2-2.みのらぬ緋
巫女姫と侯爵子息は急速に仲良くなっていった。
わたくしは案内役を降ろされたわけではないので、笑いあう二人から付かず離れず、時折ピシャリと鞭を打つ日々。
「ここがわからないの」
「どこです?」
「巫女姫様、たまにはご自分の力でおやりになってはいかがです?」
「むぅ……」
「大丈夫、一緒にやりましょう」
「わぁい!」
甘えた声で子息に擦り寄る巫女姫を見ていると、前回のことを思い出す。
前回にも、似たようなやり取りがあったのだ。わたくしの口調はもっと和やかで、侯爵子息の席には殿下がいらしたのだけれど。だからきっと、ある意味で順調なのだろう。
「巫女姫様、もっと淑女たる自覚をお持ちになってくださいませ」
「わかってますぅ……」
「貴女様は“巫女姫”でいらっしゃるのです。その意味をご理解なさいませ」
「十分わかっておいでだろう! 貴女はそうやってすぐ巫女姫様を追い詰める」
「いいの! 私が悪いんだわ……」
「私は……貴女の味方ですから」
侯爵子息が庇ってくれることに慣れたのか、巫女姫が少し反抗的な態度をとるようになってきた。わざとわたくしに叱られて、子息に慰めてもらっているような気さえしてくる。
それにしても、侯爵子息が巫女姫への好意をこれほどあからさまに示すとは予想外だった。本来許されることではないのだから、殿下はもっとお上手にお気持ちを隠していらしたのに。
学生たちも二人の仲を怪しみ始めた。その上で、静観、擁護、批難の態度をとっているけれど、今はまだ静観派が大多数だ。次いで批難派。擁護派はごく一部で、それも巫女姫の置かれた立場を憐れむ者で恋愛自体を容認する者はほとんどいない。
前回は、皆最後まで静観していた。と言うより、それ以外の選択肢をわたくしが許さなかった。
出回るのは断片的な噂だけで、事の全容を知る者すらほとんどいなかっただろう。殿下の婚約者であり巫女姫の案内役であった、二人の一番近くにいたわたくしが、ずっと口を閉ざしていたのだ。他の者が余計なことを言えるはずもない。
けれど今回は違う。わたくし自身が積極的に、二人の仲を心配するふりをして噂を振り撒き火種を煽っているのだ。
「神の妻であるはずなのに、あのように殿方と親しくなさって」
「親しげに見えるからと言って、まだ“そう”と決まったわけでは……」
「“そう”であったら大問題でしょう」
「国に報告しておいた方がいいだろうか……」
「皆様、口さがないことはおよしになって。巫女姫様も子息様も、ご自分のお立場は十分ご承知ですもの。万が一にでも間違いなんて……えぇ、わたくしの考えすぎですわ」
障害が多いほどに恋は燃え上がるのだと、巷で流行りの恋愛小説にも書いてあった。そして人は、そういった恋の噂が大好きなのだとも。
「巫女姫様、貴女様は“神の妻”でいらっしゃるのでしょう。弁えられたらいかがです?」
「彼女を愚弄するな! 私が勝手にお慕いしているだけだ!」
「まぁなんてこと……恥を知りなさい!」
「止めてお願いっ! もう放っておいてよ!」
「……聞かなかったことにして差し上げます。お二人とも、ご自分のお立場をよくお考えになってくださいませ」
そしてもっと、取り返しのつかないくらいの業火となって、その身を焼き付くしてしまえ。
悪いことを、虚しいことを、している自覚はある。
巫女姫に神を、侯爵子息には国を、裏切らせようと仕向けているのだ。二人にその道を歩ませることで、前回のわたくしのように絶望に叩き落とされる人がいるかもしれないのに。
◇◆◇
秋も深まり、わたくしは王太子妃(予定)としての公務にフィールドワークを兼ねて、地方の孤児院を慰問して回ることになった。
慰問自体は毎年の行事で、本来は王后陛下のご公務だ。けれど陛下はもう何年もご体調が優れず長旅はお体に障ると、殿下や降嫁なさり公爵夫人となられた王妹殿下が代行なさっていた。わたくしは殿下が成人なさった三年前から随伴させていただいていて、今年は遂に一人で“わたくしの”公務として出向くのだ。
そして、この慰問は前回の殿下と巫女姫にとって、重要な契機でもある。
「私も一緒に行ければよかったんだが」
「恙無く終えてご報告申し上げますわ」
久し振りに学内のカフェで殿下とお会いできて、話題はすぐにその公務のこととなった。巫女姫と殿下を会わせないように立ち回っていたおかげで、わたくし自身も殿下となかなかお会いできなかったので、テーブルを挟んで向かい合いながらつい綻んでしまいそうになる顔をはしたなくない程度の笑顔に保つのが大変だ。
「少しは緊張したりしないのかい? 私がいなくて心細いとか」
「まぁ。そんなことを言っていたら、この先務まりませんもの」
「それもそうだ」
