3-1.ほどける黒
白く歪む世界で目が覚めた。どうして覚めてしまったのだろう。
わたくしは、今度こそ死んだはずなのに。
ここがまた、あの目覚めた日だと、確かめるまでもなく理解してしまった。
「まぁっ! お嬢様、気が付かれましたのね。あぁ、よかった!」
ちっともよくない。
どうしてわたくしは、また戻ってきているの?
光が強すぎて白っぽい視界がぼんやりと滲んで、わたくしを覗きこむハンナの輪郭さえわからない。
「お嬢様っ!? 苦しいのですか!? す、すぐにお医者様を呼んで参りますから、どうかお気を確かにっ!」
苦しい。
とても、とても苦しい。たくさんの後悔を抱えたまま、真っ赤な闇に溺れてしまいそう。
歯を食い縛って、唇を引き結んで、こみ上げてくるものを押し込める。
どうして。
どうして繰り返さなければいけないの? あんなに辛いのに、またやり直さなければいけないの? わたくしはもう、殿下のお隣に相応しくないのに。
もう、邪魔する資格なんてないのに。
殿下のお顔、喉を焼く無味無臭、叶わない夢。そんなものが一気に思い起こされる。痛くて苦しくて悲しくて、おかしくなってしまいそう。
時が戻るのなら、この恐怖も絶望も一緒くたになかったことにしてくれればいいのに。わたくしの中にだけ記憶が積み重なったままなんて、あんまりだ。
「……もう十三年お仕えしておりますけれど、お嬢様が取り乱されるなんて初めてですわね」
ハンナの声が、とても近い。それは触れ合っているところから振動となって直接伝わってくるもので、とても温かくて、わたくしはようやく、彼女の胸にすがり付いていることに気付いた。背中を撫でてくれている手が心地好い。
「ずっと魘されておいででしたもの。怖い夢でも、ご覧になりましたか?」
「ゆ、め……」
「えぇ、ご安心なさいまし。ただの夢ですわ」
夢だったら、どんなによかったか。ハンナは優しく言うけれど、わたくしはわたくしの死を、悲しみを、ただの夢にはできない。
寄り掛かっていた身体を離せば、ハンナはニコニコと、けれどそれは彼女の常なのでまるで何事もなかったかのように、わたくしの世話をし始めた。熱で汗をかいた身体を濡らした布で拭って清め、寝間着を替え、乱れた髪を整えていく。
されるがままのわたくしに、ハンナは明るく声を掛ける。
「お嬢様を抱き締めてお慰めしたなんて、お屋敷中の者が羨ましがりますから内緒にしておきますわね」
きっとそれは、ハンナなりの気の利かせ方。「役得ですわ」なんておどけて、わたくしが気に病まないように。
わたくしはそんな言葉を上の空で聞きながら、先程までの温かく心地好い感覚に思いを馳せた。
あんな風に誰かに抱き締めてもらった記憶は、ほとんどない。あるような気もするのだけれど、たぶん、歩くのも覚束ないくらいに幼い頃のことだろう。
否、でも……
胸が締め付けられるように痛くて、でも酷く懐かしい気持ちになるのは……
「……お父様がわたくしを抱き締めてくださったの、いつだったかしら……」
「それは……」
いつも厳めしい顔をして、自分にも他人にも甘えを許さない父。そんな父が、わたくしを抱き締めてくれたことがあった。
あれは確か、殿下の婚約者として初めて公の場に出た時のことだ。殿下が寄宿学校に入学される直前の、春の宴。わたくしは三歳になったばかりだった。
朧気にだけれど、覚えている。
父はわたくしを子供扱いせず、侯爵家の一員、殿下の婚約者、未来の王后として完璧であるよう常に諭してきた。けれどあの日は、いつも厳しい父が宴の席からわたくしを抱いて帰ってくれたのだ。
ちょうどハンナがしてくれたように、屋敷に帰り着くまでの馬車の中で、ずっと背中を撫でてくれた。
