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3-2.こうかつな青

 わたくしは自分で思っていた以上にまだまだ子供で、何もかもを一人で抱えられるほどには強くなかったらしい。

 心細くて、助けてほしくて、けれどそれをどう言葉にしたらいいのかすら知らなかった。




 殿下をお慕いしていることは、やはりあまり表に出すべきではないと母に言われた。今まで通り、婚約者として臣下として殿下をお支えする姿勢を保たなければ、周囲の反感を買うだけだから、と。

「辛いでしょうけれど、政略婚の相手を好きになれるというのは本来、幸せで尊いことよ。貴女は間違っていません。誇りなさい」

 そう。わたくしは大変な果報者なのだ。この気持ちをただ大切に抱き締めていればよかったのに、どうしようもなく欲張りで。


 返事をしないで俯いていると、母のほっそりとした手がわたくしの頬に触れた。促されて顔を上げる。

「気持ちを殺す必要はないけれど、他人に弱みを晒すのは貴女のためにならないわ。真の夫婦となったらその時、殿下にだけお伝えなさいな」

 優しい目。優しい言葉。頷いてしまいたい。

 けれど……


「わたくしはもう、殿下に相応しくないのです」


 殿下に気持ちをお伝えする未来なんて、思い描けるわけがない。


「何故そう思う?」

 父は母と違って容赦なく、わたくしを醜い己の内面と向き合わせる。

 巫女姫への嫉妬、殿下への強欲、昂る感情を律することのできない弱さ。すべてをもう一度、わたくしの口で説明させる。目を逸らして逃げることは許されない。

「……なるほど。確かに淑女らしからん心持ちだが、自分で理解しているのなら問題ない」

「……え?」

 再び俯いてしまっていた顔を上げると、父の深い海のような目がわたくしをまっすぐ見つめていた。自然と丸まっていた背筋が延びる。

「世情を鑑みて、お前が一番王太子妃に相応しい。その点は変わりないのだ。お前の心の問題だというのなら、精進しなさい」

「でも……」

「お前は賢い娘だから、理に沿わないことを嫌う。その気持ちはわかる。だがよく考えなさい。お前の心情が王太子妃に相応しくないというのは一理あるが、政略上、王太子妃にはフェリシアーノ家の娘が相応しいというのもまた自明の理。どちらを選んでも、間違いではない」


 とてもズルい選択だ。

 殿下のお隣に相応しくないとわかっていながら、その場所を完全には諦められないでいる。だから、誰かに『マリアネラ・エヴァ・フェリシアーノこそ、王太子妃に相応しい』と言ってもらいたかった。