殿下が冗談に笑ったかのように笑みを砕けたものに変えられた。それだけで、周囲からうっとりとした溜め息が聞こえてくる。作り物だとわかっているのに、わたくしも見惚れてしまいそうだ。
「そういえば、最近巫女姫殿とはどうだい?」
「相変わらず、わたくしの話はあまりお聞き届けくださいませんわ。侯爵子息様も巫女姫様を甘やかしてばかりいらして……」
「それは困ったね」
殊勝に相槌を打ちながらも、殿下に嘘を申し上げている罪悪感に苛まれる。けれどそれは、わたくしが巫女姫のことを憂いているような表情に見えるはずだ。
前回、わたくしが慰問から戻ると、殿下と巫女姫の仲は目に見えて近くなっていた。わたくしが留守の間に『湯殿の件』が起きたからだ。
けれど今回は、そんなことは起きないはずだ。
随分と未来を歪めてしまっているから同じようなことが起こる保証はないけれど、巫女姫と侯爵子息との間で親密さが増す何かがあるだろうと踏んでいる。もっとも、子息は今の時点で前回の殿下よりずっと巫女姫に入れ込んでいるから、本当に取り返しがつかないところまで進んでしまうかもしれない。
それが不安でもあるし、楽しみでもある。
わたくしが煽りと火消しを一手に引き受けて立ち回っていたため、二人の仲は今や公然の秘密となって誰もが好き勝手に噂している状態だ。
愚か者たちがあと一歩、線を越えてしまえば、もはや隠してはおけない。皆一斉に糾弾に回り、可哀想な恋人たちは引き裂かれる。隣国へ強制送還の後、良くて生涯幽閉。子息に至っては侯爵家が切り捨てれば死罪もあり得るだろう。それとも侯爵家もろとも潰されるだろうか。
いずれにせよ隣国が騒乱に陥るのは明白だ。
そうなれば、巫女姫も少しは絶望するだろうか。
愛する人を奪われ、無力感に苛まれるこの胸の痛みを、少しは理解してくれるかしら……
「君が留守の間は、私もそれとなく巫女姫殿たちに気を配っておくよ」
殿下がそう仰ったのは、わたくしの憂慮を払ってくださろうとの優しいお心遣いから。けれど、わたくしには不穏な響きでしかなくて、内臓がグニャリと捻れるような気がした。
殿下はこれまで巫女姫に興味を示されなかったのに。どうして、今……
「……ありがとう、ございます。けれど殿下もお忙しいのですし」
「国賓の接待は私の仕事でもある。君が一人で背負う必要はないよ」
優しいお言葉、凪いだ微笑み。王太子として当然のことだと、仰せなのは間違いない。
けれど、今殿下と巫女姫を近付けるのは、とても嫌な予感がするのだ。それなのに、動揺して言葉がまとまらない。
「ですが……」
言ってしまおうか。
胸に燻る不安をすべて。
「ん?」
わたくしの抱える醜いモノを。
「……巫女姫様は、とてもお可愛らしい方ですから、その……」
「マリアネラ……まさか、私が巫女姫に近付くのが嫌なの? 嫉妬しているのかい?」
お声が少し、低くなる。分厚い硝子が感情を封じ込め、凪いだ表面だけは美しい翡翠色。濃い色硝子の奥は、決して見えない。
その笑みの下で、何を思っておいでなのだろう。煩わしいと、呆れていらっしゃるの?
すっと、頭と背筋が冷えた。止まりかけた呼吸を意識してゆっくり整えて、にっこりと丁寧に笑みを作ってお返しした。
「まさか。婚約者として勿体ないほどのお心遣いをいただいていますのに、これ以上の高望みは分不相応というものでしょう」
すらすらと申し上げれば殿下が少し眉を上げられて感心してくださったのがわかった。
「……私の心まではいらない、と?」
「もしいただけるのでしたら身に余る光栄でございます。けれど殿下のお心は殿下のものですわ」
震えそうになる唇を、必死に吊り上げ優美な弧を作る。これは嘘を申し上げているわけではない。
貴族の政略婚に愛情は必要ない。わたくしも、殿下のお心まで求めてはいけないと教育されてきた。だからこれは、叩き込まれた未来の王后としての心得を諳じているだけ。
胸がズキズキと痛むのは、ただの気のせいだ。
「まったく……」
殿下が急に席を立たれたのでわたくしも慌てて立ち上がる。殿下は円テーブルの縁に沿ってわたくしのいる側へ回っていらっしゃると、胸の前で重ねていたわたくしの両手のうち左手を取って薬指の先に口付けを落としてくださった。
「いい子だね」と。
指先から甘い痺れが全身に拡がっていく。胸が苦しくて、だけど嬉しくて、心臓の音がうるさくて、周囲の興奮したようなざわめきも気にならない。
「君が婚約者でよかった」
「勿体ないお言葉ですわ」
手を取っていただいたまま、深々と膝を曲げ頭も下げる。心からの敬意と忠誠を込めて。
これでいい。
醜いわたくしなんて、いらない。殿下にはお見せできない。
優雅に笑って『理想の仮面夫婦』を続けること。それが殿下のため、国のため、わたくしのためなのだ。
