n-8.重ねたもの
すべてはこの傷から始まったこと。
あの日、血に塗れた手で握り締めた短剣が殿下の綺麗なお顔を切り裂いた。あまりにも遠い記憶なのに、鮮血は今なお色褪せることがない。
悲しかった。苦しかった。殿下がわたくしではなく彼女を選ぶことを受け入れられなくて、けれどそれは正しくない感情だから誰にも打ち明けられなくて、自棄になっていたのだと思う。それでも、自分一人でどうにかしなければと考えたわたくしの傲慢さは、やはり一国の王后たるに相応しくはなかっただろう。
『世界中を敵に回しても、君を愛している!』
誰にでも平等で聡明だった王太子殿下にあれだけのことを言わしめた、巫女姫の“力”。その力のせいだとしても、あの時殿下は誰かを想ってあの言葉を発したはずで。
わたくしはそれを、なかったことにしたかったのだ。
◇◆◇
穏やかに眠っていらっしゃるように見えた殿下が、不意に息苦しそうな呻き声を漏らされた。お顔の傷が目に見えて色濃くなり、脈打つようにして殿下を蝕んでいく。
人を呼ばなくてはと思うのに体は凍り付いたように動かない。
わたくしが負わせた傷がもとで殿下が苦しんでいらっしゃる……癒えない傷として残りたいと、かつて願った愚かな自分自身が恨めしくて恐ろしくて、思わず一歩後ずさってしまった。
『マリアネラ』
僅かに動いた唇。声は掠れてほとんど音にもなっていない。それでもわたくしの体は、心は、幾千万と重ねた同じ言葉を当たり前にお返ししていた。
「……はい、殿下」
引いた足をもう一度踏み出して、枕元に寄り添って、投げ出された手を不敬だと思いながらも両手でそっと握り締めた。それがわたくしの在り方だから。
「はい、殿下。ここにおります。お言い付け通り、帰ってまいりましたわ」
耳元で囁くように申し上げると、殿下の手がぴくりと跳ねてそれから弱い力でわたくしの手を握り返してくださった。
あの日も、こんな風に。
嗚呼……なんて、愛おしい。
◇◆◇
わたくしの意識は赤い闇に沈んでいった。それは間違いなく事実だ。
ただ、次に目を覚ますまでの間、その闇の中で漂っていたのもまた事実。その記憶だけを失っていたのは、自分のしたことが間違っているとどこかでわかっていて蓋をしていたからだろうか。
『殿下! 巫女姫様に、マリアネラ様……!? これは、いったい何が!?』
『すぐに医師を!!』
『いや、これでは、もう……』
赤い闇はゆらゆらと水面のように揺らめいて、わたくしという存在すらも曖昧で。降ってくる音はくぐもって反響して、意味を理解することもできなかった。
蓋をしていた自覚はないし、むしろこれが記憶として残っていたことに我ながら驚きを通り越して感心してしまう。だってこんなの、死後の記憶だ。
『彼女に触るな!』
『殿下?』
『……マリアネラ、なのか?』
『はぁ……?』
『嘘だ……だって、マリアネラはそこに……』
殿下が巫女姫の“力”から解放された理由はわからない。わたくしが『邪魔してやる』と願ったからだろうか。それとも親いご学友たちが地に崩れ臥したモノを「マリアネラ」と呼んだことでご自身の置かれた状況を疑ったのだろうか。
だったらせめてあともう少しだけ早く気付いていただきたかっただなんて、そしてこのまま終われていたらだなんて、今更思ったところでどうしようもないのだけれど。