 わたくしが望んでいるわけでなく、周囲がそれを善しとしているなら、もう一度堂々と殿下のお隣に立てる。これは正しいことだと、納得してしまえる。


 そして父は、わたくしの欲しい答えをくれた。


「……でしたらわたくし、フェリシアーノ家の娘に相応しい淑女でいられるよう努力しますわ」

「マリィ……どんな貴女でも、わたくしたちの大切な娘ですよ」

 母は黒い瞳を潤ませて言い、父はゆっくりと頷いてくれた。





  ◇◆◇





「だから申し上げたではありませんか。『お二人ともお嬢様を大切に思っていらっしゃいます』と」

 再び寝台の上の住人となったわたくしに、ハンナは呆れ顔で言って、優しい声で続ける。

「それから僭越ながら、私共もお嬢様をお慕いしておりますのよ」

 それが単に主従だからというわけでなく、家の力関係だとかコネ作りだとかの他意を含むわけでもないことは理解できた。

 ただ、引っ掛かることもある。


「……どうして?」


 少し気持ちが落ち着いてから沸き上がった、疑念と期待。

「どうして“今回は”皆、助けてくれたの?」

 わたくしが大切だと、慕っていると言うのなら、どうして過去二回は誰もわたくしに寄り添い助けてくれなかったのか。

 突然もたらされた優しさに、最初はすがり付いたけれど、時間が経つほど喜びより戸惑いが増した。

 けれど、もしかするとハンナや両親も繰り返していて、過去の教訓の元、今回は手を差し伸べてくれたのではないか。

 それならばもう、一人で思い悩まなくていい。それで納得しようと、鍵になる言葉に期待を込め僅かに強めて訊ねた。


「……“今回”ということはやはり、お嬢様はずっと平気なお顔をして耐えていらしたのですね」

 けれどハンナの答えは、わたくしの求めたものではなかった。

「お嬢様は、お小さい頃から利発で、決して弱音を仰らないお子でした。お嬢様ほど『小さな淑女』という表現が似合った方を、私は未だ他に存じ上げません」

 あのお喋り好きのハンナが、訥々と語る。

「旦那様は、お嬢様が重圧を感じていらっしゃらないか、年相応の子供らしい部分を圧し殺していらっしゃるのではないかと、ずっと気に掛けておいででした」



 この国の貴族の婚約は、概ね十歳前後に家格や政略、本人の資質等を考慮して決められる。けれど殿下とわたくしの場合は違った。

 婚約を結んだのは、殿下が四歳、わたくしが二歳になる少し前のこと。

 国王陛下が即位なさってすぐ大病を召され、万が一の時遺される幼い殿下をお支えするよう父が仰せつかったのだ。わたくしとの婚約は、その約束手形のようなもの。王妹殿下が降嫁なさった公爵家が後見となり、義父であり忠臣かつ大身である父が先頭に立って実務をお助けする。そうすればいかに殿下が幼くていらっしゃっても、もう一つの公爵家当主──陛下の従兄閣下を祀り上げ国を割るような事態にはならないだろうと、青写真は描かれたのだ。


 当時やっといくつか言葉を覚えた程度のわたくしに、誰が王太子妃の資質を求めようか。わたくしはただ“フェリシアーノ侯爵の娘”であるというだけで、情勢など知る由もなく、国中どころか世界中の娘が憧れる王太子殿下の婚約者の座に収まった。

 そして父は、物心がつく前のわたくしに未来の王后として能うだけの教育を施し始めた。いずれわたくしが家名だけの能無しと謗られることのないよう、誰よりも厳しく。


 幸いにして、陛下のご容態はゆっくりと快方に向かわれ、一年後には無事政務にも復帰なさった。婚約は白紙に戻すことも検討されたらしいけれど、無用な混乱を避けるため据え置かれた。

 その直後の春の宴で、わたくしは父に抱かれて帰宅したらしい。


 教育はそこから一層厳しくなった。諸々の事情を理解できる歳になり、寄宿学校に入ってからは、同学年は当然として年長の少女たちよりも完璧な淑女であることを求められた。

 わたくしが少女たちの頂点に立つことで、将来の殿下の御代を安らかに保つための布石となる。そう理解していたから、わたくしは何があろうと会得した淑女らしい優美な微笑みを決して崩さなかった。


 そんな当然のことを父は気にしていたのだと言う。



「お父様は、何も間違っていないわ。何を気に病むことがあるの?」

「お嬢様があらゆることにおいて、ご自分のお気持ちよりも政治的見解を判断基準となさる、そういう部分をですよ」

 ハンナが少し、眉を下げる。わたくしは同じような表情を返した。

「わたくしは常に、国と殿下のために最善を尽くしたいと思っていたわ……」

 そういう意味で、わたくしはずっと自分の気持ちを通してきた。

 些細な嫌がらせに傷付いたり気の休まる時がないことを嘆いたり、そんなそぶりを他人に見せることは、殿下のお隣に並び立つ淑女として有り得ない。そう、わたくし自身が判断したのだ。父のせいではない。


「わたくしが訊きたいのは……『どうしてここ数日、皆いつになく優しいの?』って、それだけなの……」

 昔のことなんてどうでもいい、と言うのは少し語弊がある気もするけれど、幼い頃にあった辛いことはほとんどすべて耐えられたのだから問題ない。

 わたくしがどうしても耐えられなかったのは、巫女姫と殿下に関することだけ。わたくしが殿下を想ってしてきたことが、ことごとく悪い結果となって廻っている。国策と殿下のお心とわたくしの我儘が食い違って、身動きが取れなくなってしまった。この状況を、切り開く手が欲しい。

 ただ、それだけ。


 するとハンナはポカンと口を開けてから、まさに苦笑という顔をした。

「それは勿論、先日お嬢様がお目覚めになってすぐ私に抱き付かれたからじゃありませんか」

「あれが……原因?」

「お熱を出されてただでさえ心配しておりましたのに、あんなふうに取り乱されたのですよ。すぐに旦那様と奥様にご報告いたしましたから、お二人ともいつも以上にお嬢様に気を配っていらしたのでしょう」


 ハンナは確かに言った。わたくしが取り乱すのは初めてのことだと。

 そして思い返せば、わたくしは一度目も二度目も、最期まで誰かに頼ることをしなかった。噂を操り憂慮を口にしはしたけれど、「辛い、助けて」とは、誰にも言わなかった。たぶんそんな選択肢は頭にもなかったのだ。

 けれどハンナの口振りから察するに、わたくしが求めさえすれば救いの手はいつでもあったらしい。

「……そうだったのね」

「お嬢様?」

「……少し、一人にしてくれる?」

「これだけ説明しましたのに、まだお一人で抱え込まれるおつもりですの?」

「そうじゃないわ。少し疲れたから、休むだけよ」

 心も頭も、いっぱいになってしまっている。一人でゆっくり考える時間が必要だった。



 ハンナが心配そうな顔のまま退出すると、わたくしは寝返りを打って枕に顔を埋めた。

 一度目からわたくしが両親に頼っていたら、結果は変わっていたのだろうか。二度目が始まってすぐ取り乱していたら、こうして両親の思いを知るのも早かったのだろうか。

 考えても、仕方のないことなのに。息苦しくなって顔を上げた。寝返りを打ち直して起き上がる。


 過去二回、わたくしは助けを求めなかった。自分でなんとかしなければと思っていたし、人に弱味を見せることは選択肢になかったのだ。苦しみに気付いてくれなかった周囲を責めるのは間違っている。

