫女姫様、少し落ち着いてお話いたしましょう?」
「うるさいっ!」
このままでは壊れてしまう。そう思って歩み寄り差し出した手は、細い腕からは想像のつかない強い力で打ち払われてしまった。
「マリアネラ!」
「巫女姫様!」
よろけたわたくしを殿下が支えてくださって、部屋を飛び出した巫女姫を侯爵子息が追い掛けていった。
けれどわたくしには、そんなこと、もうどうでもよかった。
「怪我は?」
「大事ありませんわ」
こんな時だというのに、わたくしの心は暗い喜びに震えていた。いや、身体も震えていたのだろう。殿下が何度も肩を撫でてくださる。それがわたくしを更に喜ばせた。
殿下が、巫女姫ではなくわたくしを、選んでくださった。
衝撃、混乱、そして狂喜。ぐるぐると廻る感情が行き着く先は“好き”の一言で片付いてしまう。
「殿下……わたくしは巫女姫様に酷いことを……」
「それでも、間違ってはいない」
「嗚呼、殿下……」
頭の中で、警鐘が鳴っている。殿下が「是」と仰るなら、わたくしはどこまでも愚かになってしまうと気付いてしまった。わたくしたちは誠意を持って互いに律し支えあい共に立っていなければならないのに。こんな風にどちらかが寄り掛かってしまっては、崩れてしまうのに。
殿下と向き合っては、いけなかった。そのお優しさに気付いては、いけなかったのだ。
◇◆◇
巫女姫から非公式の謝罪があったのは、二日後のこと。そして同時に、週末に予定されたお忍びでのお出掛けに誘われた。
出掛けるのは、巫女姫、わたくし、そして殿下と侯爵子息の四人。街には通常の憲兵の他に近衛兵を配置。二人での肖像画が出回っている殿下とわたくしが連れ立って歩けば、身形を誤魔化しても民が察するだろうと、民の愛国心と良心に成り行きを委ねた危うい計画だ。
「このお話、両陛下は?」
「両陛下にお話ししたら、お忍びじゃなくなっちゃいますよ」
巫女姫はすっかり機嫌を治してクスクスと悪戯っ子のように笑っている。
「ですが巫女姫様に万一のことがあっては……」
「マリアネラ様はそんなに自国の民が信じられないんですかぁ?」
そういう問題ではないのだと、言っても無駄なのだろう。巫女姫は自分を閉じ込める檻を壊すことしか頭にないのだ。『王族の末席という身分も巫女姫という肩書きも、何もかも捨ててしまいたい』と、追ってきた侯爵子息にすがり巫女姫は泣いたそうだ。
「責任は私が取るよ」
そんなことを軽々しく仰る殿下が眩しくて、少し、怖い。
巫女姫の意を酌んだと仰るけれど、わたくしへの謝罪を条件に据えている歪さにどうして誰も何も言わないのか。どうしてわたくしは、それをお諌めしないのか。こんなおかしな話、進めてはいけない。
しっかりしなければ。わたくしは、フェリシアーノ家の娘なのだから。
わたくしは意を決し、殿下のお足元に身を投げ出して、髪が乱れるのも構わず深く深く頭を下げた。
「マリアネラ!?」
「殿下、どうかお考え直しくださいませ」
何事もなく終わるのならいい。けれど、最悪を想定した時、殿下に責が及ぶことは絶対にあってはならないのだ。
「マリアネラ様、そんなに私に怪我とかしてほしいんですか? そんなに私が嫌いですか!?」
大嫌いよ、このわからず屋!
「そうなったら取り返しがつかないから申し上げているのです!!」
わたくしの剣幕に、巫女姫が小さく息を飲んだ。普段出さない大声に喉が痛むけれど、そんなこと構っていられない。
「巫女姫様。貴女様は嫌がっておいでですが、紛れもなく隣国の姫君なのですのよ。御身の掠り傷一つで人が死ぬことを、どうしてわかってくださらないのですか!?」
「あ……」
「生まれが違えば交われぬこともあるのです。パン屋に小麦の収穫高を取り纏め税率や備蓄用の買取り額を決めることはできません。。水産庁の役人では船に大漁旗を揚げることはできません。わかっているから棲み分けるのです。貴女が道を歩く間、花売りの娘は中身の見えない篭を持つことを許されないのですよ!」
「ごめ、な、さ……」
「マリアネラ、もう、わかったから……」
殿下のお手を借りて立ち上がる。巫女姫は侯爵子息の胸で泣きじゃくっていて、子息はわたくしに対し怒るに怒れない複雑そうな顔を見せた。
ごめんなさい。
『邪魔してやる』と、思っているわけじゃないの。ただ、貴女の望みはこの国や殿下にとって、あまりにも危うい。叶えてあげることは、できないの。
「……巫女姫様ともあろう御方が、簡単に頭を下げてはいけません」
巫女姫はしゃくりあげながら、小さく頷いた。