『マリアネラ! マリアネラ、目を開けて! ねぇ……マリアネラ……』
嗚呼、殿下……
今更でしょう。降り注ぐ愛の言葉をわたくしは受け止められないのに。返事もできない。涙も拭って差し上げられない。
わたくしの名を呼び続けていらしたのが、やがてご自身や巫女姫へ向けた怨嗟の言葉に変わって。
嗚呼、嘆きと怒りに呑み込まれて、このままでは壊れてしまう……そんなことではいけないのに。理想の王太子であった方が今更、たった一人を失うだけで壊れてしまうだなんて。
愚かなまでに一途にわたくしを想ってくださっていた、愛しい人。それがますますご自分を追い詰めることになるのだと本当はわかっていらっしゃるでしょう。
わたくしを想って貴方が狂う。それだけのことが嬉しくて、申し訳なくて、悲しくて、愛しくて、許せなかった。
だから、願った。
『殿下。何もかもなかったことにして、やり直しましょう』
わたくしの愚行も、殿下の想いも、なかったことにして。もう一度殿下が正しく“王太子殿下”として立てるように。
赤い闇の中から手を伸ばせば、優しく握り返してくださった。
それが、始まり──
◇◆◇
ずっと忘れていた記憶を少し戸惑いながらも反芻する。そうして、目の前で浅く苦しげな呼吸を繰り返す殿下の胸にそっと触れてみた。少し早い心音に、いつだったか、隣国へ送られる前に抱き締めてくださったことを思い出した。
わたくしは一人繰り返していたつもりで、殿下を道連れにしていた。このいくつにも枝分かれした傷はきっと、これまでにわたくしと殿下が繰り返してきた道の数だけあるのだろう。
悩んで迷って間違いを重ねて、けれど結局、この最初に作った道に沿ってしか進めないようになっているのだと、突き付けられたような気がした。
傷はよく見ると一際濃くなっている箇所があって、それはしばらくすると場所を変える。もしかすると殿下は今、これまでの繰り返しを悪夢のようにご覧になっているんじゃないだろうか。濃くなった傷の道を夢の中で辿って、大量の記憶を整理していらっしゃるのでは……
繰り返しが自分の“力”によるものだと理解し受け入れたせいだろうか。その仕組みだとか記憶の扱いだとかが、まるで初めから知っていたことのように自然と脳裏に浮かんだ。
一旦手を退け、今度は今まさに濃さを増した傷に指先を這わせた。殿下のお顔が苦しそうに歪む。
「痛みますか?」
傷が。心が。
だとしたら、とても嬉しい。殿下がわたくしを想ってお心を痛めていらっしゃる。今、殿下のお心はわたくしで占められている。それは正しくないことなのに、どうしようもなく嬉しくて、だから悲しい。
歪な悦びに胸を高鳴らせるわたくしは、酷く醜い顔をして微笑っているのだろう。狂っている。
「ごめんなさい……」
こんな茶番に付き合わせてしまって。
「ごめんなさい……」
『邪魔してやる』と願ったのは愚かな女で。
『なかったことに』と願ったのは頑なな臣下だ。
邪魔シテ、ヤリ直シテ、何モカモ、邪魔シテ、ナカッタコトニ、邪魔シテ邪魔シテヤリ直シヲ邪魔シテ、何モカモ、ナカッタコトニシテシマエ──
嗚呼……すべてはわたくしの傲慢な願いのせいだ。二つの願いは絡まって、ねじ曲がって、いつまで経っても終われない。公爵の野望も隣国の謀略も、道を分ける要素でしかなかった。