「こっちのことは何も心配いらないから、気を付けて行っておいで」
「はい、殿下」
殿下のお心は殿下のもので、“好き”の気持ちはどうしようもない。
わかっている。
今のわたくしは理性と感情がバラバラで、けれどそのすべてを飲み込んで微笑まなければ殿下のお隣に立てないのだ。
でも、どうか……たおやかに笑いながら殿下の“好き”が芽吹かないよう、実らないよう、祈ってしまう愚かなわたくしを、誰か許して。
◇◆◇
二週間の旅程は、わたくしが馬車に酔って少し体調を崩した他は特に何の問題もなく進んだ。
馬車酔いは長旅にはつきものだし、公務に支障をきたすほどでもない。それよりも、直に国を見て回ることでそこに生きる人たちを守りたいという思いを強くすることが大切だ。
特に、一度失敗してしまった今は尚更そう思う。今度こそ、この国と殿下の未来をお守りするのだ、と。
それなのに、子供たちと一緒に麦を刈って、パンを焼いて、食卓を囲んで、久し振りに屈託のない笑顔ばかりに囲まれ、喜びと覚悟と少しの馬車酔いを引き摺って学園へ戻ったわたくしを待っていたのは、信じられない話だった。
胸が痛くて、息ができなくて、視界が真っ赤に染まっていく。ふらりと後ずさった覚束ない足元から悲しみに埋め尽くされて、溺れてしまいそうだ。
殿下がお使いの湯殿に、巫女姫が乱入した。
巫女姫は「間違った」と言い張っているらしいけれど、そんな馬鹿な話があるわけがない。あって堪るものか。前回同様、仕組んだに決まっている。
侯爵子息がいるのに、どうしてわざわざ殿下にそんなことを仕掛けるの?
考えようとしても頭を占めるのは「何故どうして」ということばかりで、息ができなくなっていく。なけなしの理性が擦り切れていくような気がして、怖くて堪らない。
壊れた人形のように首を振り続けても、起きてしまったことは覆らない。
この半年、わたくしがしてきたことは何もかも無駄だったのだ。わたくしの祈りは届かない。この歪んだ心を、誰も許してはくれないらしい。
むしろこれまで噂を許していたせいで、今回の湯殿の件は衆人の知れるところとなってしまった。そしてこれをあくまで“事故”とするために、殿下と巫女姫は別々の神殿で禊と懺悔を名目に謹慎を命じられた。
それで済ませられればよかったのに。
謹慎が明け学園へ戻った巫女姫は、何事もなかったかのように侯爵子息と仲睦まじく過ごし始めたのだ。
殿下はまだ自主的に謹慎していらっしゃるというのに。どれだけ人の心を弄べば気がすむの……
自分がどうして笑っていられるのかもわからないまま、わたくしは胸の内に確かにある悲しみと怒りの矛先を巫女姫に向けた。
寄宿学校時代からの信奉者たちを引き連れ、巫女姫の発言はすべて無視。冷やかすような忍び笑い。通りすがりに吐き捨てる暴言。
女の園で十年磨いた一対多数での嫌がらせの術は、厳しい小言が懐かしく思えるほどに精神を削るものだろう。
わたくしはきっと、醜い顔をしている。けれど、日増しに表情を暗くしていく巫女姫を見ても、最初からこうしていればよかったとしか思えなかった。
「どうか巫女姫様への嫌がらせを止めて差し上げてください」
「何のことでしょう?」
「彼女だって悪気はなかったのです」
「何の話をしていらっしゃるのか、わかりませんわ」
侯爵子息は憤慨したけれど、だから何だと言うの。わたくしは悪くない。全部巫女姫のせいだもの。
子息は巫女姫を守るため四六時中付きっきりとなり、それがまた人の噂を誘った。
殿下がお戻りになったのは、そんな頃だった。
◇◆◇
殿下はわたくしが慰問から戻るのと入れ替わるように神殿へ向かわれたから、お会いするのはほとんど一ヶ月ぶりのことだ。ご心労からか少しお痩せになったように見える。
「心配をかけたね」
「はい。ご無事のお戻り、安堵いたしましたわ」
「本当はもうしばらく籠っているつもりだったんだけれど……」
殿下はそこでお言葉を切られたけれど、仰りたいことは想像が付いた。殿下がわたくしに登城をお命じになり人払いまでなさるなんて、もうずっとなかったことだから。
「……最近、悪意ある振る舞いをしていると聞いた」
わたくしに真偽を問われるわけでもなく、殿下はただそれだけ仰った。
「国益にならないから、止めなさい」
なんてズルい言い方をなさるのかしら。けれどわたくしは一つ息を吐いて「はい、殿下」と頭を垂れた。やっと、息ができる気がした。
「君は本当にいい子だね」
そう仰ってくださった殿下のお顔は見えない。白銀の髪も翡翠色の瞳も晩秋の夕日に赤く照らされて、いつかの闇の中にいらっしゃるようだった。
もうじき雪が降る。
きっと夜会での『深酒の件』も、起きてしまうのだろう。