あれはきっと、間違いなく……
「……お父様は、わたくしを大切に思ってくれていたのね」
「当然でございましょう。まさかお嬢様、旦那様は国王陛下のことしかお考えでないと本気で思っていらしたのですか?」
ハンナが驚いた顔をするから、こちらが驚いてしまう。
父のわたくしへの接し方は『愛情たっぷり』というより、職人が王家への献上品を作る際の『丹精込めて』という表現の方が的確なのだから。これは十人が十人、賛同するはず。
「旦那様も奥様も、お嬢様を大切に思っていらっしゃるに決まっているではありませんか。お嬢様がお倒れになってからも、それはそれはご心痛のご様子でしたのよ」
前回は他人事のことのように聞いたその言葉が、ひび割れた心にじんわりと沁みて痛かった。
◇◆◇
起きてすぐ取り乱したこともあり、医者には「もうしばらく安静に」と言われてしまった。
けれど歓迎式典への出席は許されるのだから、やはり起こると決まっていることはどう足掻いても変えられないらしい。
医者もハンナも退室して、一人になったわたくしは二度目の最初と同じようにぼんやりと風に揺れる天蓋の薄布を見上げた。
前回、時間が戻ったことをすんなり受け入れられたのは、きっとわたくし自身があの終わり方を認められずやり直すことを望んでいたからだろう。
けれど嫉妬と恨みに身を任せやり直した結果は酷いもので。もうあんなことを繰り返す気にはなれなかった。
「これから、どうしたらいいのかしら……」
誰に向けるでもなく、ぽつりと口に出してみた。まさに途方に暮れている。
また戻ってくるなんて、思わなかったのに。『死んでも死にきれない』なんて、一瞬でも考えたせいだろうか。だとしたらわたくしが死んだ後で、やはり殿下にまで何かしらの処分が下されたのだろうか。
わたくしのせいで、殿下が……
頭を振って悪い考えを無理矢理追い出す。
過ぎてしまったことを悔やんでもどうしようもないし、今この次元にいらっしゃる殿下と過去二回の殿下はたぶん別の存在だということも理解はできる。けれど殿下が殿下であることに変わりはなくて、わたくしが殿下にご迷惑をお掛けした事実は揺るぎようがなくて、ならばいったいどんな顔をして、今の殿下にお会いすればいいのだろう。
巫女姫に対してだって同じ理屈が当てはまるはずなのだけれど、わたくしが何をおいても一番に考えるのは殿下のこと。きっとこの気持ちは、何度死んだって変わらないのだろう。
呆れて笑ってしまうくらいに、苦しくて、悲しくて、嬉しい。
だからこそわたくしは、この気持ちをきちんと断ち切らなくては。
もはやわたくしには、殿下のお隣に立つ資格なんてないと思っている。
けれど婚約解消だって、簡単にはできない。今の時点では、わたくしを「王太子妃に相応しくない」とするだけの理由がないからだ。まさか『わたくしはもう三度目で、過去二回殿下や巫女姫に大変な無礼を働いた』と言って婚約を辞するわけにはいかないだろう。誰も信じてくれない。嗚呼でも、気が触れたと思ってもらえるだろうか。
また自分から“相応しくない”行動を起こすのは嫌だった。巫女姫を憎んで傷付けたって、誰も幸せになれないのはわかっている。無駄だということも。
結局、わたくしに残された選択肢は、一度目の時のように何も言わず何も見ていないふりをして、巫女姫が帰国するまでの十ヶ月強が過ぎ去るのを待つことくらいだろう。殿下が最後の一線を越えられないことだけを必死に祈りながら。そしてすべてが終わったら、一生残るような怪我か病気でもして婚約を辞すればいい。