理由もわからずただ繰り返す“時”に翻弄されそれでも足掻いていたのであれば、悲劇の主人公とも気取れただろう。けれど自分で深みに嵌まったのであれば……自業自得。
『人を呪わば穴二つ』
そう言ったのは誰だったか。ぐるぐる、ぐるぐる、空回り続け、摩り切れて今ようやく綻びができた。やっと終わりへの道が見えてきたのだ。
それなのに、いっそこのまま時が止まって、否“止めて”しまえればいいのにだなんて思ってしまう。
今この瞬間、殿下はわたくしだけを想ってくださっていて、わたくしがそれをお諌めせず酔いしれていようと誰にも咎められはしない。己に課せられた役目からもこの罪からも目を逸らして、殿下と二人この狭い世界に閉じ籠っていたい。
過ぎた幸せは、そうやって在ったのだから……
◇◆◇
罪深くどす黒い欲望を無理矢理頭から追い出して、殿下が微かに唇を震わせる度に返事をしながら、どのくらいそうしていただろう。お顔は変わらず蒼白いけれど呼吸が落ち着いてきて、異様な傷もいくらか薄くなった。
長い睫に縁取られた瞼が震えて、半分ほど持ち上がる。現れた綺麗な翡翠色にはうっすらと涙の膜が張っているようにも見えた。
瞬きの後、視線がこちらに向く。
「……マリア、ネラ……」
「はい、殿下」
わたくしの願いは歪で、叶ってはいけないことだ。わかっているから、殿下が無事にお目覚めになったことに安堵する。終わりに向かって動き始めた“時”を恐れてはいけない。わたくしは心を奮い立たせようと精一杯微笑んだ。
途端、殿下は跳ね上がるように体を起こされたけれど、やはり鍛練を積んだお体でも無茶は無茶のようでぐらりと傾いでしまわれた。慌てて支えようと伸ばした腕は何故か絡め捕られてしまって、気付けばわたくしは寝台に押さえ付けられていて、すぐ目の前には暗い光を宿した翡翠色があった。
「……本当に、マリアネラなのか?」
そう訊ねるお声はとても弱々しくて、苦しそうにお顔をしかめられるから頬の傷がひきつれて見ているだけで痛々しい。思い出したばかりの、最初に殿下が壊れてしまう直前の表情にもよく似ていた。
「……傷に障りますわ、殿下。まだ安静になさらないと……」
理解は追い付かず暴挙に怯える余裕すらないまま、殿下のお体を心配したのはある意味で逃避だったのかもしれない。
抱き締められて、体が強張る。
「マリアネラ、マリアネラマリアネラマリアネラマリアネラマリアネラ……!!」
耳元で殿下がとめどなく名前を呼んでくださるけれど、あまりのことに頭の中が真っ白になって返事もできない。全身が心臓になってしまった気さえする。
震える背中に同じくらい震えるこの腕を回して抱き締め返すことができたら、どんなにいいだろう。
まだこんなにも“好き”だなんて、言えるわけがないのに。
苦しくて小さく一つ咳き込んでから、息ができていなかったのだと気付いた。殿下も気付いてくださったようで、拘束が少し弱まり肺に空気が入ってくる。
「殿下、傷が」
「マリアネラ……すまない、マリアネラ……」
壊れて延々と鐘を鳴らし続ける仕掛け時計のように、殿下は震えながらわたくしの名前を呼んで謝り続けるばかり。
いったい何に対しての謝罪なのだろう……傷付けて? 気付かなくて? “好き”になって?