 今回は辛い時頼れる相手がいることを知れた。それを喜ぶことの方が、ずっと大事だ。


 寝台から下りて向かったのは鏡の前。壁に嵌め込まれた大きな鏡面に映るのは、父譲りの黒い髪母譲りの黒い目をした、淑女の笑みを湛えた少女。

 大丈夫。わたくしはまた、頑張れる。


 両親はわたくしを愛してくれていて、使用人たちはわたくしを主の娘ではなく一人の人間として重んじてくれている。

 そんな戸惑ってしまうくらいに大きくて温かいモノに、見合うような自分でありたい。

 学園に復帰する頃には、そのくらい前向きな考えを持てるようになった。休養が必要だったのは身体よりも心の方で、覚悟を決めて被り直した淑女の仮面はきっと前より強い。





  ◇◆◇





 学園に戻ったわたくしを誰よりも喜んで迎えてくれたのは、巫女姫だった。

「元気になってよかったですね!」

「ご心配いただきありがとうございます」

「ううん、私より王太子様の方がずぅっと心配していらしたんですよ」

 殿下の腕にしがみついていなければ、その言葉はわたくしと殿下の仲を取り持ってくれる優しさに満ちて聞こえるだろうに。

「まぁ。それは、お心を煩わせまして……」

「そうだね、胸が張り裂けるかと思ったよ」

 ご冗談に、巫女姫がキャラキャラと笑う。それを微笑ましく見つめていらっしゃる殿下と侯爵子息。わたくしが不在の数日間でこんなにも親しげになれるのだから、やはり巫女姫は人を惹き付ける天性のものを持っているのだろう。

「お二人がご案内役を?」

「そうなの! お二人とも忙しいのに、たくさん助けてもらっちゃって」

「学園生活を楽しんでいらっしゃるのでしたら、何よりですわ」

「これからはマリアネラ様も一緒だから、もっと楽しくなりますね!」

 水色の瞳を輝かせる巫女姫の天真爛漫な笑顔は、わたくしが作るものとは違う。涙を浮かべて睨んでくる顔よりは好ましいけれど、淑女としては不合格だ。殿下がこの笑顔を“好き”だと仰るのなら、わたくしは大嫌いだと言ってしまうだろう。


 挨拶回りのために三人と別れると、信奉者たちがわたくしを取り囲む。

「マリアネラ様! お元気そうで何よりですわ」

「心配しておりました」

「皆様、ありがとう。もう大事ありませんわ」

「それであの……申し上げにくいのですけれど……」

 皆気不味そうな顔を扇子で隠して、けれど僅かな好奇心は隠しきれずに、チラチラと目配せしあって言い出す者を待っている。やがて一人が口を開いた。

「巫女姫様の……あのようなお振る舞いは、よろしくないと思いますの」

 嗚呼、なんだ。

 思わず溜め息が漏れそうだった。

「……初めての経験に舞い上がっておいでなのでしょう。あの方のことは、そうね、寄宿学校に入りたてのお子様だと思って見て差し上げましょう」

 わたくしが何かしなくとも、巫女姫は既に女性陣からの不興を買っていた。


 巫女姫の行動を観察する上での心得は、わたくしが休んでいる間に考え抜いて決めたものだ。思い至った時にはすっかり納得してしまった。それは信奉者たちも同じだったようで、クスクス笑いを扇子で隠して何度も頷いてくれる。

 もう淑女らしくない振る舞いはしないようにと思っているのに、こうしているとつい巫女姫を追い落とす算段を始めてしまいそう。

「では皆様。そういうことですから、しばらくは大目に見て差し上げてね?」

 巫女姫を庇うつもりはないけれど、わたくしはもう自分を恥じたくない。これが精一杯の妥協点だ。

 教授陣への挨拶を言い訳にその場を後にする。

 たぶん明日にでも、巫女姫の場を弁えない行動すべてが「子供のすることだから」と笑って済まされるようになるだろう。それが本人のためになるかはわからないけれど。



 各方面に挨拶を済ませ、今日一番の勇気を振り絞って、わたくしは殿下に声をお掛けした。

「少し二人で、お話ししたいことがございます」

 殿下は少し驚かれたようなふりをなさって、いつもの凪いだ笑顔を見せてくださった。

 一緒にいたがる巫女姫を宥めるための笑顔は、まだわたくしに向けてくださるものとさほど変わりないように見える。


 殿下にもきちんと訊かなければならない。わたくしのことをどう思っていらっしゃるのか。

 それからでも、今度は遅くないと思うのだ。




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