今すぐ辞するのは、二人の間の障害を減らすだけ。新たな婚約者が選ばれたとしても、わたくしが経験した悲しみを他の娘がなぞるのだから。
それとも殿下は、婚約者がわたくしでなかったら巫女姫にお心を寄せられることもないのかしら。それを試してみる勇気は、心の余裕は、まだない。
わたくしは行儀悪く寝返りをうって、左胸に両手を当てそこを守るように身体を丸めた。
じくじくと痛むそこに、目に見える傷はない。実際に血を流しているわけではないのだから、見ないふりくらいできるはずだ。
もう一度やり直すことに前向きにはなれないけれど、ハンナの胸にすがり付いたってこの現実からは逃げられない。
それならばせめて、殿下の前では今まで通り笑っていられるように。侯爵家の一員、殿下の婚約者、未来の王后として、恥ずかしくない振る舞いを続けられるように。完璧な淑女のままで、殿下の“好き”が終わるのを見届けよう。
◇◆◇
シャンデリアの灯りに照らされて、キラキラと笑いさざめく美しい人々。その中でも一際光り輝くお美しさでいらっしゃるのが、他ならぬ王太子殿下だ。
わたくしはずっとずっと、この方を見つめてきた。凪いだ翡翠の瞳にわたくしを映していただきたくて、それも叶わぬならせめて「いい子だね」と言っていただきたくて、お隣に立たせていただくことに誰からも異を唱えられぬよう必死に努力を重ねてきた。
わかっている。
これはわたくしの身勝手さだ。断ち切ると決めたはずなのに、そうしなければいけないのに。胸が張り裂けてしまいそう。
歓迎式典にて、わたくしは過去二回と同じように巫女姫に挨拶をした。今回はきちんと取り繕っていたから殿下にわざわざ病み上がりを気遣っていただくこともなかった。
だから大丈夫だと思ったのに。
巫女姫が他の方たちとも順に挨拶を済ませ、学園生を中心に同年代の方々と談笑していた時のこと。
わたくしももう侍女のような役回りは終わって、殿下の左隣に立って黙って微笑んでいた。
「私、国ではずっと田舎の離宮に籠っていたので、こんなに華やかな夜会に出たことはないんです」
「まぁなんて勿体ない。こんなにお可愛らしい御方を隠したままにしていらしただなんて」
「本当に。神託が下されたことに感謝いたしますわ」
「いや、そんな! 私なんか全っ然かわいくないですよ!」
「まぁ、ご謙遜を」
殿下の右隣に立つ巫女姫は照れたようにはにかんで、けれど自分に光が当たることを純粋に喜んでいるように見えた。彼女の生まれを考えれば、確かにこれまで顧みられることは少なかったに違いない。
「ほんとに何もかも初めてのことばっかりで。すっごくワクワクします!」
興奮に頬を染め水色の瞳を輝かせて笑う可愛らしい少女。きらびやかな社交界、高度な学問、一時の淡いロマンス。そんなものを夢見て、巫女姫はこの国へやってきたのだろう。けれど、田舎の離宮から解き放たれ自由になったと思ったその身には、“巫女姫”というより強固な鎖が巻き付いていた。
それは、同情すべきことだろうか。
薄く浮かべた微笑を扇子で半分隠しその下で考え事をしていたわたくしは、楽団が奏でる曲が変わったところで誰にも気付かれないよう小さく溜め息を溢した。まぁ注意せずとも、皆の視線は目に見えてそわそわとしだした巫女姫に集まっているから、気付かれるはずもないのだけれど。
「巫女姫様、いかがなさいました?」
「いや、あの……この曲、知ってるので」
「まぁ!」
「わたくしもこの曲は好きですわ」
皆の視線が巫女姫から、遠慮がちにわたくしへと移動してくる。わたくしは扇子を畳み、慎重に笑みをたおやかなままに強めた。
「どうぞ皆様、踊っていらしたら?」
「では巫女姫殿、一曲お相手願えますか?」