「ご自分を、責めないでくださいませ」
貴方が壊れるところを、もう見たくないの……
嗚呼、それは思い出すべきじゃない。
「マリアネラ」
「はい、殿下」
「……すまない」
返事ができないのは、苦しいくらいに抱き締められているからだ。謝罪を受け入れられないからじゃない。きっと。
「失礼」
不意によくわからないまま殿下から引き剥がされて、気付けばわたくしを抱き締める腕は母のものに換わっていた。殿下は、あろうことか近衛にお体を拘束されている。
「殿下! 貴殿方なんてことを!」
「マリアネラ、慎みなさい。無体をなさったのは殿下の方よ。ご自覚はおありですわね、殿下?」
「あぁ……」
現実に引き戻されて頭は冷えていくのに、顔には熱が集まっていく。今の今まで、わたくしは寝台の上で殿下に抱き締められていたのだ。
許可を得てお部屋に立ち入っていたとはいえ、未婚の男女がしていいことではない。恥ずかしくて情けなくて、現状への焦りとがごちゃ混ぜになってうまく考えられない。
「……殿下は、悪夢に魘されておいでで! 混乱なさっただけです!」
「お目覚めになられたのだからもう貴女がお側に付いている必要もないでしょう。帰りますよ」
「お母様っ!?」
さっきまであれほど優しく接してくれたのに、どうして今更厳しいことを言うのか。非難がましい目を向ければ、わたくしと同じ黒い瞳が悲しそうに伏せられた。
そして顔を上げた母は、侯爵夫人として揺るがない態度をはっきりと示す。
「王太子殿下には、まずはご快癒のほど心よりお喜び申し上げます。国王陛下より御沙汰が下されますまで、今しばらくこちらにてお過ごしくださいませ」
「『部屋から出るな』と……そういうことかい?」
母は恭しく頭を下げて肯定し、一度わたくしに目を遣った。
「先程のお振る舞いは、娘の名誉のためにも他言いたしませんわ」
「あぁ、是非そうしてくれ」
つまり、何もかもなかったことになるのだ。
わたくしがここに長く留まったことも、殿下が抱き締めてくださったことも、きっと、お目覚めになった事実も。
「お母様……どうして?」
嗚呼、声が震えてしまう。わかってしまっていることを理解したくなくて、けれど受け入れなくてはいけない。
「陛下は、私を見限られたのだね」
殿下がぽつりとそう仰った。それがすべてだ。
陛下は、殿下がお目覚めになったとしてもその事実を伏せておくと、最初から決めていらした。つまり、殿下はこのお怪我が原因で身罷られたことにされてしまうのだろう。
黙って首を横に振る。何度も何度も。母は柳眉を少し下げて憂いを見せた。
「……少しだけ、殿下とお話しする時間を作りましょう」
ほんの少し声色を明るくして言う母に、わたくしよりも近衛たちの方が驚いた顔をする。
「陛下やお父様には内緒よ?」
「でも、そんなことをして……」
「わたくしを誰だと思っているの? それともこのまま無理矢理連れ帰られたい? わたくしはそれでも構わなくてよ」
慌てて首を振ると母は殊更に目を細めわたくしの頬を撫でてくれた。
「これはね、わたくしの罪滅ぼしでもあるの。これまでの貴女に我儘を言わせてあげられなかったから」
人の見ている前でまた泣いてしまいそうで、思わず母の胸にすがり付く。
「そういうことですから殿下、まずはお召し替えあそばしませ」
少し得意気に聞こえる母の声よりも、その内容で頭がいっぱいになる。殿下は薄物の夜着をお召しで、そんな状態の殿下とわたくしは二人きりになって抱き締められたり……倒れてしまいそうで益々母に寄りかかると、優しく頭を撫でてくれた。
母と並んでソファに腰を下ろす。
「何もかも終わるまで邸にいた方が辛くなかったでしょうに……」
「『終わりを見届けたい』と言ったのはわたくしですもの」
こんな終わり方を望んではいないけれど、だからと言ってこれ以上何ができるかはわからない。
殿下の“力”は国にとってあまりに危うい。ならば巫女姫と一緒に処分してしまおうと、陛下がお考えになったとしてもおかしなことではない。『暗殺者が巫女姫を騙って王太子に近付きその命を奪った』という筋書きは安易だけれど、その背後に公爵家と教会を据えて報復すれば国を脅かすものを一掃することはできる。だとすればその中で隣国との戦争は回避されるよう、既に何か密約でも交わされているのではないだろうか。
公爵家を潰し殿下を失えば、王家の直系男子の血は絶える。残るもう一方の公爵家には王妹殿下がお生みになった男児があるから緊急措置として彼に王位を継がせれば“血の力”にすらも打ち勝てるだろう。そして隣国には大きな貸しを作ることができる。
国家という単位で考えるならば、これはきっと最善策なのだ。
納得できないのは、わたくしがどうしようもなく殿下を“好き”だから。そして“殿下の御代”を願い続けたからだ。
◇◆◇
少しして、奥の扉が開き殿下が戻っていらっしゃった。母と一緒に立ち上がり、殿下が腰掛けられてから座り直す。
何から話せばいいのかと戸惑っているうちに、母が口火を切った。
「無礼を承知で申し上げますけれど、次娘に不埒な真似をなさったら問答無用で連れ帰りますわ。お小さい頃とは違います」
「当然だろう」
母が幼い殿下とわたくしを非情に徹して引き離していたら、こんな想いも生まれなかったのだろうか。誰かのせいになんてしてはいけないのに、膝の上で揃えた手を握り締めながらぼんやりとそんなことを思った。
「……マリアネラ?」
俯いたままのわたくしに、殿下が気遣わしげなお声を掛けてくださる。気力を振り絞って顔を上げれば、殿下は夜着からシャツとジャケットの平装に着替えておいでで少しだけ肩の力が抜けた。
ただ、わたくしを映す美しい翡翠色の奥にはこれまで見たことがないほどの熱と苦悩があった。それがどういう意味を持つのか、わからない方がいいのだと反射的に思う。
言葉を失っていると、殿下は綺麗なお顔を歪めるようにして微笑まれた。
「みっともないところを見せてしまったね」
「いえ、わたくしこそ大変なご無礼を……」
「あれだけ愚かなことをしてきたのに、まさか君が枕元にいるとは思わなかったから」
「堪え性のない殿方は嫌われますわよ」
「お母様……」
「今更マリアネラに好いてもらえるだなんて自惚れはしないよ」
じくりと、たった一言が胸を刺す。
殿下は、わたくしがまだ殿下をお慕いしていることをご存じでない。もしくはご自分のなさってきたことの積み重ねにより想いは冷めてしまったものだとお考えなのだ。
けれどきっと、その方がいい。想いが通じてしまったら、わたくしたちは何よりも“好き”を優先させてしまう。お互いだけに没頭するその様は巫女姫のすることと変わらない。
自惚れでなければ、殿下は“特別”となったわたくしを失うことに耐えられないだろう。
そんなことでは駄目だから。
「……陛下のお考えは、変わらないのでしょうか?」
逃げるように話題を逸らす。
「こんな愚か者を見捨てないでいてくれたのは君くらいだよ。私は間違いすぎた」
「でも! 殿下は巫女姫に惑わされただけで……」
悪いのは“力”で心を歪めた巫女姫と、時を歪めたわたくしなのに。
「それで許される立場でないことは君もわかっているだろう?」
「でも、でも……」
嗚呼、ちっとも逃げられない。口を開けば“好き”の気持ちが溢れてしまう。殿下を失いたくなくて、足掻いてしまう。
淑女なら、フェリシアーノの娘なら、王家と国家に忠誠を誓うのなら、陛下の決定に従わなければならないのに。
「今の私は国にとって憂いでしかない。取り除くべきで、それなら国の益になるやり方でなくてはね……」
殿下が自嘲を滲ませながら仰って、愚かなわたくしは聞き分けのない子供のように首を振る。
「……殿下には、至尊の座に在っていただきたいのです。わたくしは、殿下の安らかな御代を願って繰り返したのですから」
わたくしは殿下の婚約者だ。こんな終わりに納得できるわけがない。
大きく見開かれてから瞬きを一つ。そうして、凪いでいらした翡翠にまた感情が揺らめく。