わたくしが以前と同じようにそう言うと、殿下は一度わたくしの肩に軽く触れてくださってから、巫女姫にダンスをお申し込みになった。まるで物語の王子様のように。
「はい、喜んで」と本当に嬉しそうに巫女姫は言って、差し出された殿下のお手にピンクの手袋に包まれた小さな手を重ねたのだ。
殿下と巫女姫に続いて、若者たちが次々と広間の中央に出て踊りだす。
一気に華やかさを増したダンスホールを、わたくしはただ黙って見つめていた。口元に描いた美しい弧が崩れぬように、それだけを意識して。
『触らないで!』と、叫びたい衝動に駆られる。
わたくしの愛しい方に、触らないで。
醜い感情。わかっているのに、目の前に赤がちらついて息ができなくなっていく。
わかっている。殿下はこの国の王太子殿下で、決してわたくしが独り占めできる御方ではない。
わかっている。わたくしはもう、殿下に相応しい淑女ではない。
わかっている。殿下はわたくしに、お心を向けてはくださらない。
それでも、“好き”の気持ちだけはどうしようもないの。
『邪魔してやる』と、見えない傷口から血を流しながら、心が必死に叫んでいる。痛くて苦しくて悲しくて、だけどもう、繰り返したくない。
「マリアネラ」
低く響く声と、殿下より大きくゴツゴツとした手。
「そのまま私に凭れていなさい。体調が悪いのならこのまま屋敷へ戻る」
「……えぇ、お父様。お願いします」
少し楽になった息をゆっくり吐いて、わたくしは目を閉じた先のただの闇に意識を投げ渡した。
◇◆◇
微かに伝わる振動とは別に、ゆっくりと身体が上下している。それが誰かの呼吸にあわせた動きだと気付いて、のろのろと開きかけていた瞼を慌てて数度瞬かせ顔を上げた。
「気が付いたか。もうじき着くぞ」
「貴女、また熱が出ているのですよ。無理させるんじゃなかったわ」
「……お、父様……お母様……」
「何だ?」
すぐ目の前にいる両親を呼んではみたものの、混乱しているし熱もあるらしい頭ではうまく考えがまとまらない。わかるのは、父がわたくしを抱き締めてくれていたことくらいで、けれど意味がわからない。
「殿下は……?」
「ゆっくり休むようにとの仰せだ」
「ご心配を……」
「まったくだ。いずれは体調管理も公務の内だと言うのに」
「あら、素直にマリィが心配だと仰ったらいいのに」
父の眉間の皺が、険しくなった。母はといえば、いつも通りの涼やかな顔をしていて、けれど黒真珠のような瞳は楽しそうに父に向けられていた。そしてわたくしにウィンクまでしてみせる。
混乱は極まるばかり。そういえば、母は幼いわたくしを『マリィ』と呼んでくれていたと思い出す。まさか今でも呼ばれているとは思わなかった。
なんだか酷く居たたまれなくなって、もう一度父に抱き付いて固い胸板にぐりぐりと頭を擦り付けた。こんなこと一度もしたことがないけれど、今なら許される気がしたから。
「お、おい!?」
「あらまぁ」
「……お父様、お母様。わたくしのこと、大切に思ってくださっていますか?」
熱にかこつけた浅はかな問い。答えは、すぐには返ってこなかった。
後悔と恐怖が背中を這い上ってきて、おずおずと父から離れようとした。けれど武骨な手が頭に下りてきて、ぎこちなく撫でてくれたから、ひび割れた心が、沁みて痛い。
気付けば次々と弱音を口にしていた。
殿下をお慕いしていること。巫女姫が殿下と恋に落ちてしまいそうだということ。そうなったら、自分を保っていられないこと。
淑女として相応しくないとわかっていて、それでもどうしようもないこと。
母の細長い指が、いつの間にか解けた髪を何度も梳いてくれていた。