「君は……いつもそう言ってくれたね」
“好き”だと伝えられないのなら、せめて絶対の忠誠を。殿下個人へ。大切に育てた、もう一つのわたくしの気持ち。
「わたくしにとって、国とは殿下ですもの」
刷り込みでも依存でも盲信でも、何でもいい。わたくしは、殿下がいらっしゃらなければ息すらできない。
「……マリアネラ! 何てこと……駄目よ。陛下の命に逆らうなんてとんでもない!」
母がわたくしを抱き寄せる。体にがっちりと回された腕の力は淑女らしからぬ強さで、いくらもがいてもびくともしない。
「お母様、放して! 殿下は悪くないのですっ! 陛下だって判断を間違われることはあるでしょう!? 国益のためとはいえ親が子を切り捨てるだなんて! どうして臣下として陛下をお諌め申し上げないの!?」
母が小さく息を飲んだ。拘束が緩む。それで言い過ぎてしまったことに気付いた。
「それが、貴女の本心なのね……」
「ちが……」
「貴女を助けなかったお父様やわたくしに思うところがあるのでしょう?」
「違うの! わたくしはただ、ただ……」
殿下と一緒にいたい。生きて、いきたい。
願いは口に出せないから、少し荒い呼吸音だけが部屋に残る。
「マリアネラ」
「……はい、殿下」
「……一緒に逃げようか?」
嗚呼……お互いに、とっくにわかってしまっている。わたくしは殿下を、殿下はわたくしを、どうしようもなく“好き”なのだ。
言葉にしなくても、忠誠心と誤魔化しても、隠しようがない。何度繰り返しても色褪せず、むしろ繰り返す度に強まるばかりで……
「なっ!? 殿下まで何を仰いますの!?」
動揺する母に対し殿下はあくまでも冷静でいらして、わたくしに向けてくださる視線はどこまでもお優しい。
「死んだことにして身を隠すのは古来からよくあることだろう。国のためと理解はしても、こんなにも案じてくれる女性を遺して逝きたくはない」
「……陛下がお許しになるはずがありませんわ」
「その国を捨てると言っている。マリアネラ、おいで?」
「駄目よマリィ!!」
強い力で掴まれた手首からゆっくり目線を上げ母と向き合う。
「我儘を言わせてくださるのでしょう?」
もしものためにと、後ろめたく思いながらも忍ばせていた懐剣を自分に向ける。まるで始まりの場面に戻ったような構図に思わず笑みが零れた。すべては道筋に沿っている。
「マリィやめて……」
「でしたら手を離してください。でないとわたくし、うっかり自分を刺してしまうかも」
母もわたくしが最初に何をしたのか、父に聞いているはず。揉み合いにでもなればわたくしが死んでしまうと連想するだろう。
震える刃を首に当てたままゆっくりと立ち上がり、目線は母から動かさずになんとか殿下のお側まで辿り着いた。殿下の腕が腰に回り体を支えてくださる。
「道を空けてくれるね?」
とても静かに、穏やかに殿下は仰った。
◇◆◇
走る。走る。走る。
殿下に手を引かれ、ドレスの裾を翻し、きっとそれは男性の早足とそう変わらない速度で、それでも走った。すれ違う人たちは皆一様に目を丸くして、顔を見合わせて上役に指示を仰ぎに行く。誰も、すぐにはわたくしたちを止められない。解き放たれた小鳥のように、わたくしたちは自由だった。
勝手知ったる大理石の廊下にヒールの音を響かせて、大階段まで来ると殿下が抱き上げてまでくださった。
「転んだりしたら大変だからね」
甘く微笑みあやすように背中を撫でてくださる。幸せで、幸せすぎて怖くて、何も見なくてすむように殿下にしがみついた。
けれど庭に出たところでつい顔を上げてしまって、茜色の空を背負った城の尖塔がやけに大きく見えて、そうすると自分のしていることの重さが一気にのし掛かってきた。
惑わされたとはいえ国を捨てて“好き”を貫こうとなさった殿下を、わたくしは裏切り者と詰ったのに。さっき自分で危惧したのに。これでは巫女姫と変わらない……
「……殿下」
「何?」
「もう、十分ですわ」
さくりと、芝生を踏む足が止まる。前庭を通り抜けて厩へ向かうおつもりだったのだろう。
「『逃げ出してしまいたい』と。その願いはもう十分に叶えていただきました」
殿下はお返事をしてくださらず、再び黙々と庭を進んでいかれる。
「殿下、殿下……」
しがみついたまま駄々をこねるように首を振るわたくしは、なんて我儘なんだろう。
「これだけの者にお姿を見せたのです。いくら陛下でも簡単には覆せませんわ。王太子殿下として、真に為すべきことをお考えになりませんと」
「『嫌だ』と言ったら?」
「お諌め申し上げるのがわたくしの役目です」
殿下がわたくしを下ろしてくださったのは、庭の隅にある四阿。そのベンチに並んで座り、殿下はそっと肩を抱いてくださった。
「……私の心まではいらない、と?」
それは二度目にも訊かれたことで、けれど胸の痛みは二度目の比ではない。
「殿下のお心は、殿下のものですわ。巫女姫にもご自身の“力”にも、明け渡したりなさらないで。わたくしを“弱味”にしないでくださいませ」
殿下のお心は、求めてはいけないものだった。王太子殿下とは誰に対しても平等であるべき存在だから。そう教えられてきた。
だから、わたくしの命たった一つで殿下が壊れてしまうだなんて、わたくしが畏れ多くも殿下にとって“たった一人”だったなんて、考えもしなかった。
父は、その片鱗を感じていたのだろうか。だからこそわたくしに、厳しく自制を求めてきたのだろうか。それならいっそ、この弱くしぶとい心を叩き割って消し去って、人形の蔑称そのままの氷のような娘に育ててほしかった。
殿下を“好き”でいることが、こんなにも辛いなんて……
「マリアネラ、どうか顔を上げて?」
労るような柔らかな物腰に怖じ気づいてしまう。けれど殿下の仰せとあらばわたくしは従うまで。
深く垂れていた頭をそろそろと上げていけば、殿下が翡翠の瞳を細めて優しく微笑んでくださった。けれどそこにはまだ狂おしいほどの熱と痛みがありありと滲んでいて、まるで微笑みながら泣いていらっしゃるかのように見えた。
「私は、本当に救いようのない愚かな人間だ。君を傷付け見殺しにした……なのに君は何度も、何度もこんな私に手を差し伸べてくれて、今もこうして……本当に、どう謝ればいいのか……」
知らぬふりをするべきその熱にすっかり魅入ってしまったわたくしは、視線を逸らすこともできずにぎこちなく首を横に振る。
「手紙でも諌めてもらったのに、父上たちには『絶対に君を諦めない』と息巻いてこの様だ」
「そんなことを仰ったら、陛下だって呆れられるに決まっていますわ」
なんて愚かな……それなのに嬉しいと思ってしまうわたくしは、もっと愚かで弱いただの娘だ。
「君は悪くない。悪いのは私だ。望むように振る舞えなくてごめん……止めてくれてありがとう」
「君が婚約者でよかった」
その言葉はわたくしにとってのみ『愛している』と同じ重みを持つ。口付けは、指先に。それが殿下とわたくしの正しい距離。
「……勿体ない、お言葉ですわ」
声が震えてしまう。どうしても欲しくて、けれど絶対に手を伸ばしてはいけないものをすぐ目の前に差し出されて、怯まずに向き合える人はどのくらいいるだろう。嗚呼どうか、きちんと微笑んでいられますように……
「君は私に“王太子”であってほしいんだよね?」
殿下のお声はいつもどおり穏やかで、ほんの少し細められた瞳もわたくしのよく知る凪いだ翡翠色だ。殿下らしい綺麗なけれど傷だらけの微笑みが嬉しくて、悲しくて堪らない。
「はい、殿下。どうぞ正道をお行きください」
「君がそう望むなら」
わたくしは殿下の“特別”にはなれない。なってはいけない。優秀な王太子と比肩するその婚約者、国家安寧の礎、そういう関係でなければこの国を守れない。
本来それが、わたくしの望みだった。
「それじゃあ、あの男だけが笑う結末を変えに行こうか」
「はい、殿下」
差し出しされた殿下のお手に自分の手を重ねると、殿下はいつもより少しだけ強くその手を握ってくださった。




